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『新装版 計算機屋かく戦えり【電子版特別収録付き】』刊行記念インタビュー第2回

日本独自のコンピューター素子を生んだ男、後藤英一

2016年09月02日 18時00分更新

文● 遠藤諭(角川アスキー総合研究所)

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4300個のパラメトロンを使用した「PC-1」

——そして、パラメトロン計算機が誕生するわけですね。

「まあ、いきなり本格的なものを作るわけにはいかないからね。まずは2進4桁の加算機なんかを試作したな。9ビットの加算機〝PC−1/4(クォーター)〟は、PC−1の予備実験機として57年に完成した。そして58年、パラメトロン計算機として36ビットのPC−1が完成したんだ。パラメトロンを4300個使ったけど、当時はそれをリレー配線の女の子たちが1つ1つ手で作ってくれたんだ」

 パラメトロンコンピュータPC−1は、励振周波数2メガヘルツのパラメトロン素子を4300個使用した2進法コンピュータだった。後藤氏発案の加減算、除算を高速に処理する「高速桁上げ回路」、複数の命令の制御を並列に行なわせる「先回り制御」などを搭載していたが、命令構成は加減乗除などのオーソドックスなものに限られていた。入出力には、6単位紙テープを使用。語長は36ビットだった。

——PC−1/4とPC−1の大きさは、どれぐらいだったのですか?

「PC−1/4は、(両手の親指と人差し指で長方形を作って)これくらい。PC−1は、そうだなあ、幅2メートル、高さ1・5メートルぐらいだったかな」

——パラメトロン計算機の反響はいかがでしたか?

「それほど大騒ぎにはならなかったよ。海外では、10年前にすでにENIACやEDSACなんかがあったし。それにパラメトロンはトランジスタコンピュータに比べて処理速度が遅いからさ。トランジスタコンピュータのクロックが1メガヘルツなのに対して、パラメトロンコンピュータはせいぜい10〜30キロヘルツ程度だったんだから。

 ずっとあとになって、MIT(マサチューセッツ工科大学)のマッカーシーと親しくなったんだが、彼にいわれたよ。『パラメトロンとはおもしろいことを考えたもんだが、何でそんな遅い素子を作ったんだい?』ってね。そんなこといわれたって、予算はMITの1000分の1ぐらいしかなかったんだから。でも、当時の大学でコンピュータを利用可能にしたという達成感はあったね。256語しかメモリはなかったんだけど、たくさんの人が使いに来たよ。当時は、ほかにコンピュータがなかったからね」

——最初にPC−1で動いたソフトは何でしょう?

「〝イレーズ・ブランク〟かな。当時、入出力は紙テープを使っていたけど、穴が1つもない真っ白な部分は飛ばす、データがゼロなら元に戻るっていうやつだ。つまり真っ白なテープはコピーしないっていうソフトだな」

——その後、日本にパラメトロンコンピュータの時代が来るわけですね?

「でも、実際はそれほど使われていない。日立、富士通、日本電気とか、数社で採用されただけで。やっぱり速度が遅かったからね。企業は予算をかけてトランジスタコンピュータを作るほうが効率が良かったんだろう」

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