波形にも表れている音質のよさ
抽象的な話では伝わりにくい部分もあると思うので、波形編集ソフトに取り込んで、波形を見てみよう。
これは1曲目「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」の波形である。
波形の左右軸が時間、上下軸が音の大きさを表す。上の画像を一見してわかるように、ハイレゾ版は、上下の振れ幅が小さい。つまり、音の大きいところと小さいところがはっきりしている。
多くの商業音楽はマスタリングの過程で音圧を高める作業を施す。音圧を高めるとは、音の小さい部分と大きい部分の差を縮め、全体を通して大きな音に聞こえる音源にする=音の密度を高めることを差す。
ところが、音の小さいところと大きいところの差の部分には、音楽的なニュアンスが多分に含まれている。つまり、音圧を高めすぎると、音は大きく、迫力が出たようには感じられるが、音源からはニュアンスや表現性と言ったものが失われてしまうこともある(これも程度による。音圧を高めた方が作品としての質が高まるケースもある)。
「ハイレゾ版」とひと口に言ってもさまざまで、現代的な手法で音圧をギリギリまで高め、ほとんどニュアンスなどを考慮していない音源のサンプリングレートとビットレートを高めて書き出しているだけのこともあれば、レコーディング段階から書き出しまで、ハイレゾ品質で進めている、完全なハイレゾ音源もある。
クラシックの楽曲のマスタリングでは、ポップスと比較して、ニュアンスを重視する傾向にあるため、クラシックの音源とポップスの音源を交互に聴き比べると、音の大きさの違いが顕著にわかるはずだ。
例えば、とあるポップスの音源(44.1kHz/16bit)の波形はこうである。
上のサージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドの波形と比べて、ギザギザが少なくなっているのがわかるのではないだろうか(FLACとWAVというフォーマットの違い、ビットレート、サンプリングレートの違いを出さないために、両音源とも、波形の横幅を狭めている)。
前述した「レコーディング段階から書き出しまで、ハイレゾ品質で進めている、完全なハイレゾ音源」にも、こういった傾向(現代のスタンダードなポップスから比べると、音が小さめで、ニュアンスが際立っている)は見られる。
また、現代的なポップスでは、(ひとくくりにはできないが)迫力やグルーヴ感を強く演出する目的で、リズムパートに属するバスドラムとエレキベースの音に倍音を足すなどの処理をし、特別に再生機器やソフトウェア側のイコライザーやアンプで調整しなくても、低域がぐっと前に出てくる音像にまとめるケースも多々ある。
これをすると迫力が段違いに出るが、中域以上の帯域がマスクされ、ニュアンスが埋もれてしまう。これを防ぐため、今度は中域以上の音にも、低域パートに被らないように帯域を調整する処理をしたり、エンハンサーという専用のツールを使って音の輪郭を強調したりする。
これが悪いということではない。程度の差はあっても、多重録音の音源は、ほとんどがこのような工程を経て商品になる。しかし、結果的に、どこかデフォルメされた音質になることは避けられない。よく、「スタジオで聴く音が最高だ」と言うが、理由の大部分はここにある。「とれたばかりの魚を、すぐに刺身で食べるのが一番おいしい」と言うのと似ている。
今回の音源は、素材のニュアンスを可能な限り残しつつ、そこに固執せず、現代的なリスニング環境でも楽しめるように仕上げられている印象だ。
1960年代に録音されたオリジナルのテープという最高の材料を使って、現代的な手法で、かつニュアンスを崩さずに丁寧にミックスされたことで、現代のレコーディングでは生み出せない音なのに、現代っぽい、不思議なバランスでもあり、そこが大きな魅力になっている。