赤澤賢一郎の不自由自在第3回

アカザーの不自由自在

車いすのレーシングドライバー青木拓磨氏が考える車いすでの移動とは?

文●アカザー ●写真:曽根田元 編集●ASCII STARTUP

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この記事は、国土交通省による歩行空間データの活用を推進する「バリアフリー・ナビプロジェクト」に掲載されている記事の転載です。

 どうもアカザーです! 2000年の夏に脊髄を損傷し、そろそろ22年が経とうという車いすユーザーのオレです。今日はここ数年ハマっている、自動車を手だけで運転できる“手動運転装置”を使ったドライビングスクール「HDRS(ハンドドライブレーシングスクール)」の校長でもあり、車いすのレーシングドライバーの青木拓磨選手に、「車いすでの移動すること」についてお話を聞いてきました。

HDRS(ハンドドライブレーシングスクール)では、青木選手の隣に乗っての同乗体験もできる!  ●HRDS https://hrs.base.ec/

 青木拓磨選手は1995年と1996年の全日本ロードレース選手権スーパーバイククラスで全日本チャンピオンを獲得、1997年にはロードレース世界選手権に初参戦で年間ランキング5位! 翌年は世界チャンピオンも、との期待もかかりバイクレーサーとして順風満帆だった1998年2月。テストコースでの転倒により、脊髄を損傷し車いすユーザーに……。

 高校時代からバイク好きだったオレは、当時このニュースにめちゃめちゃショックを受けたのを覚えています。まあその2年後にオレもスノーボードでミスって車いすユーザーになったんですけど(笑)。だからなのか、自分の少し前に車いすユーザーになった青木拓磨選手のコトはずっとチェックしていました。車いすユーザーになってもチャレンジし続ける、青木さんの姿にいつも元気をもらっていました! そんなガッツあふれる青木さんが車いすユーザーになってからの四半世紀、どんな経験をしてこられたのかを聞いてみました。

25年前に車いすになったライダーに、22年前に車いすユーザーになったライターがインタビュー。

【青木拓磨】@takuma_aoki
1974年群馬県生まれ。1997年にはロードレース世界選手権で3度の表彰台を獲得し、ランキング5位。しかし、1998年2月にテスト中の事故で下半身不随となり、車いす生活を余儀なくされる。その後2007年に4輪のレーシングドライバーとしてレースに復帰。アジア・クロスカントリーラリーで総合7位、2008年には総合19位、市販車改造ディーゼルクラス優勝、2011年には総合3位。2019年7月には鈴鹿8時間耐久ロードレースの企画「Takuma Rides Again」にて、21年ぶりにバイク(下半身不随でも操作可能な特別仕様のホンダCBR1000RR)に乗って鈴鹿サーキットを走行。そして、2021年には障害を受けてからずっと目標に掲げていた、ル・マン24時間レースに初参戦。障害者ドライバーのみのチームでル・マン24時間レース完走、総合32位。

昔も今も変わらない⁉ 車いすで移動することへの周囲の理解度

 今から約25年前になります。僕の生まれは群馬の渋川市なんですけど、怪我をしたときにはバイクレースで世界戦を戦っていたので拠点は東京に移していました。それでも当時は東京ですら、車いすでの移動にはかなり苦労しました。山手線の駅にもあまりエレベーターなかったような時代でしたから。

「インフラは整備されつつあるが、心のバリアフリーはまだ発展途上」と語る青木氏。

 今では当たり前のように各駅にエレベーターがあったりしますが、それこそ当時は1号車の先端まで行って地下通路に降りて、職員用通路を使って再び地上に出て、やっと11号車まで移動できるみたいなこともありました。

 今でこそ11号車の近くにはエレベーターが設置されましたけど、インフラ以外の面でいろいろと不便があります。その一例が東北・北陸新幹線です。未だに乗車の2日前までに予約してくださいと言われるんです(笑)。「2日前?どういうことですかと?」やはり思っちゃいますよ。

 百歩譲って、日本人だと手間はかかりますが、2日前までに電話やウェブで予約を取ることはできると思うんですけれども、もし日本語ができない海外の車いすユーザーが旅行で来たなんてケースだと、2日前までにしかも日本人相手に電話で予約なんてことはかなり難しいと思うんです。そもそもそういった予約システムがあること自体を当日知ることがほとんだと思います。インフラは整備されつつあるんですが、まだまだそういった細かい心配りの面などで、後進国という気がします。

車いすユーザーになった直後から自分で車を運転

 そんな感じで、僕が車いすになった当時はバリアフリーという言葉すら認知されていない時代だったので、移動には車を使っていました。最初から電車移動やバスでの移動は諦めてました。荷物もろくに持てないですしね、車いすだと。だからこそ余計に車っていうものに飛びついたところはあります。車があれば、好きな時間に好きなときに好きな場所に移動できる! 翼が生えたような気になりました。

 僕の周りにはモータースポーツ関係の人が多かったので、手だけで車を運転できる手動運転装置の情報もすぐに入ってきて、手術が終わって約1ヵ月後には当時の愛車に手動運装置を装着して車を運転していました(笑)。

 僕は子供の頃からバイクレースに出ていたこともあり、手で車を運転することには全然違和感がなかったんです。バイクって右手でアクセルとブレーキを操作するじゃないですか。というか、18歳で車の免許を取得したので、足を使って車を運転していたのは4年ほどなんですよ。つまり、バイクに乗って手でアクセルやブレーキを操作している時間の方が圧倒的に長かったんです。なので、手で車を運転することに対して皆さんほど違和感がなかったのかもしれないです。手動運手装置を使うようになって以来、ほとんどの移動は車がメインです。もちろん自分で運転しますよ。

【2019年7月に特別仕様のホンダCBR1000RRで鈴鹿サーキットを21年ぶりに走行】
https://twitter.com/takuma_aoki/media

海外と日本のバリアフリーの違いは“周囲の意識”

 レースでイギリスとかイタリアとかに行っても、そこまで頻繁に公共の乗り物には乗ったことがないんです。空港からアクセスの良いモノレールとかそういったものくらい。もっぱら海外でもレンタカーでの車移動がメインです。

 なので、本当のところのイタリアやヨーロッパでの車いすの移動事情っていうのはわからないんですけれども、ただひとつ言えるのは車でヨーロッパの街とかを移動していて、車移動の車いすユーザーに対してのヨーロッパの方々の意識は高いと思いました。

 日本だと障害者用パーキングエリアに違反駐車している車両とかよく見ますよね(笑)。海外では障害者用パーキングエリアに停めた車から健常者が降りてきたりすると、それが違法駐車だと気付いた周りの人が注意するんですよ。「お前車いすじゃないよな? 健康だろ?」みたいなそんな感じで。日本だとあまりそういった光景を見る事はないじゃないですか。そういった障害者を取りまく社会全体としての意識の違いが大きいかもしれないですね。その辺の意識が日本とは全然違うと思います。

海外と日本ではバリアフリーに対する周囲の意識が違うと語る。

 なかでも僕がいちばん衝撃を受けたのはアメリカです。怪我をした直後に手術を受けにアメリカに行ったんですが、25年くらい前でもすでにアメリカでは車いすの人が普通に生活をしていたんです。普通に会社に行って、普通に遊びに行って、普通に飲みに行って、みたいな感じです。健常者となんら変わらない感じで移動し、生活しているワケですよ。車いすで外に出るための障壁が一切ない。そして、それが当たり前のようにそこにある社会。当時の日本のバリアフリー事情を知る僕にとっては驚きでした。

海外でバリアフリーに対する“意識”が生まれたきっかけ?

 これは僕の推論ですけれども、きっかけは第二次世界大戦やベトナム戦争に行って帰ってきた兵士の皆さん、怪我をして傷病兵になった皆さんなのでは? と思っています。負傷して帰ってきた人たち、彼らは戦友であり英雄であるわけですよ。そういった英雄たちが社会に復帰できるようにしようっていうのが、アメリカのバリアフリーのはじまりだったんじゃないでしょうか?

 国として国民として、そういったことをすべてやるという意識ですね。国のために戦ってきたくれた人たちのために、国や国民全体で何かをする。そういう意識があったんだと思います。たぶんアメリカも100年前は今の日本と変わらなかったように思います。でも50年前はもう戦後なので、そこで大きな意識の転換が生まれたんじゃないかなと。

 そしてそんな社会が進化して、車いすユーザーや杖をついている方、ベビーカーを押している方なんかにとっても優しい社会が生まれ、今日があるんだと思います。そういう社会的な意識はフランスやイギリスにもある気がします。

運転を補助するデバイスの多様化がもたらすフラットな移動

 僕は車いすユーザーですがモータースポーツをやっていて、車いすや障害を持った人が社会に出るきっかけになればいいと思っています。そして、そういう人たちが社会に出るバリアを打破するのは、自動車の力であったり運転する装置であったり、自動車があることで社会への進出が容易にできやすくなると言うことです。でも最近はコロナというきっかけがあって、リモートワークが広まって、出勤しなくても大丈夫みたいになってますどね(笑)。

 でも日本の道路交通法って、実は障害者に対しての理解度や意識が高いんですよ。乙武さんが乗っている電動車いす、あれってジョイスティックみたいなもので操作しているんですけれども、ああいったジョイスティックを取り付けた車を教習所に持ち込んで免許を取る、ということが日本では可能だったりするんです。その特別な装置が付いている車両だったら運転してもいいよという免許です。

HDRSにて、手動運転装置でのドライビングのコツを指導する青木氏。

 さらに今は腕が動かなくても目線だけで運転できちゃう時代なんですよ! ハンドルとかないんです! そういった運転補助装置を作っている会社がドイツにあるんですよ。先月ドイツで実際にその車を見たんですが、「ハンドルがねぇ!」ってなりました(笑)。今後はそういった技術によって、車いすだとか障害者だからっていうのはどんどんなくなって、よりフラットな社会になっていくんじゃないでしょうか。そういった意味でも、僕は車というものが自分自身を自由にしてくれるツールとしては最高のものだと思っています。

車いすだからといって何ひとつ諦めることはない!

 昨年、僕がル・マンに出たときのレーシングカーの運転補助装置はどうだったかっていうと、ハンドルの裏の左右に板が2枚付いていて、左手でアクセルパドルを、右手でシフトアップパドルを操作。運転席の右側に付いているバーを押すことでブレーキ、そのバーの上にあるボタンを指で押せばシフトダウンというもの。

昨年のル・マン24時間レースで青木氏がドライブしたレースカーの手動運転装置。

 市販されている手動運転装置をスポーツドライビングに特化させたようなものだったんですが、実はレースには間に合わなかった“もっと速く走れる手動運転装置”の構想がありました! その方式だと、健常者たちの手でハンドル、足でブレーキとアクセルを操作する車よりも速く走れる可能性があると思っています。

 だって、考えてみてください。大豆を右の皿から左の皿に移すのを手でやるのか? 足でやるのか? 手でやるほうがだんぜん正確に素早く移せますよね。足でやれば10秒に1粒移せたらいいほうで、それが手だと1秒に2つぐらい移動できますよ。ドライビングも同じです。手でやるほうが足でやるよりずっと正確な操作ができるんです。

 なので、次はそのマシンを駆ってル・マンを走り、昨年のリザルト以上でゴールするのが目標です。

 25年前、僕はバイクレーサーとして怪我をして車いすになりましたが、健常者のレーシングドライバーたちを相手に、車いすでもレースで対等に戦えているっていう姿を見せたいなと思っています。そして、怪我をしたからといって諦めることは何ひとつないんじゃないか? ということを、これからも伝えていければいいなと思っているんです。


【アカザーのインタビュー後記】
 数年前にHDRS(ハンド・ドライブ・レーシング・スクール)ではじめて青木さんにお会いしたときの「車に乗れば健常者も障害者もなくみんなドライバー」という言葉が強く心に残っています。HDRSは青木さん自身から、体幹が効かない車いすユーザーならではのドライビングのコツなどを聞けたりする、めっちゃ有意義なドライビングスクールなんですが、俺が数年間通い続けるいちばんの理由はそこじゃないんです。車いすになっても世界を相手に挑戦し続ける男に会うと「オレも負けていられねぇ!」ってパワーが沸いてくるからなんです!やっぱり車いすでル・マン24時間を初出場・初完走した男の持つエネルギーは凄い! デカイ! カッチョイイ!

アカザー(赤澤賢一郎)
週刊アスキーの編集者を経て、現在は車いすのフリー編集者・ライターをやっています。2000年にスノーボード中の事故で脊髄を損傷(Th12-L1)。車椅子ユーザーになって21年です。2018年に札医大で再生医療の治験を受け、2020年に20年ぶりに歩行!!!

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