画像クレジット:Stephanie Arnett/MITTR | Envato
VR(実質現実)を使って鎮痛効果を得ようとする研究が進んでいる。血液採取や点滴の痛みを軽減する子ども向けデバイス「スマイリースコープ(Smileyscope)」は、臨床試験でその効果が証明された。
この記事は米国版ニュースレターを一部再編集したものです。
注射が大嫌いだ。私は大人の女性だが、採血時に腕に押し当てて神経を混乱させ、疼痛を軽減する「バジー(Buzzy)」という振動する蜂の形の装置を持っている。あまりに不安そうにしていたので、採血中に『モアナと伝説の海』を見られるよう、看護師がアイパッドを持たせてくれたこともある。
だから、米国食品医薬品局(FDA)の認可を受けた子ども用実質現実(VR)装置「スマイリースコープ(Smileyscope)」のニュースを読んで、とてもうれしかった。ポグルス(Poggles)というペンギンのアニメ・キャラクターに迎えられて水中の冒険を始めると、採血や点滴の痛みが和らぐというのだ。その深海世界では、アルコールの冷たいひと拭きが腕をなでるひんやりした波に変わり、注射針が刺さる感覚が魚の優しいひと噛みに変わる。
研究によると、この装置には効果がある。4歳から11歳の子ども200人以上を対象とした2つの臨床試験では、スマイリースコープは痛みの体感レベルを最大60%、不安レベルを最大40%減少させた。
とはいえ、スマイリースコープの作用メカニズムは完全には明らかになっていない。単に気を紛らわせるという以上に複雑なのだ。1960年代にさかのぼるが、ロナルド・メルザックとパトリック・ウォールは、疼痛信号が脊髄にある一連の「ゲート」を通過する過程で、一部は脳に到達するが、残りは遮断されると仮定した。脳がほかの刺激でいっぱいになっていると、ゲートは閉じられ、通過する疼痛信号は減少する。「これがVRの作用機序です」と、スマイリースコープの共同創業者で最高医療責任者(CMO)のポール・レオンはいう。
すべての刺激が同程度に効果的というわけではない。「従来のVRの場合、ヘッドセットを装着してビーチに行ったりします」とレオンCMOはいう。しかし、そうした体験は現実に起きていることとは無関係だ。スマイリースコープは刺激をポジティブにとらえ直すことを目的としている。気分や不安は、人間が疼痛を処理する過程に影響する。ペンギンのポグルスは手術前の徹底的なリハーサルに子どもたちを連れて行くが、これには不安をやわらげる可能性がある。「突然現れたキャラクター」と水中を冒険することは、病院の壁をにらみながら針を刺されるのを待つよりも、間違いなく気分を高めるはずだ。
「患者の気を紛らわせる方法はたくさんあります」と、心理学者でスタンフォード大学疼痛緩和イノベーション研究所の所長であるベス・ダーナルはいう。しかし、スマイリースコープのやり方は、「実に強力です」とのことだ。
研究者たちは何年も、同様のテクノロジーの開発に取り組んできた。ワシントン大学のハンター・ホフマン上級研究員とデイヴィッド・パターソン教授は20年以上前に、重度の火傷を負った患者が創傷被覆材の交換などの痛みを伴う処置に耐えられるよう、スノーワールド(SnowWorld)という実質現実(VR)ゲームを開発した。2012年にホフマン上級研究員は、「火とは正反対の世界を作り出しました」と、NPR(米国の非営利のラジオ・ネットワーク)に語っている。「涼しい場所、雪だるま、楽しいイメージなど、火について考えさせないためのあらゆるものを用意したのです」。ほかのグループは、術後の疼痛、出産、歯科医療などに伴う痛みに対処するためのVRを研究している。
企業はまた、より困難な問題に対処するVRデバイスの開発に取り組んでいる。慢性疼痛だ。リリーVRx(RelieVRx) は2021年に、FDAが初めて認可したVR疼痛療法となった(FDAは認可済みVR/AR(拡張現実)機器すべてのリストを保持している)。このデバイスの目的は、針を刺されるといった一時的な痛みとはまったく異なる、慢性疼痛に対処する方法を人々に教えることだ。「慢性疼痛はあらゆる点でもっとずっと複雑です」と、リリーVRxの開発に携わり、現在は同デバイスを販売するアプライドVR(AppliedVR)の最高科学顧問(CSA)を務めるベス・ダーナルはいう。
慢性疼痛は長期に及び、人生を変えてしまうことも多い。「長期間疼痛を感じ続けていると、神経系が文字通り変化します」と、ダーナルCSAはいう。「緊張が蓄積し、不安が持続し、活動レベルが変化し、睡眠障害が起こります」。危険が去った後何カ月も、何年も、ときには数十年も、警報が鳴り続けるのだ。
リリーVRxが目指すのは、気を紛らわせることではなく、マインドフルネス、認知行動療法、リラクゼーションなど、医師たちがすでに効果を認めている疼痛緩和戦略を教えることだ。「時間の経過に従って無益になる、生理学的に組み込まれた疼痛プロセスを忘れるように人々を助けているのです」とダーナルCSAは言う。「基本的には技能ベースです」。患者は1日6分間、8週間このデバイスを使用するが、多くの患者にとって、疼痛に対処する技能を習得するのにこれで十分なようだ。デバイスを使用後3カ月の時点で、患者の30%は疼痛強度が軽減したままだという。
リリーVRxのもうひとつの利点は、患者が自宅で使えることだ。つまり、認知行動療法のためにセラピストを予約する必要がなく、治療がより身近なものになるのだ。「この種の効果的な非薬物療法に対する障壁が取り除かれつつあります」とダーナルCSAは言う。これは薬物でコントロールできない慢性疼痛に悩む、米国の5000万人の患者にとって良いニュースだ。治療が難しいことで有名な症状に対する選択肢がひとつ増えるのだ。
VRは、慢性疼痛を抱える人々や、必要な注射に不安を抱く子どもたちへの万能薬ではないだろうし、リスクがないわけでもない。吐き気や頭痛、乗り物酔いを引き起こす可能性もある。とはいえある人々にとって、このテクノロジーはそれらのリスクに勝るほど有用だと証明されるかもしれない。たとえば、私だ。
痛みを伴う処置の際に患者に逃げ場を提供することは、医療上必須とは思えないかもしれない。いずれにせよ、手術はたいてい成功するだろう。しかし、その後の疼痛は強く、患者の体験は将来の医療システムとの関わりに直接影響する可能性がある。「幼少期の体験は、後の人生における行動形成に大きく影響します」とスマイリースコープのレオンCMOは言う。「毎回の注射は、うまくいくこともあれば、ひどく痛むこともあり、もしひどい痛みを感じてしまえば、次回は恐怖を感じます」。
その恐怖は深刻な結果を招きかねない。病院に行くのをやめてしまったり、治療を拒否してしまったりするのだ。実際、レオンCMOがスマイリースコープを設立したのは、子どもの頃に受けた医療処置がトラウマとなり、「医療と関わらなくなってしまった」嚢胞性線維症の患者がいたからだという。その患者は、ごく普通の採血のために麻酔を希望していた。「もっといい方法があるはずだと思ったんです」とレオンCMOはいう。
今は、そのもっといい方法かもしれないものがあるのだ。
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