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ソフトベンダーTAKERU 30周年 レトロPC/ゲームを振り返る 第2回

今だから話せる!? 「中の人」が語るTAKERUの軌跡

2016年11月01日 11時00分更新

文● 宮里圭介

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始まりは「1983年8月15日の午後3時」だった

人物紹介

ブラザー工業株式会社
新規事業推進部 技術推進1グループ
グランド・マスター 工学博士
安友 雄一

 当時のTAKERU&JOYSOUND開発リーダー。

※安友さんのインタビュー映像はこちらでも見られます。

PCソフトの販売でわかった限界と問題点

 ブラザーがアンテナショップとして「コムロード」(現アプライドグループ)を立ち上げたのが、1983年。PC用のソフトも扱っていたが、売れるソフトは一瞬で売れて品切れになるが、売れないものはいつまでも売れず不良在庫になってしまう、というのが課題だった。ちょうどこの時、電気通信事業の自由化を目前に控え、通信を使う「ニューメディア」が注目されており、これでソフト販売の在庫問題を解決できないかと考えたのが安友氏だ。

「当時ニューメディアだといって騒いでいましたが、速度は遅いし通信料は高い。これを使ったサービスというのは実現性が薄かったのですが、大変だろうけどやってみようか、ということで始めました」

 その結果として考え出されたのが、ソフトを通信で送って販売しようという構想だ。紙に概要をまとめ、インテック(電気通信事業者)のネットワーク責任者へと相談したのが1983年の8月15日、午後3時。これがTAKERU実現への最初の一歩となった。

これはTAKERUのサービスが開始された当初のシステム概要だが、1983年8月15日の時点でも、これに近い形のシステム概要を見せて相談したそうだ

 とはいえ前例のないシステムだけに開発は簡単ではなく、プロトタイプの4台はFRPで作ったため静電とノイズ特性に弱くて悩んだり、制御に使用したPC-98の詳しい資料がなく、内部資料を出してくれとNECに直談判しに行ったり、通信費をいかに抑えるかという問題に取り組んだりと、多忙な日々を過ごすこととなった。そしてついに1985年に完成し、3月に「パソコンソフト自動販売システム発表会」を開くまでこぎつけた。この発表会で展示されたのが、プロトタイプの4台だ。このときはまだ「TAKERU」や「武尊」の名前はなく、「SV-2000」という名前だった。

「『SV-2000』のSVは『ソフトベンダー』の略。そして2000は、西暦2000年までに2000台設置し、2000億円規模の事業にするという3つの願いが込められていました」

プロトタイプを紹介している「コムロードエクスプレス」。1985年4月号での特集となっている。このコムロードエクスプレスは、発表会の会場でも展示されていた

中はSV-2000がどういうものかをわかりやすく解説してある記事。当時らしさが感じられる懐かしい文体、ハレー彗星の話題があるなど、堅苦しくない内容だ

 この発表会の後、コムロードをはじめJ&P(上新電機)、ラオックス、ヨドバシカメラ、九十九電機など15店舗の協力を得て、12月までに東京、大阪、名古屋で試験運用を開始。そして1986年4月の本格販売開始へと続いていく。

 本格販売に際し、名称を「ソフトベンダー武尊」へと変更。当時の資料によると、「古事記、日本書紀に出てくる神話上の英雄日本武尊命(ヤマトタケルノミコト)から命名。古代大和朝廷発展期において東伐西征事業を行い、古代の活力を示す英雄にあやかり、群雄割拠するニューメディア時代において「武尊」がニューメディア時代の活力として時代を先導するシステムとなることを指向しました」とある。

「最初はSV-2000でいこうと思ったんですが、ちょうどその頃、製品名に漢字を使うのが流行りだしたんですよ。漢字を使った、かわいい、面白いものにしようということで、『ソフトベンダー武尊っていいんじゃない?』と。漢字でいこう、と。そうしたら、子供が読めなくて……パソコンショップで『おいちゃん、ブソンどこにある?』とか聞いちゃって」

本格的な販売は赤いTAKERUで開始された。デザインは大きく変更されているが、基本機能は変わらない

赤字の連続と黒字化への起死回生案

 どうにかソフトの販売は始まったものの、問題となるのがやはり通信費。最初はインテックのセンターから店舗までを専用線で結んでいたが、いろいろ手を尽くしても1000万円売り上げるのに1300万円かかるといったように、なかなか赤字を脱却できなかった。そしてついに、もう撤退しろという話まで出てきてしまった。

「社長以下20人くらい役員がいるところで吊し上げ食らって。そこで、『撤退するにもお金がいります』と」

 実はこのとき、コスト削減でやれることといえば、専用線から加入電話へと変更することくらいしか残っていなかった。ただし、この切り替えにはモデムの購入などの追加費用がかかってしまうため、手を出せないでいたのだ。

「回線の変更はだいたいの見積もりも出していて、その改造にかかる費用も頭に入ってたんです。そこで撤退費用の金額を聞かれたので、自然にポロっと『5千万円です』といってしまって。そしたら……決済が下りちゃったんですよね」

 しかし、安友氏は撤退する気など最初からない。

「で、戻るなり『(お金が出たから)さっさと改造するぞ』と。やってみたら黒字になりました」

 つまるところ撤退費用の使い込みなのだが、この後も事業が継続し、そして通信カラオケへとつながっていくことを考えれば、結果的に大英断だったといえるだろう。

専用線で接続していたインテックと販売店の間を、加入電話へと変更。高止まりしていた通信コストを削減できた

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