第5回では、西新宿の今昔とも縁が深い玉川上水についてご紹介しました。今回は、その続きで、玉川上水から神田上水(現在の神田川)に向けて掘りぬかれた用水路・神田上水助水堀(かんだじょうすいじょすいぼり)についてご紹介します。
前回はこちらをご紹介しました。
■【連載/歴史散歩】【連載/歴史散歩】十二社、淀橋浄水場と玉川上水
※過去の連載記事はこちら:西新宿の今昔物語~新都心歴史さんぽ~
神田上水の整備
江戸の発展と水事情については、第5回でご紹介しました。徳川家康は、天正18年(1590)に江戸に入ると、ただちに家臣の大久保藤五郎に上水の整備を命じます。こうして整備されたのが小石川上水で、これを拡大・発展させたものが神田上水です。承応2年(1653)11月に開通した玉川上水のおよそ50年前のことです。
神田上水は、井の頭池(現在の三鷹市井の頭にある井の頭恩賜公園内)を水源とし、途中、善福寺川(ぜんぷくじがわ)、妙正寺川(みょうしょうじがわ)が合流し、小石川の関口大洗堰(せきぐちおおあらいのせき、現在の文京区関口)に至ります。
多摩川という大河を水源とする玉川上水と異なり、神田上水は湧水池が水源であり、合流する善福寺川、妙正寺川も湧水池を水源とするため、常に安定した水量を確保するには補助水源が必要でした。そこで、寛文7年(1667)に神田上水の水量を補うため、玉川上水からの分水として神田上水助水堀が開削されたのです。
助水堀は、玉川上水を代々木の正春寺(しょうしゅんじ、現在の西参道口交差点付近)付近から分水し、神田上水の淀橋の手前までおよそ1.5キロメートルを掘りぬいた用水路です。堀は、十二社熊野神社の東をとおり、名所として知られた熊野瀧を経て、神田上水に架かる淀橋の手前で合流します。ちょうど、現在の新宿中央公園から十二社通りに沿って南から北に向けて貫流していたことになります。なお、助水堀は現在すべて暗渠になり、水路を見ることはできません。
梅の名所「銀世界」
正春寺付近で分水された助水堀は甲州街道を越え、現在の新宿パークタワーの西に沿って流れていました。この一帯は、江戸時代から「梅屋敷」「銀世界」と呼ばれた梅の名所でした。園内は広大な梅林で、将軍御目留(しょうぐんおめどまり)の梅や御腰掛(おこしかけ)の松、銀世界の碑などがあり、早春には一面が銀世界のようであったと伝えられています。明治42年(1909)東京瓦斯(ガス)が淀橋供給所を設置するため買収し、梅林や銀世界の碑は芝公園に移されました。ガスタンクは平成2年(1990)に撤去され、跡地には新宿パークタワー(丹下健三設計)が建設され、地域冷暖房の拠点である新宿地域冷暖房センターの再整備も行なわれました。現在、新宿パークタワーの敷地内に、銀世界稲荷があり往時を偲ばせます。
写真工業発祥の地「六桜社跡」
助水堀は、現在の新宿中央公園を南北に貫流していました。この助水堀の水を利用して操業していたのが、国産初のカラーフィルムを作った小西六(こにしろく)写真工業(現在のコニカミノルタ)です。小西六写真工業は、明治6年(1873)に麹町で創業し、写真機材の製造・販売で成長しました。明治35年(1902)には感光材の国産化を目指し、助水堀からの良質な水を得ることができるこの地に工場を設立しました。この工場は店主・杉浦六右衛門の名と商標「さくら」をあわせて「六桜社」(ろくおうしゃ)と名付けられました。工場は新宿副都心計画により昭和38年(1963)に移転し、跡地には昭和43年(1968)新宿中央公園が開園しました。
新宿中央公園内には、「写真工業発祥の地」の記念柱が立っており、跡地は新宿区地域文化財に認定されています。
江戸西郊の名所「熊野瀧」
新宿中央公園の北西端、現在の新宿区立環境学習情報センター付近には、江戸名所として知られた「熊野瀧」(くまののたき)がありました。現在の栄町通りに向かって助水堀が落ち込む地点です。十二社には、いくつかの滝があったと伝えられていますが、熊野瀧は天保年間(1830~1844)に発行された『江戸名所図会』に挿絵入りで紹介されたほか、二代目歌川広重の錦絵にもなっています。高さは三丈(およそ9メートル)と伝えられます。
幕末から明治にかけて活躍した落語家・三遊亭円朝の作で、明治21年(1888)に出版された「怪談乳房榎」(かいだんちぶさえのき)には、父の亡霊に助けられながら仇討ちを果たす主人公・真与太郎がこの滝に投げ込まれる場面があります。この噺には落合の蛍狩りなど、江戸近郊の名所が登場し、当時の人たちの行楽地も織り込まれたものとなっています。
神田上水との合流地点に向かう
熊野瀧を下り、助水堀は神田上水の淀橋方向に向かいます。栄町通りを越すと、新宿区立けやき児童遊園となりますが、この遊歩道の地下が助水堀です。助水堀は間もなく十二社通りを横切り、一般財団法人淀橋会館の脇を淀橋方向に向かいます。淀橋会館脇の細い通路の下が助水堀です。この通路に沿って大規模な開発事業が進められています。西新宿五丁目の街区整備事業です。この一帯は、かつては木造密集住宅や細街路が多く、不燃化推進特定整備地区に指定され、再開発が進められています。一帯は、免震構造の高層住宅を中心に、オフィスや商業施設、公園や緑地等ができる予定です。
淀橋の水車
『江戸名所図会』の挿絵「淀橋水車」を見ると、青梅街道の成子宿が描かれ、街道の左寄りに神田上水に架かる淀橋が見えます。橋の下方には水車小屋と細い水路が見え、その少し上には門があります。画面右上にも小さな橋が架かっており、水路が見えます。この挿絵の中で助水堀と神田上水への合流点について正確に確認することはできませんが、江戸時代後期のこのあたりの様子はよくわかります。
当時の助水堀には、米や麦を搗(つ)くための水車がいくつかあったようです。それは、当時の用水路ではよく見かける光景であったと思われます。江戸時代、久兵衛が持つ水車小屋では近在の米や麦を搗いていました。この家は八代将軍徳川吉宗ら歴代将軍の鷹狩りの際の休息所にもなっていました。挿絵に描かれた門と水車小屋は、あるいは久兵衛の家かもしれません。
幕末、嘉永6年(1853)のペリー来航に慌てた幕府は、近在の水車小屋に火薬製造を命じました。当時使われていた黒色火薬は、硝石に硫黄と木炭をかき混ぜて、これに水を加えて煮立て、乾燥して作られていましたが、かき混ぜる際の動力として、ふだん米や麦を搗いていた水車を利用しようとしました。しかし、この作業は危険を伴い、各地で火災が頻発したため、近隣の者たちはたびたび作業の中止を幕府に請願しました。そのような中、嘉永7年(1854)6月1日、淀橋水車で火薬製造中に大爆発が起こりました。その後も板橋や牛込、世田谷でも爆発事故があり死傷者も出たことから、幕府は水車を使用した火薬製造を取り止めました。
協力・写真提供/新宿区文化観光産業部文化観光課