「この世界に生まれて『世の中と合わないな』って感じたら、キミは新しい何かを創造するために生まれたってことなんだ」
「誰かが、キミの存在を悪く言うときはいつも、『羨ましい』か、『怖れている』のどちらかだ。キミは、そいつらが欲しいものを手にしてるってことさ」
「僕についてどんなことを言われようが、本当に気にしないんだ。なぜならば、何を言うかは、それを言ってる人自身を反映するものだから」
(Twitter プリンス名言より)
世界三大ギタリストに数えられるエリック・クラプトン、現代音楽を革新したポール・マッカートニー、1980年代から2020年代までずっとメジャーを走り続けるマドンナ、そして現在の音楽シーンを牽引するブルーノ・マーズやビヨンセら、音楽界のアイコンたち。
バスケットボールの神様マイケル・ジョーダン、ボクシングの伝説モハメド・アリ、フィギュアスケートの金字塔、羽生結弦選手など、それぞれのジャンルを極めながらも、ジャンルを超えた影響力をもった一流アスリートたち。
荒木飛呂彦氏や浦沢直樹氏ら、その影響を公言し、自らの唯一無二の作品に反映させてきた表現者たち。
そして「彼以上に強く、大胆で、クリエイティブな精神を持つ人はいない」と公式にコメントしたバラク・オバマ第44代アメリカ大統領、「抑圧への反乱と社会の最も弱い者の保護を、自身の芸術に注ぎ込んだ」と指摘したプリンストン大学のコーネル・ウェスト教授など、時代を動かしてきた政治家や思想家たち。
そういった国境や人種、文化を超え、あらゆるバックグラウンドの人々に、多大なる影響を与えてきた芸術家。それが「プリンス」です。
いまだ鮮烈なサウンドと共に放たれるプリンスの言葉が、受け取った人々の心に深く響くのは、葛藤、苦闘、挫折、試行を何度も経てきた「実践者・プリンス」の心の奥底から発せられたものだからでしょう。
そんなプリンスの影響を受けて、私は今ここにいます。1985年、中学1年生でプリンスの楽曲に衝撃を受け、1989年には地元北九州でライヴを初体験。来日公演はもちろん、ミネアポリス郊外にあるプリンスのペイズリーパーク・スタジオでのイベント、映画『パープル・レイン』の舞台となったファースト・アベニューでのアフターショー(本編ライヴ後のシークレットギグ)も体験。訃報を耳にした時には、いてもたってもいられず、すぐにミネアポリスに飛びスタジオに駆けつけました。
プリンスの影響で人生の方向性を決定し、自身の表現やミッションをみつけ、そして今でもずっとプリンスの後ろ姿を追い続けている、そんなひとりです。どんなに走っても、彼はあまりにも速くて、偉大過ぎて、全然近づけないのですが、それでも……。
一世一代の大勝負、福岡でのアフターパーティーを開催!
1993年6月7日。プリンス・ロジャース・ネルソン氏は、自らの本名であり、ブランド名でもあった「プリンス」を葬り去り、『発音不明のシンボルマーク』に改名しました。
その動機については、ビジネス上のトラブル、今で言う炎上商法、表現の自由を求めた、単にプリンスでいることに飽きた、などなど、様々な憶測が流れました。
活動を共にした側近たちもその真相を聞かされることはなく、『世界的に有名なミュージシャンの発音できないマークに改名』は、メディアには「プリンスの奇行」として受け取られました。その時期のプリンスは、日本では「元プリンス」あるいは「かつてプリンスと呼ばれたアーティスト」などと呼ばれることになります。
そして1996年、前代未聞の『発音不明のシンボルマーク』氏の来日公演が実現します。当時、高知で医大生だった私は、なんとか日程と予算をやりくりして、「来日公演のすべてを体験する」というプランを立てました。この頃の殿下(ファンはプリンスを“殿下”と呼ぶ)は、曲目が毎日入れ替わったり、アレンジや演出が変わったり、過去の曲を封印して新曲だけのライヴを敢行したりと、キャリアの中でもかなり特別な(ぶっ飛んだ)時期でした。なんせ自ら右の頬にSLAVE(奴隷)と書いて人前に出ては、「レコードは奴隷、ライヴは自由」と発言し、既存の音楽産業システムと全面的に戦う姿勢を表明していたくらいですから。
彼の芸術に心救われた身としては「これはもう、全日程行くしかない。こんな時こそ、プリンスを応援せねば」と気負いました、勝手に(笑)。外食を一切やめ、通販で買っていた高価なプロテインは、スーパーの安売りの日の豆腐と納豆に代わり、日々節約にいそしんだのです。学内の試験はなるべく本試験で受かるように事前準備し、時間と費用をなんとか捻出して、“元プリンス・エクスペリエンス”と(勝手に)銘打った個人的全国行脚を試みたのでした。
高知から東京に出て、まずは日本武道館2days、大阪に移動して大阪城ホール、さらに西へ、福岡国際センターへ。そこから東京に戻って、再び日本武道館2days、最後は横浜アリーナ。必死でプリンスを追いかけました。
すると……、予期せぬ出来事もあるものです。大阪のあるホテルのロビーにいたら、なんとプリンスのバックバンド、ザ・ニュー・パワー・ジェネレーションのドラマー、マイケルBがこっちに向かって歩いてくるではありませんか! しかも『発音不明のシンボルマーク』がデカデカと入ったジャンパーを着て(読めないけど、わかりやすいー)。1990年代前半から中盤までのプリンスサウンドは、マイケルBの「重厚かつ繊細な」リズムがなければ成立しないものも数多く、殿下自らが発掘して世に送り出した驚異のグルーヴをもつスーパードラマーが、突如として私の視界に入ってきたのです!
「うわぁぁぁ! マイケルBだ!!」
思わず絶叫したくなる興奮を、ギリギリ残っていた理性でなんとか抑え込み(ここはロビーだ)、まるで試合前のアスリートのようにゆっくり、ゆっくり深呼吸。私なりの礼儀正しさMAXで、「お会いできた幸運と、あなた方の音楽に救われてきた感謝の言葉」をつたない英語で精一杯、伝えてみました。私の話をニコニコ笑顔で聴いてくれたマイケルB。彼としばらく談笑していると、ひとり、またひとりと、バンドメンバーたちがロビーに集まってくるではありませんか!
当時は、ネットはおろか、携帯電話もまだ十分学生レベルには普及していなかった時代でしたから、情報のやりとりはリアルのみ。大阪のおいしい食べもののこと、ご家族に喜ばれるだろうお土産のこと、オフに行くべきヴィンテージ楽器店やテクノロジーの街・秋葉原のことなど、彼らの邪魔にならないだろうトピックを中心に、思いっ切り雑談をたのしみました。いつもはサウンドの中、画面の中の人である我がヒーローたちを目の前にして過ごしたまるで夢のような時間。その流れの中から、ふとマイケルBの口からなんと、夢の続きのようなオファーが飛び出したのです。
マイケルB「オーサカの次はフクオカなんだけど、どこか良いクラブないかな? ショーのあとにアフターパーティーをやりたくてさ」
私「福岡! まかせてください。フクオカは僕の故郷なんで」
マイケルB「ワオ、それは助かるよ」
いきなり降ってわいてきた、元プリンスたちのアフターパーティーの開催。出来るかどうかなんて、わかりませんでした。でも「これは僕がやらなきゃ」という確信だけがあって、福岡の天神・親不孝通りにある『マリアクラブ』しかない、と思いました。当時、福岡一、九州一の最先端のクラブで、週末には若者がどっと押し寄せる音楽、ダンス、クラブカルチャーの中心地だったからです。
マリアクラブの番号を104(番号案内)で調べ、すぐに電話をしました。まだ社会に出ていない23歳の私にとって、一世一代の大勝負(大嘘とも言う)を仕掛けることに。
私「あの、元プリンスのツアーマネージャーです。元プリンス一行が、福岡公演のあと、そちらに行きたいと申しておりますが」
マリアクラブ「あ、あのプリンスですか?」
私「はい、あのプリンスです。現在は元プリンスですので、プリンスのPの字もご法度ではありますが……、大丈夫でしょうか?」
マリアクラブ「も、もちろんです、VIPルームをご用意させていただきます」
私「ありがとうございます、申し伝えておきます。おいくらほどかかりますか?」
マリアクラブ「ここはご一行様、無料招待とさせていただきます」
こうして、あっけなく交渉は成立してしまいました。プリンスのネームバリュー、恐るべし。発音できないのに(笑)。マリアクラブが話した相手は、プリンスが好きなただの大学生だったのですが(その節は寛大なご対応、ありがとうございました)。バンドメンバーにこの件を伝え、福岡公演のコンサート終了後、私は仲良しのプリンスファンたち数名と会場からタクシーでマリアクラブに直行しました。
私「この度はありがとうございます。予約しました二重作と申します」
マリアクラブ「お待ちしておりました、どうぞこちらへ」
名もなき23歳の大学生、殿下のおかげでまさかのVIP待遇。しばらくするとザ・ニュー・パワー・ジェネレーションのメンバーたちは続々とマリアクラブに登場しました。
「来た、来た、ほんとに来てくれた!」
ビックリしたやら、安堵したやら、嬉しいやら、いろんな感情が浮かんできて涙がブワッと溢れました。バンドメンバー到着から少し遅れて、プリンスご本人と、このツアーのあとにプリンス夫人となるダンサーのマイテ・ガルシアさんも登場!当時、婚前旅行も兼ねていたらしいお二人は、すぐにホテルに帰りましたが(笑)。
残ったバンドメンバーたちは、ツアーの話、レコーディングの話などをたくさんしてくれて、「にわかサイン会」も急遽開催されました。あ、そういえば、お財布にサインをもらってた友達もいましたね。非公式行事ながら「アフターパーティー開催」という形で、プリンスはじめ彼らに「小さな貢献」ができたことが、とてつもなく嬉しかったです。
その一連の出来事の中、私の脳内に流れ続けた楽曲は、彼が1991年に発表した楽曲、『ウィリング&エイブル』でした。奇しくもドラムを担当したのはマイケルB。日本語に直訳すると「やろうと思う。だから出来る」になります。出来るかどうかじゃない。やろうと思う、その衝動を100%信じてやればいい。プリンスのメッセージ通りにとにかく行動したら、本当に実現してしまったことに、私は改めて驚きました(やっぱ殿下すごいわ)。この時の“元プリンス・エクスペリエンス”は、私の基礎になっています。
プリンスの聖地が福岡に!
プリンスの初九州公演の会場は、1989年2月10日の「北九州市立総合体育館」でした。九州最大の都市・福岡市ではなく、偶然にも私の地元である鉄鋼の街・北九州。ライヴが始まりステージに降り立ったプリンスは、開口一番、マイクに向かって「コクラー!」と叫びました。しかし、プリンス、残念! ここはコクラじゃなかった(所在地は小倉北区ではなく八幡東区)。なので、観客は「コクラー!」の呼びかけに無反応。どうやら通じてないことを早々に察したプリンスは「ジャパーン!」に変え、呼びかけるエリアが急に広くなったのでした。
2回目の九州公演は、大相撲の九州場所で有名な「福岡国際センター」。前述の発音できない記号名義で活動していた1996年1月13日のことです。福岡国際センターの隣には「福岡サンパレス」というコンサートホールがあるのですが、なんとまったく同じ時間に、和製プリンスと呼ばれた岡村靖幸さんがライヴをやっていた、というミラクルな偶然もありました。この時(マリアクラブでのアフターパーティの後)プリンス御一行様は福岡ドームの隣にある「シーホークホテル」に宿泊、上の写真はホテル内のレストランで撮影したものです。福岡国際センターや福岡サンパレスはいまでもさまざまなライヴやイベントで賑わっていて、シーホークは現在は「ヒルトン福岡シーホーク」となっています。
そして3回目となる2002年の九州公演では、今度はプリンスが「福岡サンパレス」で演奏。けれども、ライヴが終わったあと、なんとひとりで、アコースティックギター1本を抱えてプリンスがサプライズ登場したんです! 観客の半分ほどがすでに会場を出てしまっていたけれども、まだ会場に残っていた観客たちは驚愕! プリンス再登場に熱狂していたら、「もしこれがキミにとって最後の12月だったとしたら、キミのことをずっと覚えてくれる人はいる?」と歌われる『Last December』を演奏してくれました。九州公演のラストは、そんな12月まであと数日を残した、11月26日のこと。
あのプリンスが九州に来てくれた。しかも3度も。彼はオーディエンスを「ここではないどこか」に確実に連れていってくれました。
「キミはキミのダンスを踊れ」
1999年に高知医科大学・医学部を卒業した私は「ふたつの夢」をもって上京しました。ひとつは『格闘技医学』の確立です。8歳でカラテを始め、高校の時にフロリダで187cmのアフリカ系アメリカ人からダウンを奪われて負けた私は、「研修医として学びながら、極真カラテの全日本ウェイト制に出場する」というパーソナルな目標を掲げました。
運良く2つの地方大会で優勝し、その目標は実現したのですが、その過程で得られた選手としての経験、プロ格闘技興行のリングドクター、一流格闘家のチームドクター、そして医師としての知識と経験から、「格闘技」と「医学」に橋を架ける挑戦をしました。
具体的にはレントゲンやCTを撮影して、KOのメカニズムを解明したり、脳で運動がどのように生じるかといった医学知識をスポーツの現場に共有したり、医学の立場から安全性を指導者に伝えたり、といった内容です。おかげで専門誌では13年以上の連載(現在も継続中)、8つのタイトルのDVD、書籍も日本語、英語、スペイン語でもリリースされ、ヨーロッパや中南米にも招聘されるようになりました。
私の『格闘技医学』の活動には、プリンスの「ある考え」が色濃く影響していました。彼は「生きる」のメタファーとして“Dance”という言葉を使うことがあるのですが、“Do Your Dance”つまり、「キミはキミのダンスを踊れ」という強烈なメッセージを放っていたのです。
プリンス自身が「唯一無二のプリンス」であったように、彼は支持者たちに「キミはキミであり続けろ」と、依存ではなく自立を促してくる。そんな厳しさと優しさをもったアーティストでした。彼が自身の曲のカバーを滅多に他のミュージシャンに許可しなかったのも、「自分らしい曲で世に出るべきだ」という彼の信念に基づいたものでした。
「プリンスは大好きだ。だが盲目的信者であってはいけない。プリンスにできないことをやらなければ、彼の役にも立てないじゃないか」そのように考えているうちに、いつしか「私は私でオリジナルの何かを生み出さねばならない」そんな自意識が芽生えるようになったのです。
格闘技医学確立の過程ではいろんなことがありましたが、もっとも興味深かったのは「顔と名前を出して初めて、プリンスの表現や言葉の意味が、そしてプリンスの「凄み」が実感として理解できるようになった」ことです。その端的な例が『ラヴセクシー、ジャケット問題』です。
1988年にプリンスは「全裸に十字架」というジャケットの『LOVESEXY(ラヴセクシー)』という大傑作を発表します。本国アメリカではヌードのジャケットが問題視され、レコード店にディスプレイしてもらえず、セールスは全米6位に甘んじるわけですが(とはいえ、全米6位で『売れないアルバム』のレッテルを貼られるスーパースターへの期待値たるや……)、芸術家として評価されていたヨーロッパでは、ヨーロッパ総合チャート1位、イギリス、スウェーデン、スイス、オランダ、イタリアでも1位を獲得するなど、欧州ではプリンスと言えば『LOVESEXY』が代表作だったりします。
大きな経済が動くレコード会社とのせめぎ合いの中、「全裸に十字架のジャケットのアイディアを通してしまう」アーティストパワーの凄まじさ。それは私自身、「受け手」でしかなかったころには見えてなかった景色でした。
ちなみに、プリンスは異質な2つの概念をひとつの言葉で結んで新たなコンセプトを提示しては浸透させるという卓越した「匠の技」をもっていまして、このLOVESEXY も、「愛」と「性」の間にギャップが無いひとつの理想を示していますし、1989年に発表された楽曲『Batdance』は、コウモリとダンスという別々のワードを一語にしたタイトルで、全米チャート1位を獲得しています(造語がタイトルの楽曲が1位になる、というのも相当なレアケースでしょう)。
彼の創造には、はるかに及ばないのは百も承知ではありますが、『格闘技医学』も『パフォーマンス医学』も、「よく知られた異質な2つを新しくひとつにする」プリンスの流儀に倣ったものです。このように、「送り手」になった途端、彼の作品群にはたくさんのヒントが見つかる。その発見作業は遠く先を走ってくれた殿下の跡を追いかけるようで、なかなかに楽しい旅路です。
そして私のもうひとつの夢は、ミュージシャンたちのツアードクターになることでした。もっともハードで過酷な格闘技選手の身体を守るノウハウは、音楽家たちにも応用が可能で、プリンスファミリー、ジェフ・ベック、ジョージ・クリントンはじめ、世界を舞台に演奏するミュージシャンたちに『格闘技医学』の知識と技術が生きることになりました。これもプリンスの教え、“Do Your Dance”のおかげです。
プリンスが亡くなった日、ミネアポリス行きの飛行機に飛び乗った
1985年4月21日、プリンスは『Sometimes It Snows In April』という曲のレコーディングを行いました。「ときどき『人生が終わらなければいいのに』と思う」と歌われる同曲は翌1986年、彼が主演・監督した映画『アンダー・ザ・チェリームーン』にてプリンス演じる主人公、クリストファー・トレイシーが射殺された直後のシーンで使用されます。
そして、偶然にしてはあまりに恐ろしすぎる2016年の同日、4月21日。プリンスは自らの未来を暗示したかのように、旅立ってしまいました。彼が発見されたのはペイズリーパーク・スタジオの中。スタジオ周辺には「雨」が降り、その後に晴れて「虹」がかかりました。プリンスが世界に名を売った『パープル・レイン』、シンボルマークに改名する時期に発表した『Papa』では「虹は雨の後に出るものさ」と歌われ、再び名前をプリンスに戻して発表されたアルバムは『ザ・レインボー・チルドレン』。彼の活動をリアルタイムで追いかけてきたファンにとっては天候まで衝撃的でした。
オバマ大統領は「これほどにまでポピュラー・ミュージックのサウンドとその道筋に多大な影響を与え、その才能で多くの人々の心を動かしてきたアーティストは、そうそういません」と追悼コメントを発表。NASAはパープルの星雲の画像をSNSに投稿し、パリのエッフェル塔、ニューヨークのエンパイアステート・ビル、ナイアガラの滝、シドニーのオペラハウスもパープルにライトアップされ、現代のモーツァルトに追悼の意を表しました。
訃報を聞いた私は、すぐにミネアポリス行きのフライトを手配、訃報から36時間後の4月23日のお昼にはプリンスのスタジオに到着しました。スタジオ内では近親者による密葬が行われており、終わってから出てきたプリンスファミリーのシーラEと再会、悲しみを分かち合いました。その様子がメディアに撮影され、NYタイムズ他の新聞に掲載されることになりました。スタジオには全米はもちろん、世界中からプリンスを偲ぶ人びとが、次から次へとやってきては、プリンスに祈りとプレゼントを捧げていました。その光景は、まるでプリンスのラストコンサートのようでした。
夜、ダウンタウンではどのお店からもプリンスの楽曲が流れ、街中を走る車からは大音量でプリンスが流れ、駐車場では車のドアをすべて開放して「路上プリンスパーティー」が開催されるという、ミネアポリス市民たちのプリンス祭りが自然発生的に催されていました。その雰囲気は「プリンスの死を哀しむ」というよりも「時代を全力疾走したプリンスの人生を祝う」、ファンキーなセレブレーションのようでした。
プリンスを失った悲しみをどうしていいかわからず、ミネアポリスまで飛んで行った私は、彼に「お礼」を伝えに行ったのに、逆にプリンスの影響の大きさを目の当たりにし、またまた生きるパワーをもらってしまいました。天に向かうプリンスに「悲しんでいる場合じゃない、キミにもやるべきことがあるはずだ」と諭されたような滞在でした。
「この偉人を過去の存在にしてはならない」
帰りの機内で、私はノートに一心不乱に頭の中に浮かんだ文章を書き続け、帰国後、彼の言葉を次世代に伝える書籍『プリンスの言葉 Words of Prince』(秀和システム 刊)を、そしてそれベースにした678ページに渡る英語版『Words Of Prince Deluxe Edition』(Amazon 刊)をリリースしました。プリンスと共演したミュージシャンやスタッフたちも、インタビューに全面協力してくださった1冊です。
「心にぽっかりと空白を感じた時は……埋めるんだ (Can’t Stop This Feeling I Got) 」
調子がいいとき、楽しいときだけじゃなく、絶望のときも、孤独のときも、心に寄り添ってくれるプリンスの楽曲は、人生のサウンドトラックとも呼ばれます。「キミは孤独じゃない」ではなく、「キミも孤独か、僕も孤独さ」というメッセージが似合う音楽家です。
アフタープリンス。
「もうカリスマはいなくなったわけだし、ファンも年々減っていくんだから、そんなことやらなくても、よくない?」そんな声も聞こえてきますが、さにあらず。
プリンスが与えてくれた「救い」に対して、私なりに恩返しするには、まだまだ数十年は必要です。またどこかで彼に会った時、「早すぎだぞ」ではなく「よくやってくれた」と言われたいですからね。その日まで大切に生きろ、というプリンスからの宿題と共に。
【二重作 拓也(ふたえさく・たくや)】1973年福岡県北九州市生まれ。リングドクター、チームドクター、スポーツ医学の臨床経験から「格闘技医学」を提唱。進化形として「パフォーマンス医学」を追求している。『プリンスの言葉』、英語版『Words Of Prince』、『Words Of Prince Deluxe Edition』はAmazon.comのソウル部門でベストセラー1位を獲得。最新刊は『可能性にアクセスするパフォーマンス医学(星海社)』
Xアカウント @takuyafutaesaku
Facebook https://www.facebook.com/takuya.futaesaku/
【プリンス・ロジャース・ネルソン】1958年6月7日-2016年4月21日 米国ミネアポリス出身 ミュージシャン、ソングライター、プロデューサー、ダンサー、俳優、映画監督。レコーディングされた楽曲は2,000曲を超え、ワンステージのギャラが史上最高額(1億5,000万円~2億円)、アルバム/シングルのセールスは累計1億枚を超えた唯一無二のミュージシャン。
Official Website prince.com
Instagram instagram.com/prince
【他の推し活記事】
・藤井風さんのアジアツアー、タイに行ってきました!!
・藤井風さんファンの聖地、岡山県里庄町を巡ってきました!!
【関連サイト】
▼Prince - Kiss (Live At Paisley Park, 1999)
▼Prince – Sweet Thing ~Sometimes It Snows In April(Live At Webster Hall April 20,2004)
▼Prince - Willing And Able (Official Music Video)