歴史的建造物と高層ビルが融合! 都市開発マニアが案内する「丸の内建築ツアー」 第3回

実は約100年前の竣工時の姿が今でも見られる! 関東大震災、第二次世界大戦も乗り越えた「日本工業俱楽部会館」

文●丸の内LOVEWalker

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 高層ビルや歴史的建造物など、丸の内の建物群を現場のレポートを交えながら紹介する連載「丸の内建築ツアー」。3回目となる今回は、歴史的建造物&高層ビルのうち、残されている歴史的建造物で2番目に古く、東京駅からも近い「日本工業俱楽部会館」を有する「三菱UFJ信託銀行本店ビル」を紹介していきます!

日本工業俱楽部会館と三菱UFJ信託銀行本店ビルの外観

再開発事業によって超高層ビル「三菱UFJ信託銀行本店ビル」に組み込まれた「日本工業俱楽部会館」

 「三菱UFJ信託銀行本店ビル」は、東京駅北西側の再開発により、地上6階、地下1階、1923年竣工の永楽ビルディングと新永楽ビルディングの跡地に、地上30階、地下4階、高さ148.4mの超高層ビルとして建設され、2003年2月に竣工しました。その際に低層部にある「日本工業俱楽部会館」は、大正期の時代を表現した建築であるという「歴史的価値」や、日本の工業界のシンボルであるという「社会的価値」、さらには丸の内エリアの景観形成に寄与した「景観的価値」などの重要性から保存されることになりました。しかし、詳細は後述しますが、日本工業俱楽部会館は関東大震災で被災しているだけでなく、現代の建築基準法に適合しないことなどから、そのまま保存することはできず、一方で文化財であることから可能な限りオリジナルな姿を維持することも求められたため、新築されたタワー棟地下構築物の上に免震装置を介して保存することとなりました。また、タワー棟の地下躯体と同一にすることにより、外部に生じるエキスパンションジョイントを回避することができ、景観面での美しさを維持することができています。

日本工業俱楽部会館の背後に新築された地上30階、地下4階、高さ148.4mの超高層ビル「三菱UFJ信託銀行本店ビル」

日本工業俱楽部会館は三菱UFJ信託銀行本店ビルに組み込まれる形に
新築された超高層ビルは日本工業俱楽部会館を避けるように低層部分がくぼんでいる

歴史的価値の高い1/3部分を完全保存、2/3部分を新築・再現

 「日本工業俱楽部会館」は、すべてを保存しているわけではなく、歴史的価値が高い大会堂、大食堂などのある会館1/3の西側を保存。関東大震災で被災が大きく、大きな亀裂が生じていた中央、東側部分は再現・新築となりました。西側の保存部分は再開発の際に炭素繊維による躯体補強を行ったほか、仲通り側へ約1.2mの曳家(ひきや、※建物をそのままの姿で傷つけずに移動する技術)がなされ、中央・東側部分と合体されています。当初計画時は、「全体を一度解体し、外観と内装を再現」、「曳家を行い、免震化にて全体を保存」という案もあったようですが、工期やコストなどの問題から、1/3を完全保存・曳家+2/3を新築・再現という形に収まっています。

煉瓦風のタイル張りの低層基壇部とガラスファサードの高層部分の全く異なる素材が織りなすコントラストが美しい

都市開発マニアが探索!「丸の内ダンジョン」第4回の「隠し通路見つけた! “ビルの細道”を覚えて めざせ丸の内ダンジョンマスター」で紹介した「サンクンガーデン」の壁面のうち、日本工業俱楽部会館側には、日本工業俱楽部会館の外壁タイルと同様のものが採用されている

「日本工業倶楽部会館」は今から約100年以上前の1920年に竣工

 「日本工業俱楽部会館」が竣工したのが1920年。1894年に丸の内初のオフィスビル「三菱一号館」が竣工し、1911年に帝国劇場、1914年に東京駅が誕生、「一丁倫敦(ロンドン)」と呼ばれる赤レンガ建築で統一された街並みが形成されていました。そして東京駅が開業したのち、1923年には東京駅前に地上8階、地下2階、高さ軒高約31.2mの「丸ノ内ビルヂング」が建ってからは鉄骨鉄筋コンクリート造のシンプルな外観のアメリカ式大型ビルが高さ100尺で建ち並ぶ「一丁紐育(ニューヨーク)」という街並みが形成されますが、その直前の1920年11月に竣工された建物となります。

丸の内は一丁倫敦から、一丁紐育を経て、現在では日本最大規模の超高層オフィスビル街となりましたが、日本工業俱楽部会館は現代の超高層ビルに組み込まれても違和感のない、街並みに溶け込んだ存在です

周辺の昭和建築のビルは完全に新しい超高層ビルに建て替えられてしまったが、日本工業俱楽部会館は今も残る

日本工業俱楽部会館の建設とその意匠

 日本工業俱楽部会館は、1920年11月竣工当時、地上5階、地下1階、延床面積8,612m2の集会場・事務所ビルで、建築主は社団法人日本工業倶楽部、設計はファサードが横河工務所の松井貴太郎、インテリアが橘教順・鷲巣昌、施工は横河工務所直営で行われました。

 外観はアメリカ式オフィスビルの形態にユーゲント・シュティルの意匠を加味した大正建築のファサードが特徴的なセセッション様式で、1階は石貼り、2階~5階はタイル貼りの煉瓦(れんが)風の見た目をしていますが、実は煉瓦造ではなく構造は鉄筋コンクリート造、一部鉄骨造となっており、外観は明治期の流れを受け継いで煉瓦風の色合いをしたタイル、テラコッタ(焼き物)を用いたものとなっています。

正面から見た日本工業俱楽部会館

1階は石貼り、2階~5階はタイル貼りの外観意匠

見た目は煉瓦造に見えますが実は煉瓦造ではなく、鉄筋コンクリートや鉄骨を主要構造としている。基本的に縦方向にタイルが嵌め込まれ、窓上は横方向のタイル、窓下にはテラコッタの装飾といった組み合わせになっている

 1917年に実業家329名により設立された日本工業倶楽部の拠点として建設され、1階にはホール、2階には大会堂、3階には談話室、大食堂、来賓室などが整えられたほか、正面玄関は国賓を迎えることを考慮して重厚な見た目をしたドーリア式オーダーのエントランスポーチとなっており、屋上には小倉右一郎によるハンマーをもった男性の「石炭業」と糸巻きを持つ女性の「紡績業」という日本の工業を示す2体の像の装飾が設けられました。外装には軒部に歯形の装飾や彫りが深い外観、枠が多くガラス1枚の面積が小さくなる田の字型の窓、エントランス横に設置された照明などが時代を感じさせます。また、内装はシャンデリアが設置され、柱と梁がアーチ形状になって繋がり、曲面を描く大会堂・大食堂や百貨店のように踊り場でT字に左右に分かれる階段、随所に設けられた装飾など、豪華な内観となっています。

1枚のガラス面積が現代のものよりも小さい田の字型の窓

ハンマーをもった男性の「石炭業」と糸巻きを持つ女性の「紡績業」という日本の工業を示す2体の像の装飾

エントランス部分の様子
ドーリア式オーダーの重厚な柱とスリットの田の字窓や扉が時代を感じさせる

エントランス横に設置されていたレトロな見た目の照明と日本工業俱楽部の銘板

地下の入口も実は存在している

関東大震災で被災、第二次世界大戦で供出・徴用という不運の連続!西側壁面は竣工時の姿が今も残る

 日本工業俱楽部会館が竣工してわずか3年後、1923年9月1日に関東地方を中心に関東大震災が襲いました。日本工業俱楽部会館でも1階の柱が3本座屈し、3階床には大きな亀裂が生じ、半壊状態という深刻な被害を受け、さらには建物全体が傾斜するという不動沈下も起きてしまいました。その後、修復がなされましたが、関東大震災から約20年で第二次世界大戦によって大階段の金属製の手すりが供出、軍に徴用され、もはや第一次世界大戦直後の好景気や日本の工業力の飛躍的な向上を示した姿もすっかり色褪せてしまいました。しかし、そのような不運の連続の中でも倶楽部会館として使われ続けました。

竣工時の姿が保存され、残る西側外壁の一部には亀裂などもみられる
関東大震災と第二次世界大戦という二度の苦難を乗り越え、今なお残り続ける西側外壁

東側の再現・新築部分とは異なり、歴史の重みを感じられる西側外壁

竣工時からの外壁(左)と再現・新築の外壁(右)の色合いの違い

 ということで、今回は「日本工業俱楽部会館」を有する「三菱UFJ信託銀行本店ビル」を紹介しました。こちらのビルは、第一次世界大戦後の日本の好景気、工業の繁栄の中、日本工業俱楽部会館が建設され、関東大震災と第二次世界大戦という苦難を乗り越え、現代に巨大な超高層ビルへと組み込まれ、華やかさを取り戻した歴史がありました。100年以上も前の姿が今も丸の内で見られる、ぜひ一度足を運んでみてください。