前回はこちらをご紹介しました。
■【連載/歴史散歩】西新宿のパワースポット成子天神社で七福神巡りと富士詣で
※過去の連載記事はこちら:西新宿の今昔物語~新都心歴史さんぽ~
新宿駅西口に面した高層ビル、新宿エルタワー(西新宿1-6-1)裏手の植栽の中に、赤大理石で造られた「淀橋浄水場趾」の記念碑がひっそりと建っています。ここは当時の淀橋浄水場の正門の跡で、ここから現在の新宿中央公園の東半分を含む広大な区域がかつての淀橋浄水場です。
良質な飲料水に恵まれなかった江戸では、神田上水や玉川上水など、湧水や河川を水源とする大規模な上水道の開削(かいさく)により、武家屋敷や町屋に上水を供給していました。明治維新後も、江戸の上水が使用されていましたが、都市化によって管理が難しくなり、水質の悪化が問題となり、新しい首都のインフラ整備の一環としての上水道の改良が課題となっていました。明治19(1886)年にコレラが大流行し、およそ9800人の死亡者が出たことを契機とし、近代的な浄水場を整備することになりました。
予定地は、はじめ千駄ヶ谷でしたが地元の反対に遭い、当時の南豊島郡角筈村に変更されました。明治25(1892)年12月に着工、7年後の明治32(1899)年12月17日に落成式を迎えました。この一帯は、明治18(1885)年に開業した日本鉄道品川線(現在の山手線の一部)の新宿停車場の西側にあたり、武蔵野の面影を色濃くとどめた田園地帯でした。
総面積はおよそ34万平方メートル、現在の新宿新都心地区のほぼ全てにあたります。玉川上水を代田橋付近(現在の環状7号線泉南交差点)で分水し、玉川上水新水路(現在の水道道路)で浄水場に引き入れ、沈澄池(ちんちょうち)や濾過池(ろかち)などの施設で浄化しました。給水範囲は、現在の中野・渋谷・文京区のすべて、中央・新宿区の大半、千代田・港・台東・江東・豊島・北・荒川区の一部という広大な地域に及びました。浄水場の開業により、浄化した水を鉄管で密閉、圧送するようになり、清潔なだけでなく消防用水としても発展していったのです。
浄水場の移転と新宿新都心の開発
昭和29(1954)年に発足した新宿区総合発展計画促進会が設立され、新宿副都心計画と淀橋浄水場の移転が推進され、浄水場は昭和40(1965)年3月をもって、その業務を東村山浄水場に移して廃止となりました。跡地は新宿副都心として公売され、昭和46(1971)年6月の京王プラザホテルのオープン以降、超高層ビルが林立する世界的なビジネスセンターに変貌し、平成3(1991)年の新都庁舎の建設により、名実ともに新都心となりました。
なお、超高層ビルの多くが、周辺の道路より低い面から建ち上がっているのは、浄水場の沈澄池・濾過池の底から建ち上がっているためで、この区域の碁盤(ごばん)の目のような区画も当時の池の地割をそのまま活用しているからです。
淀橋浄水場の名残りを訪ねる
「旧淀橋浄水場蝶型弁」〈新宿区地域文化財〉
浄水場で使用された鉄管に蝶型(ちょうがた)の止水弁(しすいべん)を取り付けた配水バルブで、数少ない淀橋浄水場の遺物です。現在は新宿住友ビルの三角広場にモニュメントとして設置されています。内径およそ1mの大きな鉄管で、バルブ中央部には東京都水道局のマークと「昭和十二年」という年代が刻まれています。傍らには「東京水道発祥の地」という銘板があります。
「旧淀橋浄水場六角堂」〈新宿区地域文化財〉
浄水場内に築かれた富士見台と呼ばれる築山の上に建つ洋風東屋(ようふうあずまや)です。富士見台は浄水場の沈澄池の工事で掘削した残土を積み上げて造られました。浄水場が一望でき、当時は視察者をここに案内して説明をしたそうです。浄水場当時の施設は姿を消しており、この六角堂と富士見台は現存する数少ない遺構(いこう)として貴重です。
「策の井」〈東京都指定旧跡〉
淀橋浄水場と関係はありませんが、江戸時代の地誌『江戸砂子』に徳川家康が鷹狩り(たかがり)の帰りに汚れた策(むち)を洗った井戸であると記されています。井戸は新宿エルタワーの車寄せ付近にありましたが、現在は蓋(ふた)をされ、ビル西南隅の植栽にモニュメントが建っています。
家康をはじめ徳川将軍は鷹狩りを好み、江戸周辺には将軍家のお鷹場(たかば)が設けられました。家康が策を洗ったと伝えられる井戸は、四谷の荒木町(かつての美濃国高須藩松平摂津守上屋敷内)にもあり、「策の池」〈新宿区地域文化財〉としてその一部が残っています。
協力・写真提供/新宿区文化観光産業部文化観光課