丸の内LOVEWalker総編集長・玉置泰紀の「丸の内びとに会ってみた」 第3回

丸の内LOVEウォーカー総編集長・玉置泰紀の「丸の内びとに会ってみた」 第3回

誰もいない街に「井戸を掘った」男! 今の丸の内の賑わいと発展は「ミクニ」の店から始まった。世界の三國シェフに会ってみた

文●土信田玲子/ASCII、撮影(インタビュー)●曽根田元

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 丸の内LOVEウォーカー総編集長の玉置泰紀が、丸の内エリアのキーパーソンに丸の内という地への思い、今そこで実現しようとしていること、それらを通じて得た貴重なエピソードなどを聞いていく新連載。第3回は、日本が世界に誇るフランス料理のシェフ・三國清三氏。北海道の漁師の息子として生まれ、いくつもの出会いとたゆまぬ修業を重ね、持ち前の開拓者精神で世界へ飛び出し、日本の飲食業界のあり方をも大きく変えた。その世界の三國シェフと丸の内エリアとの関わり、そして古希を迎えてもなお、追っていきたい夢も語ってもらった。

フランス料理シェフ・三國清三

今回の丸の内びと/フランス料理シェフ・三國清三

「井戸を掘ってくれ」と頼まれた男が
丸の内の風景を一変させた

――丸の内との関わりはいつ頃から?

三國「1997年頃からですね。『ミクニズカフェ・マルノウチ』を開いたのが1999年12月。それ以前の丸の内エリアには、お店が一軒もなかったんですよ。ただ、三菱地所から出店のお話をいただいた時には、もうすでに東京駅周辺の再開発プランはできていました。丸の内仲通りを、ニューヨークの五番街のようにしたいと。

 カフェを造った場所には、もともとスイス銀行がありました。当時は週末に見に行っても人っ子ひとりいなくて、要はリーシング(商業施設の賃貸事業)を始めたはいいけれど、お店を誘致できなかったんですね。仕事でもなければ誰も来ないから。

 そこで、三菱地所の社長だった福澤武さんから『井戸を掘ってくれ』と頼まれまして、馬場先通りと仲通りの角に店を構えました。馬場先通りの南には有楽町が、その先には銀座があるじゃないですか。東京駅周辺のビジネス街の人たちを丸の内まで来させたい、ということでご指名を受けたんです。

 『もしここにお店を出してくれて、有楽町や銀座の人々が馬場先通りを越えてきたら、我々としては“井戸を掘った人”を生涯大切にする』と説得されましたね」

ミクニズカフェ・マルノウチ

当時の「ミクニズカフェ・マルノウチ」。ここから丸の内が変わった

――他のお店が尻込みするくらいなのに、不安はなかったのか

三國「皆が尻込みするから、僕に頼んだんじゃないかな。三國なら何とかするだろうと。福澤さんは、僕をすごく買ってくれていたので」

――今の丸の内の賑わいは、三國さんが井戸を掘ったおかげだと思うと感慨深い

三國「僕は北海道の人間。開拓人ですからね」

――東京のど真ん中で、まさに開拓をしたわけですね

三國「当時の『ミクニズカフェ』では、1階がカフェで地下がレストラン、その奥がバーという構造で、‟ファイブ・ミールズ”をやっていました。朝早く出勤する人もいれば、夜遅く食事をする人もいるので、朝食、ランチ、カフェ、夕食とナイト(=ファイブ・ミールズ)という構成です。

 その『ミクニズカフェ』がオープンしてしばらく経ってから、真向かいにティファニーが出店したんです。そうしたら、ちょうどオードリー・ヘップバーンの『ティファニーで朝食を』とマッチして、大ヒットしましてね。それからは、あっという間に他のお店も増えましたよ」

――通りから調理場が見えるパン工房も話題でしたね

三國「丸の内には新聞を読みながら、朝食を摂って出勤するビジネスマンが多かったので、パン工房を構えて焼き立てのパンも出したんです。パン作りの様子も通りから見えるようにして。フランスでは普通だし、今じゃ日本でも当たり前ですけどね」

――当時は珍しかったし、作る側も見る側も楽しかった

三國「お互いにね。パン屋さんの職人は朝方、我々が帰る時に出勤するので、壁に囲まれていたら(太陽にも当たらないままで)可哀想じゃないですか。だから窓を設けたのも、パン屋さんのためだったかもしれない」

――45分でコースが楽しめる「クイックランチ」もありましたね

三國「あれはね、実は苦肉の策だったんですよ。ランチタイムには、どうしても銀座で買い物帰りの奥様方とOLさんが集中してしまうので、それをどうにかしたくて。だから、昼休みで1時間もいられないOLさんには回転の早い『クイックランチ』で、逆に奥様方にはゆっくりしていただこう、という作戦だったんです。

 つまり‟ファイブ・ミールズ”は、ビジネス街や銀座に近い丸の内という街の、いろいろなニーズに合わせてでき上がったんですよ」

ミクニズカフェ・マルノウチ ランチ

丸の内で働く女性のニーズをガッチリつかんだ「クイックランチ」
※写真は現在の「ミクニマルノウチ」での提供例(平日限定、2800円)

――丸の内のお店造りは、三國さんにとっても新しい挑戦だったんですね

三國「東京駅にも近く、あれだけの一等地に出店してお客さんが来ないはずはない。僕は絶対に来ると確信していました。実際、3年目には売り上げが伸びて、1か月で1億円を超えましたし。丸の内全体には今、店舗が500ぐらいありますが、みんな黒字じゃないかな」

――2001年には、東京駅地下に「東京食堂セントラル・ミクニズ」をオープン

三國「JR東日本の『東京駅ルネッサンス』という再開発プロジェクトで、今度は東京駅の地下に300坪の店を造りました。それまでは仕事が終われば、周りに店舗もなかったし、みんなすぐに帰宅する人が多かった。そこを何とか、お店に寄って食事してから帰ってほしい、ということでね。駅地下での飲食店街も、あれから広がりました。今はもう、日本中にないところがないぐらいですけど」

三國清三

取材中、終始エネルギッシュに熱弁を振るった

――リガーレ(NPO法人大丸有エリアマネジメント協会)が発足して、大丸有の街づくりが始まってから20年あまり。今のような丸の内になったのも、90年代最後に三國さんが出店したことが、何より大きかった

三國「僕が始めたんだという自負もありますし、僕だから発展も早かったかもしれないけれど。でも誰がやっても成功したでしょうね。それだけニーズがあったんだから。

 ただ、僕が『ミクニズカフェ』を造る時に、すごく気を付けたのは空間づくりです。丸の内で働く人たちは、夜までも丸の内では過ごしたくなかった。ひと駅でも気分転換できる街に行きたい、上司とも鉢合わせしたくない。

 だから地下は高級レストランとバー、1階をカジュアルにして、外観も内装も完全に日常を忘れられる空間に仕立てました。日本にないような雰囲気にしてね」

――その「ミクニズカフェ」がビルの解体に伴い閉店して、2009年に「ミクニマルノウチ」をオープン。丸の内とのつながりは今も続いていますね

三國「2006年にカフェが入っていた古河ビルと三菱商事ビル、丸の内八重洲ビルの建て替えが決まって。解体は予定より5~6年前倒しだったんですが、丸の内に井戸を掘って賑わいを生む、という目的は果たしたし、僕の役割はそこまでだとも思っていました。

 丸の内に戻るつもりはなかったんですけど、『カフェ』があまりにもヒットしたし、福澤さんが約束通り『三國は絶対に戻せ』と仰られましたので。それで2009年、その跡地に新しくできた丸の内パークビルに『ミクニマルノウチ』を出したんです」

ミクニマルノウチ

「ミクニマルノウチ」の落ち着いた店内

一流シェフが総力を結集! 「丸の内シェフズクラブ」の大人の食育プロジェクトとは

――「ミクニズカフェ」開業から約10年後、2009年には「丸の内シェフズクラブ」も発足されました。本来、競争相手のシェフたちが協働するのは珍しい

三國「これは会長の服部幸應先生と僕が中心でやっています。『食育丸の内』を柱に勉強会を開催したり、皆で情報交換もね。助け合っていった方が、結局は丸の内全体のプラスになりますから。

 我々シェフとは勉強したいものなんですよ。中華や寿司の技術など何でもね。でも自分がオーナーでなければ、なかなか自由にできないじゃないですか。だから腕を磨きたいシェフ同士の交流は進歩的な活動だと思います。表立ってこういう交流をしているのは、丸の内だけかもしれません。

 今度はそこから地域との連携ができて、シェフたちがその地域に行って、いろいろなものの開発&連動や、こどもの日には子どもたちにレストランを解放したりね。さまざまな活動をしていますよ」

――忙しい皆さんが、いつも集まってくれるんですか

三國「それはもう、三國さんが声を掛けたら全員集まりますよ。これまで欠員もほとんどありませんね」

――「ロングテーブル“絆 KIZUNA”」も素晴らしいアイデアでしたね

三國「『丸の内シェフズクラブ』10周年のイベントですね。あれも僕が仕掛けたんです。ニューヨークとかフランスでは、よく畑の中でもやりますよ。最初は保健所から、前例がないからとなかなか許可が下りなかったんですけど、よき前例を作ることができましたね」

「ロングテーブル “絆KIZUNA”

2018年11月8日に開催された「ロングテーブル‟絆KIZUNA”」。通りを埋めたテーブルが壮観

丸の内シェフズクラブ

同イベントでは「丸の内シェフズクラブ」を代表して4名のシェフが、
食育活動で関わった各地域の食材を使い特別メニューを振る舞った

——現在、丸の内仲通りを「ほこみち」として自由に活用している、そのきっかけも三國さんだったんですね!

三國「そうですよ。今度は畑でやろう!というプランを立てているところです」

――食育、畑と言えば「ミクニマルノウチ」は、江戸東京野菜にこだわっている

三國「今の東京都には農家が1万軒ぐらいあって、東京で作られていない果物や野菜は、ほとんどない。また‟江戸東京野菜”と‟東京野菜”も違います。“東京野菜”とは都内で採れる野菜のこと。‟江戸東京野菜”は江戸時代の参勤交代の際に、大名が自分の好きな漬物を食べるため、郷土の野菜を持ち込んで江戸で栽培し、今に続いているものです。現在では50品目もあるんですよ。

 また生産者によって、野菜を区別するようにしたのも僕が最初です。どこの地域の誰々さんが作ったトマトと知れば、生産者の顔も見えてくるじゃないですか」

ミクニマルノウチ ディナー

「ミクニマルノウチ」の江戸東京野菜をふんだんに使った、見目麗しきディナーコース(写真は1万5000円の例)

70歳から人生の第2章、テーマは “即興”
まだまだ刺激的に生きていきたい!

オテル・ドゥ・ミクニ

海外修業から帰国後の1985年、東京の四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」を開業

――昨年末に、38年間営業した「オテル・ドゥ・ミクニ」を閉められました。これから第2章を始めるとのことで、その次なる夢とは?

三國「『オテル・ドゥ・ミクニ』跡に来年、新しいレストランを開きます。店名は『三國』、8席だけのお店です。70歳から80歳までの10年間、その第2章は“スポルタネ”(仏=Sportane)、つまり即興をテーマにすると決めています。毎朝豊洲市場に行って、その日一番気に入った素材を買って、メニューも値段も前もって決めないで。

 例えば『今日は甘鯛が手に入りましたけど、焼きますか、蒸しますか? 料理は何品ぐらい召し上がりますか? コースにしますか?』。こうやって、お客様とディスカッションしながらサービスしたいんです。顔と顔を合わせながらね」

――その構想はいつからお持ちだったんですか?

三國「もとは僕が20歳の時に出会った、フレディ・ジラルデさん(スイス出身の三つ星フランス料理人)という、天才中の天才シェフがしていたことなんです。僕は20歳でスイスに渡ってから、いろいろなお店で修業して28歳で帰国しました。

 そして『オテル・ドゥ・ミクニ』を開いて、同じことをやり始めました。でも当時5~6人いたスタッフが、素材によってやり方が毎日変わるので、みんな付いてこられなくて辞めちゃったんです。そこからは、やり方を変えざるを得なかった。でも今度は、全部ひとりでするから辞める人もいない(笑)。

 だからスポルタネは、40年ぐらいずっとやりたいと思っていたことで、ようやく実現します。この気持ちは、以前から全然変わっていませんね。これまでのメニューは、コンピュータで全て管理していて、まったく同じ料理は絶対に二度と出していませんから」

ジラルデ氏

20世紀最高のフレンチシェフのひとり・ジラルデ氏(写真中央)と、20代の若き本人

――やっと夢が叶うのは楽しみですね

三國「いえ、楽しみというより苦しみですね。でも、苦しいのがいいんです。70歳からこの先10年、刺激がなかったら生きていけないじゃないですか。10代から20代、60代までいろいろなことがあって、上り坂に下り坂、『まさか』という体験もたくさんしてきた70歳に、もう怖いものなどないでしょう。

 それに毎日、予約が何十組もあったら本当にプレッシャーだけど、もうそれもない。たくさん抱えていた役職も一部を除いて降りたし、もう元気しかないんですよ」

三國清三

故郷の北海道・増毛町から札幌に向かう駅のホームにて(写真の学生帽姿が本人)

――波乱万丈の人生で得てきた経験値が大きい

三國「15歳で料理の道に飛び込んで、18歳で帝国ホテルの料理長・村上信夫さんと出会った。20歳で、スイス・ジュネーヴの日本大使館の料理長に任命されて3年8か月勤め、その後にフランスの名だたるシェフのもとで修業できたこと。それは大きいですね」

三國清三

20歳でスイス・ジュネーヴの日本大使館料理長に就任

――以前、1964年東京オリンピックの料理を再現するイベントに参加して、村上シェフにお目に掛かったことがあるのですが、三國さんには村上さんと似たオーラを感じます

三國「そうだったら嬉しいですね。実は(天皇の料理番として有名な)秋山徳蔵さんと村上信夫さん、僕には共通点があるんですよ。3人とも18歳から20歳までの3年間、皿洗いをしていたことです。

 また、秋山さんは婿養子に入った昆布屋の配達先、軍隊の厨房でカツレツに出会い、これを作る人になりたいと思って、カツレツが有名な華族会館で修業しています。

 僕もある時、姉が食べさせてくれたハンバーグに魅せられ、これを作りたくてハンバーグが有名な札幌グランドホテルで修業した。村上料理長は、どこかでそんな僕と秋山さんを重ねたのかもしれませんね」

――村上シェフが三國さんの働きぶりや、センスを見込んでスイスに送り出した。それが「世界の三國」を生み出して、丸の内周辺や飲食業界の発展と成長、食育の普及にまでつながったんですね

 三國シェフの座右の銘は「日々好日」。毎日を大切に、幸せを味わいながら過ごす。そうすれば、いつ人生が終わっても悔いはないという。いつもその時々の自分で、あるがままを一生懸命生きる。そんな三國清三という、ひとりのシェフのブレない生き方が、丸の内エリアだけでなく、日本の飲食業界のあり方をも変えてきたことは間違いない。

三國清三

三國シェフ直筆の「日々好日」

 いろいろな役目を果たし終え、自由になった三國シェフは、これから始まる人生の第2章でも、さらなる刺激を求めている。「日々好日」を全うする三國シェフの生き方は同世代に限らず、あらゆる年代での生き方にも、刺激を与えてくれるのではないだろうか。

三國清三

三國清三(みくに・きよみ)●1954年生まれ、北海道増毛郡増毛町出身。15歳で料理人を志し、札幌グランドホテル、帝国ホテルにて修業。1974年駐スイス日本大使館の料理長に就任。大使館勤務の傍ら、フレディ・ジラルデ氏に師事する。その後も「トロワグロ」「ロアジス」等の三つ星レストランで修業を重ねる。1982年に帰国。1985年東京・四ツ谷に「オテル・ドゥ・ミクニ」をオープン。2013年フランスの食文化への功績が認められ、仏フランソワ・ラブレー大学にて名誉博士号を授与。2015年フランス共和国より同国の最高勲章である、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを受勲。日本の料理人へは初めての授与。以降も国内外で精力的に活動中。現在、子どもの食育活動や家庭でできる手軽なレシピを、YouTubeで日々発信している。

丸の内LOVEウォーカー 玉置泰紀

聞き手=玉置泰紀(たまき・やすのり)●1961年生まれ、大阪府出身。株式会社角川アスキー総合研究所・戦略推進室。エリアLOVEウォーカー総編集長。国際大学GLOCOM客員研究員。一般社団法人メタ観光推進機構理事。京都市埋蔵文化財研究所理事。大阪府日本万国博覧会記念公園運営審議会会長代行。産経新聞〜福武書店〜角川4誌編集長。

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