今回のひとこと
「GAFAの人たちを見ると、社会人としては失格者といえる人たちが多い。私もその一人である。IIJも30周年を超えると、へんな人間が少なくなる。最後に残ったまともじゃない人間が私だけになる」
インターネットイニシアティブ(IIJ)が、創業から30周年の節目を迎えたのが昨年12月3日。その節目の1年を締めくくる最後のイベントという形で開催されたのが、2023年11月22日に行われたメディア関係者を対象とした懇親会だ。
「今後のインターネット社会の展望」などについて講演したインターネットイニシアティブの鈴木幸一会長は、広報が設定した約20分間という短い講演時間に不満を漏らしながらも、IIJの歴史に触れながら、鈴木会長ならではの言葉が並んだ。
日本のインターネットとともに歩む
30周年の節目の年の最後に、IIJの歴史を振り返ってみよう。
1992年12月3日に、国内初のインターネット接続事業者として創業したIIJ。創業メンバーは、鈴木幸一氏をはじめとした13人だった。
まだ、日本ではインターネットの可能性を理解している人がほとんどいなかった時代だ。その状況を裏づけるように、IIJの設立にあわせて、鈴木会長は10億円の資本金を想定していたが、支援を得られると考えていた企業からの出資がなくなるといった事態もあり、スタート時の資本金はわずか1800万円。最初のオフィスは、解体期日が決まっていたビルの1階。もともとはショールームで使われていたエリアであり、100人は入るスペースに、約10人が集まって仕事をしていたという状況だった。この場所は、いまではNTTドコモが入る山王パークタワーの位置になる。
設立のきっかけとなったのは、日本のインターネットの父と呼ばれる村井純氏(当時は慶應義塾大学助教授)と、のちにIIJの初代社長に就任する深瀬弘恭氏(当時はアスキーのソフトウェア開発部長。アスキーは現在では本誌を発行する角川アスキー総合研究所につながっている)の2人が、日本においてもインターネット接続サービスを開始しなければならないという危機感を持ち、経営のノウハウを持つ人物として、コンサルティング会社の経営などを行っていた鈴木氏に相談したのが始まりだった。
新会社がスタートし、同社が主催するインターネットに関するセミナーはいつも満席であり、1993年11月には、国内に限定した国内初のインターネット接続サービスを開始していたが、当時の規制では、本格的にインターネット国際接続サービス事業を行うには、特別第二種電気通信事業者として、郵政省(現在の総務省)から認可を得る必要があった。だが、インターネットという新たな通信を、倒産の可能性をはらむスタートアップ企業に手がけさせることを政府は懸念。なかなか首を縦には振らない状況が1年以上も続いた。
資金が枯渇するなか、折衝の結果、郵政省が提示したのが、最低3億円の財政基盤を証明することだった。そこで、鈴木会長は、金融機関から3億円の融資の保証書を取り付け、ようやく特別第二種通信事業者としての登録が認められた。認定されたのは、1994年2月28日であり、会社設立からは1年3カ月を経過していた。
その翌日となる1994年3月1日には、日本初のインターネット国際接続サービスを開始。第1号ユーザーには日立製作所、第2号ユーザーとしてNTTが契約。国内初となるダイアルアップIPサービスやファイヤーウォールサービスもこの年に開始している。
ちなみに、1994年は、米ヤフーや米アマゾンが誕生。米ホワイトハウスや日本の首相官邸ホームページが開催された年であり、世界初の商用ブラウザであるネットスケープの「Netscape Navigator」も、この年に公開されている。まさにインターネットが一気に広がるタイミングに、ぎりぎり間に合ったという状況だったともいえるだろう。
当時を振り返り、鈴木会長は、「日本で、商用インターネット接続サービスを始めようという意気込みでスタートしたが、創業し、半年を経過しても、認可は取れず、資金は枯渇してきた。役所や金融機関、大企業を回っても、誰もインターネットには投資しようとはしなかった。『出口の見えない努力』という言葉も耳にしたが、インターネットは、20世紀最後の巨大な技術革新という思いが変ることはなかった。社員は、月末に、わずかな現金の入った茶封筒を渡されるが、生活費すら満たせない額だったはずだが、インターネットの将来を疑う社員はいなかった」とする。
1995年1月に発生した阪神・淡路大震災では、電話はつながらなくてもインターネットで安否情報が伝えられたことが大きな注目を集め、IIJが果たした役割にも評価が集まった。これも、インターネットの将来を示す出来事になったといえる。
ちなみに、日本初のインターネット国際接続サービスを開始してから、わずか3カ月後には、出資企業は約20社にまで増加したというから、世の中全体に、手のひらを返すほどのインパクトがあったことは容易に想像できる。
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