2023年度のリニューアルオープンに向けた大規模改修工事のため、長期休館中の横浜美術館。美術館のスタッフはお休みのあいだも忙しく働いているようですが、彼らはいったい何をしているの? そもそも美術館のスタッフってどんな人?
そんな素朴なギモンにお答えするシリーズ第6弾は、渉外担当が登場。一般企業でもある職種ですが、美術館ならではのポイントがありそうです。地元企業とのコラボレーションから生まれた、横浜美術館コレクション作品を身近に楽しめるアプリについてもご紹介します!
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「アートでめぐる横浜18区」南区編 波間に浮かぶタコとカニ。確かな技術が可能にした三代井上良斎の自由な作陶 井上良斎(三代)《波文象嵌壺(はもんぞうがんつぼ) 銘「海」》
記事一覧はこちら:アートで暮らしに彩りを。ヨコハマ・アート・ダイアリー
企業と美術館は同じ未来を夢見る「街町の仲間」だった。
横浜市のオープンイノベーションを推進
――渉外担当って、どんなことをしているの?
襟川「読んで字のごとく、外部と渉りあう仕事です。英語では『development(開発・進化)』と表現されることもあり、私の中では『美術館の活動を外に向かって広げてゆく仕事』と位置付けています。」
――具体的には何をするの?
襟川「仕事の多くは、企業を回って展覧会等への協賛をお願いすることからはじまります。そのつながりを通じて美術館の活動を外の組織に伝え、街に広げてゆくことが課題のひとつです。美術館のひとびとは、誰もがアートの素晴らしさを皆さんに伝えるために働いていますが、その中で渉外担当は、積極的に外に出てつながりを作るところに特徴があります。美術館に軸足を置きながら、もう一方の足は常に外に出して活動しているイメージでしょうか。」
――美術館も一般企業と一緒に仕事をするんですね
襟川「横浜市では、企業や大学、NPOなど多様な主体によるオープンイノベーションを推進しています。中でも横浜美術館があるみなとみらい地区にはテック系企業が多いため、その流れを牽引することが期待されてきました。ビジネスの中で『アートシンキング』『デザイン思考』といった言葉がもてはやされているのだから、オープンイノベーションの輪の中に美術館が加わったら、何かが動くのではないか。そんな発想から地域企業との交流をはじめたところ、意外なほど多くの企業に歓迎していただけました。」
――なるほど。面白そうですね!
襟川「はい、とても興味深い取り組みです。ただ、企業の方はビジネスの話法、私は美術館の話法でコミュニケーションを図ろうとするため、はじめは話がすれ違うことも多くて(苦笑)。それが対話を重ねるうちに『実は同じ未来について話していたんだね』と理解し合えるようになり、具体的な成果としてご紹介できるものもいくつか生まれてきました。今後もお互いの特性を活かして協働できるポイントを探り、社会に良い流れを作って行くことを目指していきたいです。」
アプリ「みるみるアート きみはだれ?」をリリース
――具体的な「成果」を紹介してください
襟川「2022年3月、野村総合研究所(以下、NRI)と共同開発した横浜美術館コレクション鑑賞アプリ『みるみるアート きみはだれ?』をリリースしました。NRIが持つアプリ開発技術と、横浜美術館のアート発信力を掛け合わせることで生まれた、新しいツールです。」
横浜美術館コレクション鑑賞アプリ 「みるみるアート きみはだれ?」
https://yokohama.art.museum/education/school/collection.html
襟川「発端は、展覧会への協賛や連携をお願いすべく、NRIにアプローチしたことです。そこから同じ街で働く者同士として本当にいろいろな話をし、コミュニケーションを重ねるうちに『横浜美術館とはこんなことができるかもしれない』という可能性がNRI担当者に伝わり、アプリ技術の開発部門につないでくださったのです。金融システム開発などで磨かれてきた先端技術と、アートをわかりやすく伝えるノウハウ。一緒に働くことでお互いのスキルが活かされ、社会課題の解決などにも役立つのではないか、という思いが重なり、共通の目標に向かって進むことができました。
今後とも良い関係を築いていきたいと願っています。また、今回のアプリ開発を起爆剤に、『私たちもやりたい!』と手を挙げてくれる企業が新たに出現することも願っています。」
――「みるみるアート きみはだれ?」とは、どんなアプリ?
襟川「1万3000点を超える横浜美術館コレクション作品の中から、西洋画、日本画、写真、版画 など多様な10点をセレクトしました。取り上げた作品には、さまざまな環境・国・時代に暮らす人、あるいは人ではない何かが登場し、そのひとつひとつに『きみはだれ?』と問いかけることから鑑賞がスタート。画面をスワイプしたり、シェイクしたり、拍手をしたりと様々な方法で作品と対話し、興味や理解を深める体験を楽しめます。」
襟川「『きみはだれ?』という言葉は、相手に対して『きみに興味を持ちました』という気持ちを伝える最初の一言です。相手に興味を持って呼びかけ、自分の思いを語るのは、多様性に対する寛容への第一歩だと考えています。スマートフォンやタブレットでURLにアクセスすれば、ダウンロード不要で利用できるので、特にお子さんたちには、夏休みの自由研究などにもぜひ活用していただきたいです!」
――ほかにはどんなことに取り組んでいるの?
襟川「先日は、神奈川大学社会連携センターにご協力いただき、ビジネスパーソンを対象とした造形体験のワークショップを開催しました。横のつながりに興味のある方々がご参加くださり、アートが持つポテンシャルを体感していただけたと思います。」
襟川「また、殺風景になりがちなオフィスビルのエントランスに、アート作品を展示するプロジェクトがスタートしました。メンテナンスや安全面などを心配する声もありましたが、横浜美術館の学芸員から『映像作品が良いのでは』というアイデアが寄せられたことから一気に前進。当館所蔵の映像作品やコレクション作品を紹介する動画を投影することが決まりました。」
横浜美術館コレクションをMMパークビルのエントランスでご紹介中です
https://yokohama.art.museum/news/news/data-20220808-1217.html
転職を重ねた末に感じた「美術館って素晴らしい!」
――この仕事に就いたきっかけは?
襟川「私は美術の専門教育を受けたことがありません。商社、金融、生花業と転職を重ね、30代は茶道の家元事務局で働いていました。しきたりや伝統を重んじる世界でしたが、その頃のトレンドで現代アーティストの作品を床間にかけてを催す『新しい茶会』が注目されるようになります。そこから現代アートに興味を持つようになり、たまたまみつけた森美術館の求人に応募。まったくの未経験から、渉外関連の仕事に就きました。」
――アートの世界へステップアップしていった感じですね
襟川「いえいえ、とんでもない。伝統的な茶道とは対極にある世界がたまらなく魅力的に感じられる一方で、10年以上オフィスワークから離れていたためPCスキルも乏しい私にとっては、毎日が苦難と恥の連続でした。『このブランクは一生取り戻せないかも…』と落ち込んでばかりいた、というのが正直なところです。
そんな時、職場でもある美術館の中をひと回りすると、そこには自分とはかけ離れた世界が広がっていて、不思議なくらいリラックスできたのです。自分は多様性の中のひとつ。みんないろいろな場所にいて、いろいろな考え方を持っている。それが世界。自分だけが劣っているわけではなく、私にも自分らしく生きる権利がある。そう考えることができました。つまり、私が『美術館は素晴らしい所だ』と実感したのは、40歳になってからなんです。
その後、2013年に横浜美術館に転職し、現在に至ります。」
生活の近くに美術館があった方がいいよね、と感じていただきたくて
――これからどんな仕事をしていきたい?
襟川「渉外という仕事の目的として『ソーシャルグッド』を掲げています。公共美術館は『暮らしを良くするためにないと困る』という皆さんの実感なくして存在できません。それを実現するためには、ある作品を誰かとみた時に『面白かったね』だけで終わらせず、いろいろ語り合って欲しいと思っています。芸術論だけでなく、社会問題を語り合ってもいい。アートはさまざまな世界と繋がっているので、環境問題なども、アートを介すことで新しい世界観が持てると思います。多様性を認め合う、人に優しい世界。『良い未来』に向けた共通イメージを見出すために、美術館を利用していただきたいですね。
現在、横浜美術館のリニューアル後のあるべき姿を、みんなで一所懸命考えているところです。それは『訪れた人の心にどう残っていくか』を考えることでもあります。横浜美術館はアートを体感する場所ですが、さらに『その先』を提案できる場所になっていけたらいいな、と思っています。」
襟川 文恵(えりかわ・ふみえ)
商社、生命保険会社に勤務した後に、趣味として学んだフラワーデザインを仕事にすべく、生花業の会社に就職。主に婚礼装花を手掛ける。その後、日本らしい装花のありかたを学ぶべく、鎌倉にある茶道宗家に事務局員として勤務。仕事や稽古を通して、日本の美術の真髄に触れる。ある日、茶室に飾られた現代美術に興味を持ったことから、2005年に森美術館(森ビル)へ入社。美術館の「渉外」という仕事と出会う。2013年より現職。美術館を「人がより良く生きるために必要なインフラ」として人々の暮らしに浸透させるべく、日々挑戦を続けている。
<わたしの仕事のおとも>
初めてお会いする方と名刺交換する際、必ず「かわいい!」と笑顔になっていただけます。素直に声に出さない方もいらっしゃいますが、内心で思っていることがチラッとでも感じられたらしめたもの。「この人とは実りある話ができる!」と思う瞬間です。
<わたしの推し!横浜美術館コレクション>
大正時代の木版画、いわゆる新版画の一作です。
1984年、当時28歳だったスティーブ・ジョブズが、初代マッキントッシュの発表会で流したデモ画面の冒頭で、この作品のコンピュータ模写が映し出されました。当時のコンピューターグラフィック技術はまだ未成熟で、アートとは遠いものだと思われていたため、このなめらかな黒髪が画面上で再現されたことに世界中の人々が驚きました。
アートを最高のビジネスパートナーとしたジョブスは、日本の新版画を愛し、多数の美術作品を所蔵していました。その中でもお気に入りの1点だったことは間違いありませんが、最新テクノロジーの幕開けを象徴する場に日本の美術作品が用いられたことを誇らしく思います。横浜美術館はそんな歴史的瞬間に立ち会った作品も所蔵しているので、展示された際はぜひみにきてください!
※この記事は下記を一部編集のうえ、転載しています。
―note「美術館のひとびと」
https://yokohama-art-museum.note.jp/n/n11eeb4856ea9