ピアノ協奏曲では本物のピアノを使った自動演奏
演奏は小森康弘氏指揮の横浜シンフォニエッタ。ピアノソロは碓井俊樹氏が担当した。
注目したいのは、披露した楽曲のうちピアノ協奏曲に関しては、ヤマハのグランドピアノ「Disklavier」が用いられた点だ。碓井氏の演奏から鍵盤タッチやペダルワークといった細かな動きを記録しておき、そのMIDIデータを読み込んで自動演奏している。
つまり、ピアノ部分の音は、録音した音源をスピーカーで鳴らすのではなく、ハンマーでピアノ線を叩いて音を出す、生楽器の演奏ということだ。これに事前に録音したオーケストラの音を組み合わせて再現したものなのである。言葉で書くと簡単だが、録音には苦労があったそうだ。ピアノと合わせた状態でオーケストラの音を録音するとどうしてもピアノの音が入ってしまうので、一度ピアノとオーケストラを合わせた状態で、ピアノの演奏データを記録し、そのうえでピアノを外し、そのあとでオーケストラのみの収録をするといった作業を経ているという。
子供のころに感じた思いを実現できた
横浜WEBステージのクリエイティブディレクターを務める田村吾郎さんは「2020年のコロナ禍以降、リアルなコンサートができなくなる中、テクノロジーを使って音楽と市民をつなぐ方法を考えたのが大本の企画」としたうえで、無人オーケストラの意義について説明した。
横浜WEBステージでは、コロナ禍で人が集まって演奏することが困難だった時期、以下の3点をコンセプトに据えて、さまざまな企画を展開してきた。第1にテクノロジーの力を借りてリアルなコンサートに行ったかのような臨場感あふれる体験を提供すること。第2にそれとは真逆になるが、リアルな演奏会では絶対にできない価値を提供すること、そして、今までの音楽、そして音楽ファンとのコミュニケーション以上の何かを伝えることだ。
田村氏は「この3つのコンセプトすべてを包含する企画が無人コンサートだ」とし、リアルなオーケストラの再現、観客席の決まった場所だけでなくオーケストラが演奏しているその中に入ることもできる体験が提供できる点を強調した。加えて、脚の不自由な人も来場できるコンサートにするなど、観客の多様性にも配慮した内容にしている。
声優の小岩井ことりさんは「とてもいい意味でクレイジーな企画だと思った」と感想を述べ、「世界中探してもない企画なのでは?」と田村さんに質問。田村さんは「10チャンネル程度の例はあるが、120chものトラックを扱うここまでの規模のものは調べた限りない、NHKとヤマハの協力で可能となった」と答えた。
無人オーケストラを発想したきっかけとして、自身の体験に触れた。「子供のころ、父に連れられて毎月のようにオーケストラコンサートに通っていた。コンサートでは同じ場所で長時間聴くのが普通だが、目の前にあるキラキラとしたステージの上に上りたい、あの楽器はどのような音がするのか、もっと近くで聴いてみたいといった気持ちをずっと持っていた。そんな子供の夢を大人になって立場を利用してやらせていただいた企画。子供の気持ちに戻ってどう再現するかに注力している」とした。
これに対して小岩井さんは「子供のころの夢がアイデアの源というのはすごく素敵だと思いました」とコメント。そのうえで「すごくおもしろかったのは、近づくことで各楽器のセクションを聴けるという点。一方で2階席や(当日は立ち入れないが)3階席などいろいろな位置を巡って聴くことによる発見もある」とし、「普通のコンサートではひとつの席で曲を聴くことになるが、席を移動しながら聴くことができ、同じ演奏も場所によって違う聴こえ方になる点に気付け、珍しく、面白い体験ができた」と無人オーケストラの魅力を語った。
確かに、オーケストラの演奏は聴く場所によって、音のバランスが変わる面がある。小岩井さんによると「ステレオの再生では絶対に感じ取れないバランスが得られたのは2階の真ん中の席だった」とのこと。「すごく生っぽく、総合的にバランスに優れた音だった」と話す。
オーディオでは得られない音の世界に感激
最後に実演を聴いた筆者の感想を簡単に述べたい。
まず、最初に強調しておきたいのは、広い会場で無人のオーケストラが奏でる音の迫力に、一般的なオーディオでは到底得ることができない深い感銘を受けた点だ。例えば、アタックの強い金属音は音が発せられる位置を明確に感じ取れるし、前方に配置した弦楽器の音は左右に大きく広がる。また、サブウーファーも併用したティンパニーなどの打楽器は非常に深い響きで、生演奏と遜色のないスケール感やダイナミズムがある。
オーケストラの演奏でも規模の大きな会場では、マイクで収音し、スピーカーで拡声する場合があるが、そういう演奏会でありがちな、目の前に本物のオーケストラがあるのに音の真実味が足りないといったがっかり感はまったく感じられなかった。
もちろん、スピーカー再生ということで生楽器の響きを完全には再現できていない面もある(例えば、弦や打楽器のちょっとしたなまりや無音時に微かに感じる残留ノイズなど)のだが、目をつぶって音だけを聴いたらまず意識することがなさそうな迫真性がある。
そして、何よりも良いと感じたのは、席に座って聴けば一体感がある音の世界、近づけば楽器ひとつひとつの音を明確に聴けるという普通のコンサートではまず得られない体験だ。筆者はオーケストラの演奏を、聴衆のひとりとして観客席で聴いた経験も、演奏側としてステージ上で聴いた経験もあるが、一度の演奏会で異なる2つの立場で音を聴いた経験はない。オーケストラの中に入って聴く際は特定の楽器の音、あるいはパートとパートの音が重なったハーモニーやユニゾンを演奏者の視点で聴くことができる。しかし、この音が会場でどのような響きになっているかは想像するしかない。
また、無人コンサートであれば、指揮者と同じ場所でオーケストラの音を聴くことができる。演奏会ではひとりしか立つことができない憧れの場所だが、眼前に広がる多様な楽器の出音がさまざまな方向から迫ってくる、夢のような体験ができた。条件さえ整えば、同じ体験が時間や場所の制限を超えて可能になり、さまざまな人が楽しめる。そんな想像をするだけでわくわくしてくる。
田村さんはテクノロジーを活用した今後の展開として、ヘッドホンを使った再生でバランスを変えて聴いたり、アプリ化なども考えられると話していたが、こういった世界の広がりも楽しい。
横浜みなとみらいホールは、昨年秋にリニューアルオープンしたばかりだが、これに合わせてコンセントの増設やLANケーブルの敷設なども実施したそうだ。無人コンサートでは、Danteシステムを利用したIP伝送で客席後方のデジタルミキサーとステージ上のI/Oラックをつないでいたが、ライブ配信も求められる時代、こうした設備も今後のコンサートホールには必須となっていくだろう。
デジタル技術の活用によるリアル体験の充実。そんな可能性を感じさせる、期待あふれる試みだった。