時間をかけて練り上げてきた「名盤の空間オーディオバージョン」
今回マーティン氏はビートルズの名盤を空間オーディオ作品にリミックスするため、どれほどの時間をかけてきたのだろうか。スタジオワークの詳細をマーティン氏が振り返った。
「リミックスの作業にかかる時間は楽曲によっても様々だ。半日で終わることもあれば、3日をかけることもあるし、はたまた何年も費やす場合だって考えられる。私がビートルズの初期作品をリミックスする時には、当時バンドがレコーディングに使った『Studio Two』にこもり、『Studio Twoを感じられるサウンド』を再現することを目標に置いている。元のトラックをミックスするだけでなく、実際に彼らがいる部屋の雰囲気を再現しながら、よりリアルな録音に仕上げるんだ。その過程が上手く行けば仕事がスムーズに進むし、何か納得できない部分があれば何度も丁寧に練り直すこともある」(マーティン氏)
マーティン氏のコメントは、徐々にアルバム『1』の空間オーディオ版の“聴きどころ”と深く関わる所にも触れていく。マーティン氏は特に「難敵」だった、あの楽曲の空間オーディオ化を実現した時のエピソードを語った。
「正直に言って『A Hard Day's Night』の制作はとてもタフだった。まず、ジョンのボーカルとアコースティックギター、コンガが1つのトラックに収録されている。そしてギター、ドラム、ベースがまた別のトラック、そしてジョンとポール、もう一人のギターは別のトラックという具合なんだ。モノラルトラックの音源を分解して、空間オーディオにリミックスする途中段階では、圧縮のために音圧レベルが変化してしまう課題もあった。それぞれの音源のバランスを最適化して、原盤と同じフィーリングに調整するためにとても長い時間をかけて丁寧に作り込んだ」(マーティン氏)
「『Strawberry Fields Forever』は父が音楽プロデュサーとして最も誇らしく感じていた、ビートルズの作品のひとつ」なのだと、マーティン氏は父とジョン・レノンによる制作エピソードとともに振り返った。
「作品が発表されてからしばらくの間、父とジョンは様々な理由ですれ違いになっていた。ジョンが亡くなる1ヵ月前のある日、ジョンが不意に父に連絡を取ってきたんだ。そして父は、ニューヨーク・マンハッタンのダコタ・ハウスにいるジョンに会うために出かけていった。ジョンはまた父と一緒に仕事がしたいと考えていたようで、“この機会に、もう一度ちゃんと作品を録り直したいんだ”と父に切り出したそうだよ。父は相当面食らってしまったみたいだけど、ジョンは“きっと良いものができるに違いないから”と父を説き伏せた。だったらと、父は『Strawberry Fields』をジョンに勧めたんだ。ジョンも納得して、楽曲をマルチトラックと立体的な録音技術を使って録り直すことを決めたそうだ。
それからまたしばらく時が経って、いよいよStrawberry Fieldsが空間オーディオで聴けるようになったことを、私もとても嬉しく思っている。私にとって、この楽曲はビートルズの作品の中でも最も空間オーディオと相性のよい名作のひとつなんだ。“Nothing is real”という歌詞と曲の雰囲気にもぴたりと合うし。AirPods ProやAirPods Maxで聴きながら、この楽曲の世界観をしみじみと深く味わっているよ」
最後にマーティン氏は、最新の空間オーディオ対応作品として生まれ変わったビートルズの名曲を聴いて、感じた思いを次のように語っている。
「私が最初にアビーロードスタジオに足を踏み入れた時のことを、とても鮮やかに思い出すよ。父の聴力が衰えはじめてから、私も彼の耳の代わりを務めるようになり、父の仕事を次第に受け継いできた。ある日、父がビートルズのアンソロジー・プロジェクトに携わることになり、スタジオでビートルズのサウンドを聴き直していたんだ。アナログマスターテープに記録されていたジョンの声やギターが、まるで彼がいまこの場所で演奏しているみたいに生々しかったことを覚えている。私たち人間は歳を重ねて行くけれど、録音された音楽はいつまでも若々しいままなんだ。空間オーディオのテクノロジーが誕生したことで、私たちは音楽リスニングを通じてタイムトラベルができるようになった。ビートルズと一緒に、時間や場所を越えた体験を共有できる。そんなリスニングを多くのファンに味わってほしいね」(マーティン氏)
Apple Musicのドルビーアトモスによる空間オーディオ作品は、Apple Musicのサブスクリプションサービスに登録すれば追加料金なしで聴くことができる。アップルのデバイスにはiPhone/iPad/Macの内蔵スピーカー、あるいはこれらのデバイスとヘッドホン・イヤホンとの組み合わせから、Apple TV 4Kとオーディオシステムとの組み合わせまで幅広く楽しめる環境がある。Androidの環境では、Apple MusicアプリをインストールしたDolby Atmos対応デバイスが必要だ。
iPhoneでビートルズの『1』を聴く場合、iOSの「設定」から「ミュージック」を選択、「ドルビーアトモス」の項目を「オフ」にすると通常のステレオバージョンのリスニングに切り換えることもできる。空間オーディオバージョンとの聴き比べもぜひ楽しみたい。
筆者紹介――山本 敦
オーディオ・ビジュアル専門誌のWeb編集・記者職を経てフリーに。取材対象はITからオーディオ・ビジュアルまで、スマート・エレクトロニクスに精通する。ヘッドホン、イヤホンは毎年300機を超える新製品を体験する。国内外のスタートアップによる製品、サービスの取材、インタビューなども数多く手がける。