戦国LOVE Walker総編集長・玉置泰紀の戦国メタ散歩第3回
YouTube【本能寺の変】“3つのなぜ?”を徹底討論!信長?光秀?下剋上と真の黒幕…【戦国LOVEWalker #03】の舞台、京都を歩いてきたぞ
2022年12月に刊行した「戦国LOVE Walker」は、「メタ観光」(同じ位置情報に様々な観光が重なっているという考え方)を基に、戦国時代をメインテーマにして、歴史というレイヤー(層)であたらしい観光を考える「戦国メタ散歩」を提唱、月に一回のYouTubeでは、様々な出来事をテーマにトークバトルを繰り広げながら、実際に現地に赴いてのメタ散歩を実践している。
YouTubeの本編では、戦国時代の様々な「戦」や「事件」などの出来事をピックアップし、その背景や狙いなどはもちろん、「もしこうだったら...」みたいな「IF」までを好き勝手に議論しあいながら、トークバトルを繰り広げている。
web連載は、戦国メタ散歩のコーナーに焦点を当てて、事件の現場は勿論、展覧会や博物館、美術館を訪ね、グルメや名物など歴史以外の様々な観光のレイヤー(層)も取り込んで、散歩の楽しみ方を伝える。 第2回は、2023年6月1日夜に放送をしたエリアLOVE WalkerのYouTube番組「【本能寺の変】”3つのなぜ?”を徹底討論!信長?光秀?下剋上と真の黒幕…【戦国LOVEWalker #03】」。戦国メタ散歩では、筆者が大学時代に通った京都を訪問。本能寺は勿論、博物館や研究所、懐かしいグルメも巡ってきた。
3つのなぜ?「①織田信長がなぜ油断していたのか・②明智光秀がなぜうまくいかなかったのか・③『本能寺の変』は明智単独犯だったのか」を激論!?
戦国YouTube第3弾はいよいよ、最大の事件「本能寺の変」をテーマにトークバトル。家臣の明智光秀が織田信長におこなった下克上事件だが、今だに解明されていない数多くの「なぜ?」が存在する。今回は、もっとも気になる3つの「なぜ?」を戦国LOVEなメンバーで「激しく」トーク、スペシャルゲストには、アップアップガールズ(2)より高萩千夏さんが緊急参戦した。
3つの「なぜ?」は、①「”なぜ”織田信長はここまで油断していたのか・・・?」・②「”なぜ”明智光秀はうまくいかなかったのか・・・?」・③「『本能寺の変』の黒幕は誰か?」。織田信長のプロファイリングから、当時の情勢、有力武将の分析まで、大いに盛り上がった。
2007年の発掘調査で実態が分かってきた本能寺跡から二条殿跡、現在の本能寺の大賓殿宝物館、寺町通の名店グルメまで思いっきり戦国メタ散歩してきたぞ
そもそも、本能寺の変が起きた「本能寺」は何処にあったのか。現在の本能寺は、京都市の中でも修学旅行の学生や海外からのインバウンド旅行客にも人気の商店街「寺町通」に面している。これは、豊臣秀吉が天下人となった後、京都の大幅な改造に着手し、その一環として、天正18年、通りの東側に寺院を集めた際、本能寺を、元々あった京都市中京区元本能寺町からこの通りに移したことによる。
本能寺南町にあった京都市立本能小学校は、織田信長の定宿の一つだった本能寺の跡地と伝えられていたが、1992年に廃校となり、その後、京都市埋蔵文化財研究所により発掘調査が行われ、蛸薬師通に面した堀が見つかったことから、本能寺の寺域がここまで広がっていないことが明らかとなった。2007年には北側の元本能寺町でマンション建設に伴う発掘調査が関西文化財調査会によって行われ、初めて本能寺の遺構が明らかとなった。調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、「能」字を飾った軒丸瓦、鬼瓦が発見され、「本能寺の変」の具体的な物証が見つかり話題となった。
今回のメタ散歩では、今では石碑しか残らない「元の本能寺跡」と、この変で、信長とともに、光秀に嫡男の信忠が討たれた「二条殿跡」を巡り、更には、今の本能寺を訪ねて、信長公廟や、本能寺の変の際に信長が所持していて一緒に焼けた刀の復元刀を同寺の大賓殿宝物館で実際に手に持ったり往時を偲んだあとは、人気観光地、寺町通の名店でグルメを楽しんだ。
●本能寺跡
織田信長が明智光秀に襲われ自害・焼失した本能寺は現在地の寺町御池の本能寺ではなく、事件の起きた天正10年(1582年)ごろは堀川四条の近くにあり、寺域は東西120メートル、南北250メートルと言われてきたが、現在では、南北も120メートルで一町規模であった可能性が高いとされている。本能寺の変後、豊臣秀吉が現在地に移転した。アクセスは、市バス四条西洞院から300メートル。
現場に行ってみると、石碑は全部で3か所見つかった。
住所:京都市中京区小川通蛸薬師元本能寺町
アクセス:京都市バス 四条西洞院
関連サイト:京都観光オフィシャルサイト「京都観光NAVI」
●二条殿跡
信忠が討たれた場所。よく二条城と誤記されているが、今の徳川家康が関ヶ原の戦いの後に作った二条城でないのは勿論、足利義昭のために信長が作った旧二条城でもない。二条殿は、南北朝時代に太政大臣を務め、和歌連歌で著名な二条良基(1320〜88)の邸宅で、鎌倉時代には押小路殿とも呼ばれた邸宅であった。室町時代の洛中洛外図屏風にも描かれ、邸内には龍躍池があり、景観の美しさから皇族や信長に好まれた。信長は、この邸宅を譲り受け、京都所司代の村井貞勝が大幅に改築している。信長は、天正5年(1577年)に移り住んだが、天正7年(1579年)に、正親町天皇の皇太子、誠仁親王に献上した。その後は「二条新御所」とも呼ばれる。
天正10年(1573年)の本能寺の変の際に、信忠が、西隣の妙覚寺に宿泊していたが、駆けつけた村井貞勝が、自ら改築も行った二条殿の方が防御力に勝ると信忠を説得し、誠仁親王に避難してもらった後、この屋敷で光秀を迎え撃ったが、隣にあった近衛前久邸から鉄砲を撃ち込まれるなどして敗れ、自害した。二条殿は焼失し、今は石碑が残っている。
二条殿跡はのちに、龍池小学校となったが、2006年には、国内外の漫画に関する貴重な資料を集める日本初の総合的な漫画ミュージアム「京都国際マンガミュージアム」として開館した。明治時代の雑誌や戦後の貸本などの貴重な歴史資料、現代の人気作品、世界各国の名作などを所蔵している。
住所:京都市中京区両替町通御池上る東側(旧龍池小学校前)
アクセス:京都市営地下鉄・烏丸御池駅二番出口
関連サイト:フィールド・ミュージアム京都
●本能寺
本能寺は、当初は「本應寺」という寺号で、応永22年(1415年)に創建された。永享5年(1433年)、六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受けて寺地を移し、寺号を「本能寺」と改めた。中世後期には洛中法華21か寺の一つとなり、足利氏の保護を受けた。応仁の乱の後は、京都復興に尽力した町衆の多くが法華宗門徒で、本能寺は栄えた。戦国時代に入り、天文5年(1536年)、天文法華の乱で延暦寺の僧兵により焼き討ちされて堂宇はことごとく焼失し、本能寺は一山まるごと堺の顕本寺に避難した事もあった。
その後、京に戻り、天文14年(1545年)、石碑の残る旧本能小学校の北、元本能寺町付近)に寺地を得て伽藍が造立され中興がなされたが、本能寺の変でまたも焼失した。天正19年(1591年)には、豊臣秀吉の命で現在の寺域(中京区下本能寺前町)へと移築。現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地であった。その後も、天明8年(1788年)の天明の大火や、元治元年(1864年)の禁門の変(蛤御門の変)に伴う「どんどん焼け」で被災したが、その都度再建され、今に至る。
信長との関係では、当時、本能寺の住職だった日承上人は、信長と親しくしていた。上人は天皇の親戚であったこともあり、信長は、本能寺に滞在して、日承上人に仏教の教えをうけるとともに、天皇家とのつながりを築こうとしていたのかもしれない。 また、本能寺は早くから種子島や、大阪の堺で布教活動をおこなっており、種子島にたくさんの信者さんがいた。このことから本能寺に依頼すると鉄砲や火薬を手に入れるのが楽だったことから、信長は、境内地の安堵(禁制朱印状)を約束する代わりに鉄砲や火薬の交易の手助けを得ていた。こういった実利面での関係もあり、記録に残っているだけで、信長は4回、本能寺に逗留している。
住所:京都市中京区寺町通御池下ル下本能寺前町522
アクセス:京都市営地下鉄東西線・市役所前駅すぐ
参拝時間:6:00〜17:00
大賓殿宝物館・開館時間:9:00〜17:00(入館は16:30まで)
同館休館日:年末年始・展示替え日
同館入館料:一般 500円
中・高校生 300円
小学生 250円
修学旅行生・身障者 200円
※30名以上は団体割引あり
※大賓殿特別展開催期間中は料金が異なる
公式サイト:https://www.kyoto-honnouji.jp/index.html
「大賓殿宝物館」
本能寺は、他宗による破却や、本能寺の変などの戦乱や災難によって5度の焼失、7度の再建を繰り返してきたが、このような災禍をくぐり、守り抜かれてきた宝物が、大寶殿にて展示・公開されている。名品としては、「御本尊御曼荼羅」などの宗教的遺物や、檀信徒の豪商・茶屋家寄進の「大明万暦年製景徳鎮窯大瓶」、 狩野直信による「六曲一双 唐人物図扇面貼交屏風」、「建盞天目茶碗」、 信長所蔵の茶道具類や書状、信長に危険を知らせたと伝えられる唐銅香炉「三足の蛙」などが所蔵されている。
昨年の2022年4月16日からは、2023年9月25日まで、特別展『本能寺の変で焼失した信長の愛刀復元』が行われている。「本能寺の変」で信長とともに、焼け落ちた、と言われる2振の日本刀が復元され展示されており、1振は「実休光忠」(じっきゅうみつただ)、もう1振が「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)。どちらも、実際に手に持つことができる。重さや刀身は復元刀そのものと同じだ。
「信長公廟」
信長のお墓は全国に15か所以上あるが、このお墓は、信長の三男、信孝が、本能寺の変の一か月後に、当時の焼け落ちた本能寺を墓所と定めた事による。信孝は、焼け落ちた現場で集めた遺灰を納めたという。その後、本能寺の場所の移動とともに、ここに来た。境内には、森蘭丸など、本能寺の変のほかの戦死者の供養塔もある。
●京都文化博物館・特別展「四百年遠忌記念特別展 大名茶人 織田有楽斎」
会期: 2023年4月22日~2023年6月25日
有楽斎こと織田長益は天文16年(1547年)、織田信秀の子、信長の弟として生まれた。信長、秀吉、家康という3人の天下人に使え、武将として活躍し、晩年には京都・建仁寺の塔頭である 正伝院を再興し、隠棲する。
本能寺の変では、二条御所に籠った信忠の切腹後(有楽斎は信忠に付き従っていた)、二条御所を脱出する。このため、京の人々に「切腹をすすめておいて、逃げた男」と揶揄された。その後、信雄(信長の次男)に仕え、家康と秀吉の講和を調整するなど存在感を示したが、信雄が改易されると今度は秀吉の 御伽衆に加わる。関ヶ原の戦いでは東軍として参戦、戦後は豊臣家に仕えたが、大坂夏の陣の前には家康の許可を得て主人から離れている。
展示は5章立てで、その第1章は「織田長益の活躍と逸話―逃げた男”と呼んだのは誰か」。 本能寺の変で、織田有楽斎こと長益は脱出し生き延びたことから、江戸時代の歴史書で長益を“逃げた男”と評価を下すものがあるが、果たして、“逃げた男”というのは正しい評価だったのか。この章では、この点に立脚し、武将・織田長益の実像を、歴史資料を通して見つめ直し、その真の姿に迫っている。
一番最初に展示されているのが、先に触れた2007年の京都市埋蔵文化財研究所の元の本能寺跡の発掘調査で出てきた焼けた瓦や鬼瓦などの、本能寺の変の遺物。橙色や赤色に変色した瓦の欠片は、火災にあった証拠だ。
京都文化博物館・村野正景学芸員
「発掘調査によると、当時の本能寺は、周囲を堀で囲み、内部にも石垣と堀をもつといった防御の備えがありました。現在の本能寺の姿とは少々違いますね。ただし多勢に無勢、寺には火が放たれ、信長の遺体が見当たらぬほどの猛火であったと江戸時代の書物に語られています。しかし書物は当日の記録ではありません。事件があった後に書かれたものです。では実際はどうだったか。それを生々しく物語るのが、発掘出土の瓦です。この時代の瓦は一般的に灰黒色です。ところが、発掘でたくさんの赤く変色した瓦が出土しました。火を受けることで酸化鉄が生成し、黒から赤へと色が変わってしまったのです。この瓦があることで確かに寺が焼けたこと、そして書物も事実だったとわかります。
しかしながら、書物がいつも正しいとは限りません。本能寺の変当日、信長の息子・信忠は二条殿にて防戦するもそこで最後をとげますが、その時、織田有楽斎(源五)が信忠に「腹を召せ」とすすめ、自分は逃げ延びたと『義残後覚』は記します。本書は古く16世紀末頃に成立していたようで、後にこの話が広く伝わるきっかけの一つと考えられています。しかし本書は、どうも毛利家の周辺でつくられたようなのです。毛利家は豊臣の時代に五大老に任じられる等、豊臣政権に近い家柄です。
本書が強く持つ傾向、つまり豊臣家を良く、織田家の人物を悪し様に書くのは、前代を落とすことで、当代を持ち上げるという政権交代時に採られる常套手段ではないでしょうか。有楽斎が本能寺の変を生き延びたことも、本書にかかれば、織田を叩く材料になったというわけです。事実、本書のような蔑みの対象とは異なり、実際の有楽斎はこの後も大名間や文化人ネットワークの中で非常に敬意を払われる対象であり続けましたし、また何かしら決め事の判断を仰がれるような立場ですらありました。人から敬われ、また気遣いの人であった有楽斎のこと、もっと様々な配慮や機転があっての行動だったと思われます」
住所:京都市中京区三条高倉
アクセス:京都市営地下鉄・烏丸御池駅5番出口から三条通りを東へ徒歩3分
開室時間: 10:00~18:00(金曜日~19:30)
※入場は閉室30分前まで
休館日: 月曜日(ただし、5月1日は臨時開館)
会場: 京都文化博物館4・3階展示室
入場料(消費税込):一般1,600円、大高生1,000円、中小生500円
公式サイト:https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/odaurakusai/
●スマート珈琲店
この老舗の喫茶店は、現在の本能寺のすぐ近くにあるスマート珈琲店。喫茶店文化がすごく盛んな京都でも指折りの人気名店。いつも行列だ。昭和7年(1932年)に創業した時は「スマートランチ」と言う店名で、「気の利いたサービスを目指す」という意味を込めていた。戦後に、今の店名に改めた。
京都の同志社大学に通っていた筆者は大学時代、このお店によく通っていた。ゆっくり過ごせる雰囲気が最高なのだが、お気に入りは、創業当時から守り続ける自家焙煎コーヒー、ふっくらとしたホットケーキ、そして、少し固めのプリン。今回の取材では、社長の元木章さんにお話を伺ったが、焙煎には5種類の豆をブレンドしていて、性格の違う豆をなじませるのには寝かせることが必要だという。ホットケーキの粉の調整も同様に微妙な機微があり、今も、元木さんがすべて調整をしているそうだ。
筆者は、パンケーキも好きだが、ホットケーキが大の好物で、全国で様々なお店に通っているが、特に好きなのが、スマート珈琲店と、大阪の丸福珈琲店千日前本店。どちらも、表面がパリッとして、生地は柔らかく、風味も味わいも本当に絶妙。丸福珈琲店は昭和9年創業なのだが、なんと、スマート珈琲店の開業で手伝ったこともあったということだ。縁があったのだ。
住所:京都府京都市中京区寺町通三条上ル天性寺前町537
営業時間:8:00~19:00/ [ランチ]11:00〜14:30(L.O.)
定休日:無休/[ランチ]火曜日
公式サイト:https://www.smartcoffee.jp/
●生そば 常盤
明治11年(1878年)に善哉屋として創業。花かつおを始め、秘伝の数種類をブレンドした削り節と昆布から摂った風味豊かな”だし”が決め手。このお店も大学時代から、幾度通ったか分からないお気に入りで、特に、京都のうどんで大好きな「あんかけ」の中でも、溶き卵を漂わせた「けいらん」が絶品。今回紹介するのは、京都ならではの「ビフカツ」。東京ならトンカツだが、京都は牛。薄くたたいたビフカツは京都ならでは。
住所:京都市中京区寺町通三条上る天性寺前町523
アクセス:京都市営地下鉄東西線・京都市役所前駅5番出口より地上に上がり、 寺町アーケード筋を南へ200mの東側、徒歩3分
営業時間:11:00~16:00
定休日:水曜日
公式サイト:http://tokiwa.g3.xrea.com/
●京都市埋蔵文化財研究所
遺跡としての本能寺の様子はほとんど分かっていなかったが、2007年夏から冬にかけての京都市埋蔵文化財研究所が行った本能寺跡の発掘調査で、「本能寺の変」の実態も明らかになってきた。
発掘調査事例は以下の3か所。
①本能寺の東部中央(西洞院大路に面した位置)
西洞院川を埋め立てた整地層 (16 世紀中葉 )
北から西へL字形に折れ曲がる堀 (16 世紀後葉に埋まる )・堀の南北部分西側に石垣 →内部を区画する堀
堀の埋土から輪宝を額に戴いた鬼面や龍を表現した鬼瓦・「能」の特殊字の銘の軒丸瓦や赤く変色した瓦が 出土 (16 世紀後葉 )
題目や光明真言を記した卒塔婆・琥珀製の掛軸の軸端が出土
②本能寺の中央部北西寄り
東西方向に並ぶ3基の礎石据え付け穴・南北方向の溝 (16 世紀中葉〜後葉 ) →建物跡の一部 ( 北西隅部 ) と推定
「能」の特殊字の銘の軒丸瓦や赤く変色した瓦・焼けた壁土・土器が出土 (16 世紀後葉 )
整地層・土取穴 (16 世紀末頃 )
③本能寺の南東隅
西洞院川を埋め立てた整地層 (16 世紀中葉 )
四条坊門小路北側で幅2m以上・深さ1m以上の堀 (16 世紀末頃に埋まる ) →本能寺の南堀
発掘調査からわかったことをまとめると以下の通り。
①16世紀中葉に西洞院川が付け替えられ、整地が行なわれた。
②本能寺の周囲は堀で囲まれ、内部も堀によって区画されており、一部には石垣を積み上げていた。
③境内の中央部には礎石をそなえた建物があった。
④瓦葺きの建物があり、火災で焼失した。
⑤これらの遺構は16世紀末には埋められて整地が行われた。
このように、文献の記録が裏付けられた一方、境内が複雑な構造であり、建物の配置など未解決の問題も多く残されている。「本能寺の変」の検証はまだまだこれからである。
山本雅和・京都市考古資料化館長
「本能寺は数多い京都の遺跡の中でも最も注目されている遺跡の一つでありながら、長らくその実態が明らかになっていませんでした。ところが、2007年に続いて3回の発掘調査が実施され、「本能寺の変」にかかわる遺構や遺物が発見されたことは大きな話題となりました。織田信長とともに焼けた橙色に変色した瓦からは、小説・ドラマ・映画に描かれる信長の最後の姿を思い描くことができ、ファンのみならず多くの方々の関心を集める出土遺物となっています。これまで調査を実施した範囲は本能寺跡の一部にすぎません。今後も発掘調査の進展で、日本史最大の謎ともいわれる「本能寺の変」の実像が明らかになっていくこと期待しています」
京都市埋蔵文化財研究所の展示施設、京都市考古資料館では、特別展示「THE 金箔瓦」を開催中。 今回の展示では、安土・桃山時代を象徴する遺物の一つである金箔瓦をメインテーマとし、その誕生と展開、終焉までの歴史を追う。金箔瓦は織田信長の安土城に端を発し、織田一門以外の使用が認められなかったが、豊臣期には秀吉居城は元より、有力家臣の大名屋敷にも使用されるようになった。安土城・大阪城・聚楽第・伏見城・京都新城・二条城の最新の調査成果とともに、金箔瓦の製作技法復元や科学分析の成果など、金箔瓦の最新の知見について展示している。
会場:京都市考古資料館 1階特別展示コーナー
住所:京都市上京区今出川通大宮東入元伊佐町265番地の1
会期:2023年2月11日~6月18日
開館時間:午前9時~17時 ※ 入館は16時30分まで
休館日:月曜日
入館料:無料
公式サイト:https://www.kyoto-arc.or.jp/museum/
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