戦国LOVE Walker総編集長・玉置泰紀の戦国メタ散歩 第6回

関ケ原の東軍陣地も西軍陣地も“まるっと”岐阜関ケ原古戦場記念館の小和田哲男館長と戦国メタ散歩したぞ

文●玉置泰紀(一般社団法人メタ観光推進機構理事)

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 大河ドラマ「どうする家康」もついにクライマックス。徳川家康にとって、天下分け目の戦いとなった関ケ原の戦いの戦場を、「どうする家康」の時代考証の一角を担った歴史学者であり、岐阜関ケ原古戦場記念館館長の小和田哲男氏と歩かせてもらった。大谷吉継陣地から黒田長政陣地、石田三成陣地、決戦地、徳川家康最後陣地と4時間かけて回った今年一番の戦国メタ散歩だ。同記念館は、家康最後の陣地跡に建てられている。

 同記念館公式サイトの小和田さんの挨拶は以下の通り

「関ケ原の戦いは、よく「天下分け目の関ケ原」などといわれます。合戦があった当時はまだ、東軍・西軍という言い方はしていませんが、徳川家康を中心とする東軍と、石田三成を中心とする西軍の合わせて15万を超える日本を二分する大軍がこの関ケ原で激突し、豊臣の世から徳川の世に天下が移っていったからです」

 関ケ原は、中山道、北国街道、伊勢街道が交差する交通の要衝で、東西の結節点であり、古くから知られている場所だった。関ケ原の戦いは、慶長5年9月15日(1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ケ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた。豊臣秀吉の死後、徳川家康を総大将とし福島正則・黒田長政らからなる東軍と、毛利輝元を総大将とし宇喜多秀家・石田三成らを中心に結成された反徳川の西軍の両陣営が激突。両軍を合わせて15万の大軍が会戦をした。 勝者である徳川家康は天下人への歩を進めた。

 日本書紀では、日本武尊が伊吹山に荒神がいると聞き、退治しようと出掛けた際、道中で荒神が降らせた氷雨の毒気にあたり、山を下り、ふもとに清水が湧き出ていたので、それを飲みなんとか一命をとりとめたという伝説の「日本武尊居醒(やまとたけるのみこといざめ)の泉」は、関ケ原鍾乳洞の入り口付近の湧き水だった。

 また、かつての天下分け目の戦い、天武天皇元年(672年)の「壬申の乱」でも、大海人皇子が本拠地を置いた場所と言われる野上行宮(のがみあんぐう)は、関ケ原町大字野上地区の長者屋敷と呼ばれる丘陵地にあった。日本書紀によると、大海人皇子は2か月近くここにいたという。関ケ原の戦いの際に、徳川家康が布陣したことで有名な桃配山も、語源は壬申の乱の際に大海人皇子が兵を励ますために桃を配ったという逸話から付いたともいわれるが、日本書紀などに記述はない。

岐阜関ケ原古戦場記念館前で、小和田哲男館長

黒田長政陣地のあった岡山(丸山)烽火場へと登っていく竹林の道で小和田氏

岐阜関ケ原古戦場記念館

JR関ヶ原駅前の地図看板

大谷吉継陣地から黒田長政陣地、石田三成陣地、決戦地、徳川家康最後陣地と4時間かけて小和田さんと回ったリアル体験は地形が楽しい 

 岐阜関ケ原古戦場記念館は、様々な古戦場・史跡巡りの情報やサービスを提供しており、「せきがはら史跡ガイド」やレンタサイクルも用意されている。これらのサービスで活用できるように、様々なルート開発もしていて、ウォーキングでは、「関ケ原七武将ウォーキングガイドマップ」が、石田三成、大谷吉継、徳川家康、黒田長政、福島正則、小早川秀秋、島津義弘の武将ごとに用意されていて、公式サイトからも利用できるが、紙のマップも用意されていて、見ていて楽しい。

同館古戦場・史跡めぐり

各武将ごとのマップが同館で入手できる。

公式サイトから石田三成のマップ

 今回は、小和田さんの選んだポイントで回り、途中、自動車での移動も挟みつつ、関ケ原を体感できるコースを回った。

【大谷吉継陣跡・墓】 

 まずは、大谷吉継の陣地と、関ケ原で亡くなった唯一の武将となった大谷の墓を訪れた。大谷の陣地は、小早川秀秋の不穏な動きを警戒して、東山道(中山道)を見下ろし、松尾山を正面に望む山中に布陣していた。実際に登ると結構な傾斜で、松尾山から駆け下りてきた小早川隊を平地で迎え撃ったという印象が変わる。墓は、更に奥まった山中にあり、花が絶えることはない。義の人であり、石田三成を最後まで支えた姿が人気を集めている。

 小和田さんは「松尾山の山上や中腹に陣取った西軍最大級の1万5000の小早川隊が、想定していたとはいえ、東軍に寝返って殺到して来たときは、大谷吉継は地団太を踏んだことでしょう」と説明。ガイドマップによると、大谷隊はわずか600で、周辺の諸隊を合わせても3000弱だったと思われ、小早川隊だけでなく、脇坂安治や朽木元綱ら前方の各隊も寝返ったので、大谷隊に襲い掛かった軍勢は2万近かったと思われる。

 大谷の布陣について、小和田さんは「従来は、石田三成に大垣城に籠城されると手ごわいので、家康が、わざと佐和山を抜いて大阪めがけて進むよと見せて、おびき出したと言われてきたが、三成が最初から関ケ原に陣を敷こうとしていたんだ、と言う研究が出てきた。小早川は裏切りそうとわかっていて、大谷吉継は早くから、この位置に布陣していたので、石田としては、大谷を救わなきゃいけない。そういう思いもあって、自ら大垣城を出て関ケ原に進んだ可能性もある」と語り、これからは、松尾山と大谷吉継の陣、お墓にスポットが当たっていくのでは、と説明した。

大谷吉継の陣跡。「大谷吉隆」になっているのは、小和田さんによると、明治のころに建てられた石碑は、江戸時代の軍記ものに書かれていた名前からこうなっているが、今は、当時の文献から吉継と言う書き方で決着している、とのこと

大谷吉継の墓。花が絶えない

松尾山眺望地。正面1.5km先に見えるのが小早川秀秋が布陣した松尾山

【岡山(丸山)烽火場/黒田長政・竹中重門陣跡】 

 標高164mの丘陵で、関ケ原を一望でき、戦況が見渡せる絶好の場所。竹中重里は竹中半兵衛の嫡子であり、この辺り一帯の領主で地理に詳しく、黒田官兵衛の嫡子・黒田長政とは幼馴染で(黒田官兵衛が荒木村重に幽閉されていた際、竹中半兵衛が長政をかくまった)、最高の陣地を教え、開戦後は、抜け道を通って、裏山を越えて隣に布陣していた石田三成の笹尾山の陣地の脇腹を突き、麓の島左近隊を銃撃した。両軍合わせて5000余り。開戦の狼煙もここから上げられた。豊臣秀吉の2大軍師の嫡子が活躍したわけだ。黒田長政は、小早川秀秋や吉川広家の調略や、石田三成の家老である島左近を討つなど、多くの戦功をあげ、家康から御感状を賜って、関ケ原の戦い一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前国52万3000余石を与えられた。

【笹尾山・石田三成陣跡】 

 関ケ原を見下ろし、北国街道も押さえられる山頂に布陣。開戦直前に布陣したが、小和田さんは「さすがにいい場所を選んでいる。しかし、あまりに、ぎりぎりだったので、土塁などを作る余裕はなかった」と評価した。麓には島左近が陣取った。開戦時は、西軍8万4000、東軍7万4000と、数で有利だった西軍だったが、南宮山の毛利秀元1万5000、長宗我部盛親6600、安国寺恵瓊1800、長塚正家1500が、調略されて動かない麓の吉川広家4200で参戦できず、3万近い軍勢がフリーズした。そこに、小早川秀秋と周辺の大名が寝返ったことで、初戦は善戦した西軍も押し込まれ、三成は伊吹山方面へ逃れた。

【決戦地】

 笹尾山の目の前。西軍の最奥に当たり、石田隊や島津隊に攻め込む東軍でひしめき合ったことだろう。

【陣場野公園・徳川家康最後陣地】

  徳川家康の最初陣地は、西軍からは一番遠い、ずいぶん手前の桃配山だった。戦況を把握し、味方を鼓舞するために、合戦当日の午前11時ごろに前線近くまで前進し、三成の正面に本陣を移した。現在の岐阜関ケ原古戦場記念館裏手、陣場野公園になる。合戦後には、ここで引見が行われ、家康は床几に腰をかけ、論功行賞のために、討ち取った西軍武将の首実検をした。

 小和田さんとの戦国メタ散歩はここまでだったが、ほかの同行したプレスのメンバーたちと、最後にいくつか質問をした。

──今年の大河ドラマ「どうする家康」の時代考証をして一番うれしかったことはなんですか。

「瀬名改め築山殿を悪女に描いてなかったこと。今までは、どうしても彼女が武田勝頼と内通して、それが信長にばれて、信長から家康にあの二人(築山殿と嫡男の松平信康)を殺せと言われて、最愛の息子を殺した。その張本人は築山殿だから、彼女は悪かった、と言う風に、今までは言われていたのですが、今年は彼女を悪女に描かなかった。

築山殿を演じるのは、古くは池上季実子さん(「徳川家康」1983年)、最近では、「おんな城主 直虎」(2017年)では菜々緒さんが演じたが、にこりともしない、冷たい女のイメージだった。それが、今年の有村架純さんみたいに、にこやかな可愛い女優さんを選んだのは、私は(考証で)言ってよかったな、と。どうしても、家康は亡くなって東照大権現という神になったから、神様が間違いを犯すはずがない、というのが昔の考えなんです。家康のやった悪いことっていうか間違いは、周りの人が間違ったからだというのが通説になっていたのを、それをちょっと突き崩したのが今年のひとつの成果かな」

──築山殿のほかによかった、と思われたことは。

「今川義元をちゃんと描いてくれた。今年の名セリフだと、私は思うのは、“武でもって制するは覇道。徳をもって制するが王道”。あれはなかなかいいセリフだな」

──岐阜関ケ原古戦場記念館館長としておすすめは。

「2階の展示室。今は、レプリカが多いのだけど、館長としては本物を集めたい。地元の竹中重門など関ケ原参戦武将の史料を、寄託の形でも預けて貰えればありがたいし、寄贈してくれたら更に嬉しい。これを呼びかけています。こちらから声をかけて、出来るだけ本物を集めたい。アンテナを張って、充実させていきたい。シアターとかビジョンで学んでいただきながら、展示室で、本物にも触れてほしい」

【桃配山・徳川家康最初陣地】 

 小和田さんと別れた後、桃配山へ。壬申の乱の勝者である大海人皇子(のちの天武天皇)が、士気を鼓舞するために、自らの兵に山桃を配ったと言う縁起のいい場所であることから、家康は、この地を選んだという。戦場が見渡せ、また、東軍の端に当たり、裏切りが出たら、すぐさま離脱することもできた。

【岐阜関ケ原古戦場記念館】

 慶長5年(1600年)、天下分け目の「関ケ原の戦い」が同館のある一帯で繰り広げられた。この施設は、そんな大きな歴史の瞬間を体中で感じられる体験型の施設になっている。全国を舞台とした東西陣営を俯瞰できる巨大な床面のスクリーン「グラウンド・ビジョン」、続く「シアター」では両軍の激突を迫力ある映像で再現し、歴史的なシーンに迷い込んだかのように感じられる。2階の常設展示や陣羽織を着て戦国武将になりきって写真撮影ができる「戦国体験コーナー」など、関ケ原の戦いを五感で感じることができる。レストランやグッズのストアも大充実だ。

「戦国体験コーナー」で、戦国武将になり切って撮影

5階展望室からは関ケ原古戦場全体が見渡せる

レストラン「伊吹庵」。

様々な戦国グッズや同館のオリジナルグッズが充実している

■岐阜関ケ原古戦場記念館概要

住所
岐阜県不破郡関ケ原町894-55

営業時間
9:30~17:00(入館は16:30まで)

休業日
毎週月曜日(祝日の場合は翌平日) 、年末年始(12/29~1/3)

料金
一般 500円、高校生・大学生 300円、中学生以下 無料

アクセス
JR関ヶ原駅から北に徒歩で10分、名神高速道路・関ケ原ICから北に車で約5分

公式サイト
https://sekigahara.pref.gifu.lg.jp/

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