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遠藤諭のプログラミング+日記 第185回

「AI」を使い尽くせ!――電子回路であれインターネット回線であれ使い尽くした者が勝者となった

DeepSeekショックと中国ITの歴史が教えるAIの未来

2025年04月29日 09時00分更新

文● 遠藤諭(角川アスキー総合研究所)

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2001年に上海・北京を訪ねたレポートを読んでみる

 さて、この原稿を書こうと思ったのは、中国発AIが大きく飛躍しそうな2025年と、中国のITが大きく飛躍しそうだった2001年を比べてみたかったからだ。

 2001年というのは、中国がWTO(世界貿易機関)に正式加盟を果たした年である。WTO加盟は、中国と中国企業にとって貿易自由化以上の意味を持っていた。外資系企業の現地採用による人材育成、国有企業の改革、知財保護による自主開発などがもたらされた。こうしたことは、中国に最新テクノロジーが根付いていく土壌を作ることにもなった。

 これは、ITの歴史を語る上で大きな転換点というべき出来事である。中国のテクノロジーとその産業(いまやそれが世界的にも大きな存在である)をいまの形に変えた。いわば、世界のテクノロジーに関する地勢図が書き換えられることになったタイミングである。

 中国は、生成AIによって、ふたたびテクノロジーにおける新たな転換点を迎えようとしているのではないか?

 それは、WTOへの加盟という政治的アクションではなく、中国発AIが、オープンソースの形で積極的に世界に出ることによるものだ。わずか1年ほど前には中国発AIはようやく米国製AIに競争力を持ちつつあるという程度だった(MITテクノロジーレビューが何度も記事にしている)。それが、DeepSeekによって大きく状況が変わった。この後にも多数のモデルが控えている。2025年のいまは、そういうタイミングなのだ。

 2001年の中国のIT事情について、私は同年7月に1週間ほどかけて上海と北京を取材した。その内容は『月刊アスキー』2001年9月号と10月号に「デジタル・チャイナ/中国13億人IT市場が動く」というレポート記事として掲載された。取材は日程など限られた条件下ではあったが、記事に「WTO加盟が正式に決まり」と書かれている空気の中での取材となった。

 この後に起こった中国のエレクトロニクス分野における大躍進が、これからAIの世界でも同じように起こる可能性を低く見積もることはできないだろう。では、20数年前の中国のIT事情はどうだったのか? 当時の記事を読み返してみることにした。

「デジタル・チャイナ(1)/中国13億人IT市場が動く」上海編

 記事は《わずか十数年前、中国へのお土産で喜ばれたのは「電卓」だったそうだ》という言葉から始まっている。《「中国は人民解放軍も回線を引いているんですよね」と、以前、あるプロバイダの方から聞いたと現地の人に伝えたのだが、まったくいつの話をしているのだろうと笑われた》などともある。

 間抜けな話に聴こえるかもしれないが、こう書いても恥ずかしくないくらい世の中は中国のことを知らなかった。中国レポートの記事が“赤”の背景でデザインされたのも同じようなことである。これこそ、いまとなっては恥ずかしい気もするが、当時は、こんなものかなという感じだったのだ。

 いまの中国の状況をご存じの方は、いまとは全く違う世界だと感じることだろう。もっとも、ネットやモバイル関連の企業も注目を集めており、たとえばLinktoneは、私の取材の時期と前後して、インデックスと三菱商事が出資したことで日本でも大きな話題となった。その後、2004年には米ナスダックへの上場も果たしている。

 「上海では大学でコンピュータサイエンスをやっている人が多く、アルゴリズムやプログラミング技術という点に限れば、世界的にもトップクラスの水準といわれる」という点は、特に注目に値する。また「上海を含めて各地にソフトパークが建設されており、入居企業には2~3年間の免税措置や賃貸料無料などの優遇措置がある」という記述もある。

「デジタル・チャイナ(2)/中国13億人IT市場が動く」北京編

 「デジタル・チャイナ(2)」は、「《いまの中国政府の指導者たちは、ほとんどが理工系大学の出身者ですよ》と言われた」という文章から始まっていた。当時の指導者たちは、江沢民(こうたくみん)国家主席が上海交通大学電機学科、朱鎔基(しゅようき)国務院総理が清華大学電機工程学部電機製造科、李鵬(りほう)全国人民代表大会常務委員会委員長がモスクワ動力学院の出身とある。テクノロジーが語れる人たちなのだ。

 これは、日本のニュースでは"経済改革が進む"という言葉でしか伝えられていないことへの私の違和感だったのだと思う。私が見た2001年の中国は、"電脳大国"を目指してひた走る姿だったからだ。なお、現在の中国の指導者は、必ずしも理工系大学や学科の出身者が多いとはいえないようだ。

 「聯想」は、上海や北京でもよく高層ビルなどに看板を見かけたが、2003年に「Lenovo」と社名変更し、2004年にIBMのPC部門を買収して、現在の我々がよく知るレノボとなった。

 「中国最大のシェアを持つパソコンメーカー《聯想》(LEGEND)は、中国科学院計算研究听が資本金と人材を提供して設立された企業だ。これは日本で例えるなら、東京大学や産業技術総合研究所が《東大》や《産総研》のブランドでパソコンを販売したり、ベンチャー企業を立ち上げているようなものである。北京近郊の中関村には、北京大学や清華大学など数十の大学、中国科学院をはじめとする約200の研究機関、そして約5千のハイテク企業が集積している」とある。

 この段階で中国のハイテク技術がどこまで行っていたのか? 精華大学では、中国で作られた液晶パネルやコントローラも見せてもらったが、まだこれからという品質だった。携帯電話は日本製にはおよばないが欧米の普及機種のレベルには達しつつあり、3Gの通信方式に関して独自規格であるTD-SCDMAを打ち出した。

 私が取材した2001年7月には、2008年の北京オリンピック開催が決定。その翌年2002年12月には、2010年の上海万博の開催も決まった。これらの国際的なイベントの開催決定は、この時期の中国社会のムードを大きく変えたはずである。GDPや貿易額も急拡大したわけだが、大手ネット企業や深センのスタートアップ企業も次々と台頭してくることになる。振り返ってみると、この時期はまさに中国のIT革命の前夜であり、その後の飛躍的な発展の材料が着々と整いつつあったことを感じさせる内容である。

 記事としては、このままいくともう完全に中国にやられるよというメッセージだったわけではあるが。日本国内はiモードが盛り上がっていて具体的な中国製品が来るのもだいぶ先なのでそんな気分ではなかった。

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