エリアLOVEWalker総編集長・玉置泰紀のまち散歩 第7回
風の盆、日本のベニス、円筒分水槽、トロッコ電車。富山県の魅力たっぷり”四つのユニークなまち”を歩いてきたぞ① 【富山市・八尾 おわら風の盆編】
富山県のメディア連携情報発信事業の一環で、県の中央から東部に当たる、富山市八尾、射水市内川、魚津市、黒部市宇奈月を巡ってきた。おわら風の盆や日本のベニス、美しさで知られる円筒分水槽、まだまだ知られていない富山のリンゴ、宇奈月温泉と黒部峡谷鉄道のトロッコ電車などに込められた地元の想い、仕掛けを歩くのが楽しい。北アルプス、立山など日本有数の山岳地帯から富山湾に一気に流れ込む川が作った複合扇状地は海外の大学も研究に訪れるほどユニーク。土地の多層的な秘密(レイヤー)を知れば、きっとメタ観光な楽しさがみんなを捉えて離さないはず。
第一回は富山市八尾。320年近い歴史を誇る「おわら風の盆」、300年近い歴史を持つ「越中八尾曳山祭」の動く美術品、曳山に迫る。
富山県は黒部川や常願寺川、神通川、庄川などの河川が形作る扇状地が複合して連なっているのが特徴。扇状地とは、土石流が山地から平野に出ると、河川勾配が急に小さくなるため流速が落ち、運搬力が弱まって抱えてきた土砂(砂礫)を置いていき、左右が開けているため、低いところを探すようにして自由に流路を変えながら流れ、土石流が何十回とくり返されると、やがて扇形に広がった緩やかな勾配をもった斜面が形成されるが、これを扇状地と呼ぶ。富山県の扇状地斜面の勾配は比較的急であり、概ね緩扇状地に相当するものは認められない。扇状地は砂礫からなり地盤としては一般に良好。
中でも黒部川は、3000m級の北アルプスから秘境黒部峡谷を一気に駆け下る世界でも有数の急流河川で、この急流によってつくられたのが、黒部川扇状地である。扇頂から扇端までの距離は13.5kmで典型的な扇状地としては日本一の大きさ。長い歳月をかけて扇状地にたくわえられた豊富な地下水は伏流水となって湧き出し、古来から清水(しょうず)として人々の暮らしと深く関わってきた。中でも海沿いのまち・生地では各所に名水が湧き、「名水街道」として親しまれている。
今回、巡った四つのまちも皆、富山県の地形や成り立ちとは切っても切り離せない。最高の漁場である富山湾と景色の後ろに広がる山々、そして扇状地ならではの果樹園やコメなど豊かな食、そして、地域の人たちが作ってきた歴史と文化が織りなす「メタ観光」について紹介したい。第1回は、風の盆や曳山祭で知られる富山市八尾の日本有数の蚕ビジネスで富山藩の御納戸とも呼ばれた土地の歴史と文化に迫る。
【富山市八尾(やつお)】立春から二百十日目の9月1日から3日までの「おわら風の盆」は土地の豊かさと地域の人の芸事への熱意が生んだ現在進行形の祭りだ
9月1日は、立春から二百十日目にあたり、台風到来のシーズンと重なる風の災厄日とされてきた。豊作を祈るとともに、風の災害がおこらないことを願う行事として「風の盆」という呼び名が付けられたと言われている。祭りの三日間、町中のぼんぼりに淡い灯がともり、揃いの法被や浴衣姿に編笠をつけた踊り手が、三味線、胡弓の地方(じかた)にあわせ踊り、町中を流し歩く。
まちの雰囲気と練りこまれた踊りや歌、演奏に衣装などが人気を集めており、今年は、行事運営委員会によると、最終日の人出は約4万人で、3日間で計約13万人が訪れた。2023年は金、土、日の週末開催と好天などにより、3日間で計約19万人が町を訪れたが、行事運営委は、今年は台風10号の接近など天候が人出に影響したとみている。結果的には、まさに、風の災厄を祭りが防いだ形で、無事開催された。
当日の様子は、訪れた人たちによって、X(旧Twitter)などSNSで数多くアップされていて、筆者も東京で、その様子を見ていた。今回は「八尾おわら資料館」や、「曳山展示館」を訪ね、踊りや曳山が彩る街並みを歩いてみたぞ。
●八尾の歴史 その豊かさが文化を作っていった
八尾町は神通川の支流である井田川と別荘川の間にある河岸段丘にあり、山田村などと共に、2005年に富山市と合併した。高台に形成された町並みは、見上げると山城の様でもある。町の起こりは、浄土真宗本願寺派聞名寺(もんみょうじ)が、越後上杉勢の来襲に備え、天文20年(1551年)、三方を崖に囲まれた旧い砦の址、「八尾前山」(現在地)に移ったことによる。寛永13年(1636年)には、境内に八尾町建てがなされ、町の母胎として今日に至っている。いわゆる、門前町である。
江戸時代には、富山藩随一の交易市場町として整備保護され、蚕種(さんしゅ)、生糸、和紙、木炭など山あいの生産物を売買する集散地として発展し、「富山藩の御納戸」との異名を持つに至った。この町の財力は、富山藩の収益のうち多い時には6割以上を賄えたほど豊かで、この財力を基盤に、贅を尽くした彫刻や彫金、そして漆工・金細工などで飾った曳山を作った。
八尾町は内陸部にある飛騨地方(現在の岐阜県)と日本海を結ぶ、飛騨街道と二ツ屋街道の両街道に接続可能な場所に位置し、富山城下や北陸道(北国街道)にも街道が延びていた事から経済的な発展の要素となり、文化10年(1813年)には八尾の蚕種が全国の四分の一を占めた。また、八尾和紙は、もともと字を書くための紙ではなく、加工する紙として製造され、薬袋や薬売りのカバンなど、売薬とともに発展してきた。品質の良さから、障子紙、高熊紙、松倉紙などを生産し天明8年(1788年)には紙問屋が34軒もあったと言う。
八尾の伝統的な町屋を再現した館内では、おわら中興の祖、初代おわら保存会長の故川崎順二にまつわる資料を中心に、小杉放庵(ほうあん)や野口雨情ら多くの文人墨客との交流の様子、歴史がうかがえる数々の資料を展示している。また、大型スクリーンから流れる映像により、輪踊りの中にいるような臨場感あふれるおわらが体感できる。
おわら盆は江戸時代の元禄年間(1688年〜1703年)のころから行われていたと言い、天保年間(1830年〜1843年)から明治にかけて全盛を迎えた。風の盆が現在のスタイルになったのは、昭和3年(1928年)に東町の医師、川崎順二(1898年~1971年)が私財を投げ打って、郷土芸能として普及させることを決意して日本画の大家で歌人の 小杉放庵に、新しいおわら歌を依頼したことから始まる。 また、小杉の紹介で日本舞踊家の初代・若柳吉三郎に振り付けを依頼し、昭和4年(1929年)に四季の踊り(新踊り)が誕生した。その後も、地域の人たちや、この地を訪れた人たちによって、常に進化してきたのが風の盆である。
昭和59年(1984年)に開館。越中美術工芸の粋を集めた絢爛豪華な曳山は6台が、県指定有形民俗文化財に指定されており、そのうち3台が同館に展示されている。井波の彫刻、城端の漆工、高岡の彫金など当時の名工の作で惜しげもなく飾り付けられている。この3台も毎年5月3日に行われる「越中八尾曳山祭」当日に展示館から外に出されて曳き廻される。曳山は、高さ7.5m、重さ約4tの二層構造で、多数の彫刻で飾り付けられている。
題材の多くは文学や芸術に根ざしたもので、不老長寿を手にした仙人たちの姿も随所に見られる。屋根の四隅には瓔珞(ようらく)が提がり、上層部の四本柱には各町の紋が入った天幕が張られ、御神体となる人形が載せられている。また、下層部の御簾が掛けられた中には囃子方が乗り、三味線・横笛・太鼓などの楽器を奏でながら曳山の巡行を盛り立てる。
八尾曳山の起源は、寛保元年(1741年)に八尾八幡社の例祭が行われた際、上新町が花山を作りその上に、富山藩より拝領した在原業平の人形(ひとがた)を飾って曳き廻したのが起源と言われている。その後、東町・西町・今町・諏訪町・下新町が曳山を作り、それぞれが財力を競いあうようにして豪華な曳山になっていった。
また、ふるさとを愛し、越中おわらの心と風景を板画に描いた、没後50年となる俳人板画家、林秋路(あきじ)(1903年〜74年)の名作の数々を展示室で鑑賞出来る。林は、北陸タイムス(北日本新聞の前身の一つ)で八尾の風景をスケッチした作品を連載し、風の盆のPRポスターに多くの作品が採用された。
八尾の基幹産業であった養蚕の展示も見ごたえがある。八尾町は江戸時代から戦前まで養蚕業で栄え、特に蚕種(カイコの卵)を多く生産し、全国に出荷していたことから「蚕都」と呼ばれていた。それがこの地域の人々の生活を支え、曳山やおわらという文化を育んでいったのだ。展示館では養蚕業の歴史や養蚕道具などを展示している。
八尾の名はこの地が飛騨の山々から富山へのびる八つの山にひらかれたことに由来するといわれている。諏訪町は、「おわら風の盆」が開催される八尾町の旧町と呼ばれる地区の一つ。旧町は、山の傾斜に石を積み上げた上に細長くできた坂の町で、石畳の道と格子戸や白壁の町並みは、今もなお昔ながらの風情を残している。
中でも、石畳の諏訪町本通りは、日本の道100選にも選ばれており、緩やかな傾斜の道には電信柱がなく、建物の裏側に回されている。
また、西町の西側には、整然と高く積み上げられた石垣とその上に立ち並ぶ町並みを見ることができる。八尾は、飛騨の山々から流れる多くの川が集まる地域で、古くから度重なる水害に悩まされていて、江戸時代に、川の氾濫から逃れるため、高台に町を開いたのが石垣の起源。井田川から高さ約30mの石垣の坂道を登ると、おわら風の盆のメイン通り石畳の諏訪町本通りが姿を見せる。
諏訪町本通りには、諏訪神社の向かいに、平成19年(2007年)に開店した「長江屋豆富店」がある。明治15年(1882年)に建てられたお店は、間口2間奥行き12間の“うなぎの寝床”といわれる細長いつくりの建物。二階建ての一階部分のみを豆腐の製造・店舗・倉庫に改築した。店の正面は漆喰と格子戸の典型的な町屋のたたずまいで町並みに溶け込み、暖簾やのぼりを出していなければ見過ごしてしまうほど馴染んでいる。明治23年の大火に焼失をまぬがれた諏訪町では二番目に古い建築物だという。
生搾りの豆腐は富山県産100%の大豆を使っていて、奥能登塩田村産の天然にがりもまた100%使っている。そして、水は、名峰立山から流れ下る世界屈指の急流“常願寺川”の伏流水を汲み上げた八尾の水。3000m級の北アルプスの雪どけ水が地中深くしみこみ、ゆっくりと濾過された清冽な水は、豆腐に適した軟水だ。
●若宮八幡社 蚕養宮(さんようぐう)
若宮八幡社(蚕養宮)は、八尾の町並みを見下ろす城ヶ山(古名は龍蟠山、標高200m)の山裾にある。若宮八幡社の創建は元禄6年(1693年)、富山藩の2代藩主前田正甫(まさとし)が若宮八幡社へ祭神誉田別尊(ほんだわけのみこと)の御神体を供奉し、御神霊(分霊)を勧請したのが始まりと伝えられる。蚕養宮の創建は天明元年(1781年)、山屋善右衛門が陸奥国から病気に強い原蚕種を仕入れると共に少名彦名命(すくなひこなのみこと)の神霊を勧請し城ケ谷に養蚕宮を建立したのが始まりと言う。
蚕養宮は明治11年(1878年)に若宮八幡社に合祀し村社に列し社殿を改築、大正12年(1923年)に東西新町の大工棟梁により再建されている。現在の社殿はその当時のもので拝殿は木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、妻入り、間口3間、正面1間軒唐破風向拝付き。八尾町は養蚕業、特に蚕種(蚕の卵)を生産出荷することで発展し、戦前に至るまで町の基幹産業だったため、 若宮八幡社(蚕養宮)は守護神として厚く崇敬されてきた。蚕養宮は平成13年(2001年)に富山市(旧八尾町)指定民俗文化財に指定されている。
●もつ鍋で知られる「楠亭」
住所:富山県富山市八尾町上新町2932−6
☎ 076-455-1272
地元で人気の食事処。もつ鍋や昔ながらの中華そば、自家製チャーシューが自慢の丼、チャーハンなどメニューが充実している。。日本の道百選の諏訪町本通り、おわら資料館や曳山展示館、桂樹舎和紙文庫などの観光施設が近くにあって観光に便利。
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