銀行員からフローリストへ。フランス留学というチャレンジで花開いた新しい生き方
「なぜあの時勇気を出さなかったのかと、後悔したくなかった」。福岡市で生花販売や花の教室などを行う「アトリエ一凛」の樋口智美さんは、自身のライフシフトの決断をそう振り返る。偶然目にした雑誌の1ページをきっかけに、銀行員としての安定を捨て、31歳でフランスへ花留学。帰国後はフローリストとして活躍し、39歳で起業、2024年には55歳で実店舗も開業した。すべては自身の気持ちに正面から向き合い、従ったからこそ成しえたキャリア。いくつになっても今を越えていこうと、未来へ突き進む彼女の姿はいつもキラキラと輝いている。
すべての画像を見る場合はこちら突如沸いたフランス花留学への熱く強い思い、そして得た新たなスキルとキャリア
短期大学では英米文学を専攻していた樋口智美さん。航空業界を中心に就職活動をしていたが、就職指導の教員からのアドバイスがきっかけで受けた、日本銀行の北九州支店に採用される。
「恥ずかしながらこれといった志望動機がなかったのですが、言われるがままに受けたら受かってしまい。ただ、外資系の航空会社は親の反応がよくなかったので、『とりあえず銀行に入って、2〜3年働いてから中途採用で外資系を狙えばいいか』と」
最初は軽い気持ちで入行した日本銀行だったが、居心地がよく働きやすかったため、気づけば11年もの月日が流れていた。その一方で、「自分はあくまで〝会社の歯車〟の一つでしかない」「もっと自分にしかできないことを職業にしたい」という思いが、ぼんやりではあるが彼女の心の中にくすぶり続けていたという。
そんなある日、書店で何気なく手に取った雑誌の1ページに目が留まる。フランスへ花留学した人の記事を見たその瞬間、彼女は「これだ!」と思った。
「自分でもびっくりするくらい本屋さんでドキドキしてしまって。急にフランス行きたいって気持ちが、ふつふつと沸騰してくる感じでした。もともと熱しやすく冷めやすい性格なので、少し時間をおいて落ち着こうとしたのですが、どうにも眠れない日々が続くほどになってしまい、これはどうしたもんかと(笑)」
これは一過性の衝動ではないかもしれない。そう思った彼女は、信頼している年上の友人に相談することに。すると「30歳だし、物見遊山でフランスに行くわけではないだろうが、なんだか顔がふわふわしている。もう少し考えてみたら」と諭された。
「そこで、自分の気持ちを整理するために、簡単なマインドマップを作成しました。〝なぜこんなにフランスに行きたいのか〟〝銀行を辞めることのメリットとデメリット〟〝不安なこと、楽しみなこと〟など。とにかく書き出していった結果、最終的に残ったのは、やっぱりフランスに行きたいという強い気持ちでした。
ここで決断しなければ、きっといつか『なぜあの時、勇気を出せなかったのか』と後悔するかもしれない…その未来が何より怖かったんです」
気持ちが固まった樋口さんが再び友人に話すと、「なんか顔がすっきりしてるから、大丈夫だと思うよ」という言葉が。両親はかなり驚きつつも、「あなたの人生なんだし、もう決めちゃったんでしょ」と背中を押してくれた。
銀行を辞めてフランスへ花留学をすることを決意した樋口さんだが、書店で記事を見かけてからなんと10日も経たずのことだったという。フランス語力はゼロだったため、自宅近くの教室で基礎を学んだり、フランスで通う語学学校を探したりと目まぐるしく準備。そして1999年12月に銀行を退職し、翌2000年1月にはフランスへと飛び立つ。31歳の時だった。
樋口さんはまず、パリから3時間ほどの郊外にあるシャンベリの語学学校に入学。のどかな田舎町で4カ月間みっちりとフランス語習得に励んだのち、パリへと移り住み、語学学校に通いながら生花店で働くという生活が始まった。
「『どこかすてきな花屋さんがあれば働きたいなぁ』『大きなお店はなくて小さなお店がいいなぁ』なんて考えながら、パリの街をぷらぷらしていたんです。そんな時、とてもウィンドウの飾りが素敵なお花屋さんを見つけて。『ここがいい!ここで働いてみたい!』と直感で思いました」
渡仏して半年、「働きたいです」というフランス語は言えるようになっていた彼女は、そのままの勢いで店に入って直談判。フランスにはスタージュというインターンシップ制度があり、その書類があれば雇うという返事だった。
「私の通っていた語学学校はその書類を発行してくれると知っていたので、『よっしゃ、もらえまっせ!』てな気分でした(笑)。勤務は朝7時ごろからスタート。市場で買ってきたお花の水揚げをしたり、その日行く生け込みの準備をしたり。そのあと10時から12時まで語学学校に行き、午後から閉店まではまたお花屋さんで働いていました」
31歳にして花留学という選択をした樋口さんだったが、それまで花を仕事にするとはそれまで考えてもみなかったという。
「いわゆるOLの習い事のひとつとして、お花は習っていました。もともと田舎に住んでいたこともあって、雑誌に出てくるような素敵なお花を扱っているお店があまりなく…。『ないんだったら、自分でやってみたいな』と。今思うと、恐ろしいほど単純ですよね」
2年間の予定だった花留学だが、結果的に約3年をフランスで過ごすことになった。
「自分の人生に、こんなにキラキラした時間が訪れるなんて思いもしませんでした。はたから見れば苦労したように見えることもたくさんあったかもしれません。でも、そもそも言葉もろくに話せない状態で行ったわけですし、苦労するのが当たり前だと思っていたので何が起こってもへっちゃらでした。
日々節約して、月に一回だけは贅沢しようねと、友達とがんばっていました。『今月はピエール・エルメのケーキを買おう!』とか『来月はあそこの日本食レストランでウナギを食べよう!』なんて。そういう楽しみを糧に、節約生活ですらエンジョイしていました」
2002年末に帰国した樋口さんは翌年から、留学中からの縁で東京のフローリスト会社に入社。外資系のホテルでおもにウェディング装花を担当したほか、ホテル内の空間装飾、さまざまなブランド企業のパーティやイベント装花にも携わった。
そして、2007年に同社を退職すると、ふとこれからの身の振り方について思い悩んでしまう。それまでの仕事があまりに多忙だったこともあり、「少し燃え尽き症候群だったのかもしれません」と、樋口さんは語る。
「もう、お花の仕事を辞めてもいいかも…とまで考えていました。でも、東京を離れる際に花市場でお世話になっていた方へご挨拶に伺ったところ、『花は辞めないでね』と、フローリストナイフをプレゼントしてくださって。その時、『あー、もう少しやってみるかなぁ』と自然と思えたんです」
ワクワク感があれば大丈夫!いつでも新しいことにチャレンジする気持ちを大切に
もともとフランスにいるころから「いずれは福岡に戻ってお店を持ちたい」と考えていた樋口さん。東京で働いたのは想定外ではあったが、多くの現場を経験できたことで、自分が地元でどんなふうに花に関わっていくのか、考える時間になったとか。
そして、福岡に戻った樋口さんはまず店舗を構えるのではなく、ネットショップから始めることに。ちょうどそのころ、フランス時代に仲のよかった友人が福岡でネット関連の仕事をしていたことから、手伝ってもらいながらサイトの立ち上げに取り組んだ。
こうして自宅をアトリエ兼の仕事場とし、2008年に「アトリエ一凛」として出発。ネットでの生花販売のほか、ウェディングブーケの受注、会場装飾など、花にまつわる仕事を請け負うようになる。パソコン操作が得意ではないなど、最初は苦労の連続だったが、それ以上の喜びも大きかったという。
「ホテルでの仕事と違い、〝私の作品が好き〟と思ってくださる方からご注文をいただけることが心からうれしくて。やれるところまでやってみようと、覚悟を決めることができたんです。自分にしかできないことを探してキャリアチェンジしたからこそ、私の作るものをよしとする方とつながることができる仕事にしていけるよう、頑張ろうと思いました。
最初のころは、ほとんど売上がない状態でしたが、さまざまな花屋さんがあるなかから、当店を見つけてくださるお客さまに出会えることも励みになっていました」
そんなある日、東京時代の元同僚から大きなプロジェクトの話が舞い込んでくる。そのためには法人であるほうがよいとのことで、急遽、10日ほどで株式会社を設立した。そして、プロジェクト終了後も「せっかく法人にしたのだから」と、地元のホテルウェディングを担当する生花店のコンサルティング業務などにも携わるようになった。
「振り返ってみると、売り上げがなかなか伸びなかった時期は、確かに大変だったと思います。ただ、私は基本的に楽天家なので、『こうしたら変わるかも』『まだやっていないことがあるから、やってみよう』と、前向きにあれこれ試しながら進んできました。
特別にドラマチックな出来事があったわけではありませんし、今も事業が軌道に乗っていると言い切れるかどうかはわかりません。『もっと出来ることがあるし、こういうの作ったらどうかなぁ』とか、いつも考えています。
そんな中でも、東京時代の同僚から福岡でのイベント装花の仕事を紹介してくれたり、フランス時代の友人が力になってくれたりと、人とのつながりに支えられてここまで来られたと実感しています」
これまでの樋口さんの人と人とのつながりは、ほかにも「アトリエ一凛」での事業に活かされている。それが不定期で行っているフランスへの〝花の留学ツアー〟だ。
「フランス時代にお世話になった方が、パリ郊外の花農園で働いていらっしゃるご縁から実現しているものです。現地では、自然に咲く花の枝ぶりや咲き姿を観察しながら、自分で花を摘んで花束を作るという体験をしていただきます。
参加者は、プロのフローリストから趣味でお花を習っている方から、花束づくりは未経験だけれどお花が好きという方、フランスの田舎へ行ってみたい方までさまざま。現地でのアテンドを行うので、フランス語ができない方にも安心してご参加いただけます。
留学時代の人とのつながりがあってこそ実現できているツアーですので、弊社にしかできない事業だと思っています」
ここまで自宅で事業を続けてきた「アトリエ一凛」だったが、ネットショップの情報から直接、客が訪ねてくるケースが増えていたという。「そろそろ店舗を構えたほうがいいかもしれない」と考えるようになっていた折、樋口さんがお世話になっていた近所の生花店が閉業することに。「よかったらこの場所でお店をやってみたい?」と提案され、2024年に「アトリエ一凛」の実店舗をオープンさせた。
「このありがたいお話をいただいた時、55歳でしたが、あまり年齢のことは気になりませんでした。花留学を決めた時と同じように、もちろんドキドキはありましたが、それ以上にワクワクする気持ちが大きくて。『ワクワク感があるときは大丈夫』という自分の中での不文律があるので、新しいことに挑戦する気持ちでいっぱいでした。
お店は駅前という好立地に加え、以前の店を利用されていたお客さまも立ち寄ってくださいます。ですので、敷居を高くせずに、でも少しずつ〝私らしい色〟にしていきたいなと」
「アトリエ一凛」の実店舗では、「自分が飾りたい」「もらってうれしい」と思える花や苗、鉢物を中心にセレクト。店頭で足を止めて「これはなんだろう?」と興味を持ってもらえるような、ちょっと珍しい植物なども取り入れていきたいとか。
「誕生日や特別な時だけでなく、『ちょっとおいしいワインを買ったから』『ちょっといいことがあったから』『今朝ちょっと家族が落ち込んでるようだったから』なんて、本当にちょっとしたことでお花を贈ってみる、その楽しさが伝わるといいなぁと。『あのお店に行けば、なんとなく素敵な花が買える』、そんな風に感じていただける場所を目指しています」
そんな樋口さんには実店舗をオープンさせる前、密かに温めていた目標があった。幸か不幸かすぐには実現できなくなってしまったが、必ずかなえると意欲的だ。
「還暦を迎えたらお花の仕事を一度辞めて、籠編みを学ぶために、フランスへもう一度留学するつもりでした。5年ほど前、バカンスで『Ecole Nationale d’Osiériculture et de Vannerie』という学校を訪れた際に、こちらの先生と話す機会があり。『ここで籠編みを勉強してみたい!』と思い始めたんです。
お店を始めたばかりなので、還暦での渡仏はちょっと延びそうですが(笑)。でも、いつかは絶対に行ってやる!って、心の中でメラメラしています」
偶然目にした雑誌の記事がきっかけとなり、銀行員から花留学を経て、フローリストに。「あのタイミングでフランスへ行かなければ出会えなかった、たくさんの人や出来事があります」。そう語る彼女にとって、そのすべてが今の自分や仕事につながっていると感じているという。
「あの時、決断をしなかったら出会えなかったのかと考えると、思い切ってよかったとつくづく感じます。フランス語をしゃべれるようになるとは思ってもみなかったし、お花を仕事にしようとした時も、その後お店を持ったりイベントのパーティ装花をしたりするとは想像もしていませんでした。
本当にたくさんの人に助けてもらっているんだなって。どこに向かって『ありがとう』を伝えたらいいのかわかりませんが、いいことも、そうじゃないことも含めてすべてに対して感謝しています」
人との出会いを大切にし、自身の直感に従いながら道を切り拓いてきた樋口さん。そんな彼女に、これからライフシフトを考えている女性にメッセージをもらった。
「何かやりたいって思った時に、つい『でも…』ってなってしまうことが…。でも、お金がない。でも、経験がない。でも、できるかどうか不安…。そんな時は、『だったらできるようにするにはどうしたらいいか』を考えてみてはいかがでしょうか。
たとえばお金がないのなら、必要な金額をいつまでにどうやって貯めるかを具体的に考える。経験がないのなら、経験を積める場所を探してお願いしてみる。〝できない理由〟を数えるのではなく、〝できるようにするにはどうしたらいいのか〟を考えてみる。それだけで、やりたいことにきっと一歩近づけると思いますよ」
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