新型コロナウイルスの影響で約3ヶ月の間、学びの機会を失ってきた子供たち。しかし、休校を余儀なくされていた学校側でもさまざまな試行錯誤が行なわれていた。クラウドストレージサービスである「Box」を導入して、オンライン教育の導入を一気に進めたのが兵庫県尼崎市だ。なぜオンライン教育を急いだのか、Boxを選定した理由、ネット接続のない家庭への対応は、そしてアフターコロナの教育環境とは?などを尼崎市教育委員会に聞いた。
バッファを使い切ったゴールデンウィーク明け 休校の長期化が与える影響
日本国内で新型コロナウイルスの感染が拡大した2月末、突然政府は全国の小中高校について、3月からの臨時休校を要請した。その瞬間から、学校教育の現場では、未経験の事態への対応に追われた。兵庫県尼崎市も、5月31日まで市立の小中高校を休校することを発表している。尼崎市教育委員会教育長の松本眞氏は、休校が長期化したことで、5月の在宅学習は、3月、4月までとは前提が全く異なると話す。
通常、小中学校では年間約1000コマの授業をこなすことが必要とされるが、どのように年間の授業計画を進めるかは各学校に委ねられている。台風等の災害で授業が遅れたりすることを考慮して、概ね1ヶ月程度の余裕を持って年間のカリキュラムを組む学校が大半だという。その意味では、今回のコロナ感染によって3月から全国で休校となった時点で、多くの学校では2019年度に学ぶべき授業内容は終わっていたとみられる。春休みまでの本来登校すべき期間が在宅になっても、生徒への指示は復習中心で問題なかった。
4月、新年度に入っても休校は続いたが、今度は新年度分の余裕時間を先に消化することにすれば、後から追いつくことを計算できた。しかし、5月の大型連休明けも休校は継続する。いよいよバッファも使い切り、各学校は判断を求められた。これ以上授業を遅らせれば、夏休みの登校などが必要になる。
尼崎市が下した決断は、新年度の授業を在宅で始めるということだった。「新規の授業内容を在宅のままでスタートするという、これまでどの学校も経験したことがない挑戦だった」(松本氏)
生徒宅のITインフラを積極活用 アカウント不要のBoxが早期運用を実現
尼崎市の各学校では、新学期に向けて、教科書の解説や独自のアドバイス、練習問題などを記載した「ワークシート」という資料を作成した。それを定期的に生徒宅に郵送し、教科ごとの学習を進める計画だ。ただ、リアルな授業が行えないため、ワークシートだけでは伝えきれないことも多い。それを補う教材として考えたのが、動画教材の提供だ。
「YouTube世代の子供たちは、解説動画を5分でも10分でも見ることで、理解度が格段に高まる。動画を教員が作り、クラウドストレージにアップロードして、家庭のインターネット環境で見てもらう仕組みを作ることにした」(松本氏)
教員側も、若手を中心に動画などのデジタル教材を積極的に作ってくれるだろうというという読みもあった。早速、教育委員会では動画を保存するクラウドストレージの選定を始めた。その過程で、以前から公共、教育部門の開拓に力を入れていたBox Japanと接点を持ち、トライアルから導入を開始した。
ファイル共有サービスにBoxを選んだ理由について、選定にあたった尼崎市教育委員会事務局 学び支援課係長の瀧本晋作氏は、保存容量が無制限である点と、生徒にアカウントがなくても使えることをメリットとして挙げる。
「なにしろアカウントなしで使えたのは大きかった。各家庭にアカウント登録からお願いする必要があったら、まだ運用は始まっていなかっただろう。また、使い勝手がいいことにも助けられている。導入当初は私のところにいくつか問い合わせがあったものの、すぐに理解してもらったようで最近ではほとんど問い合わせが来なくなった」
市内の半数以上の学校で活用中
具体的な運用は、ごくシンプルだ。まず各学校から文書や動画などの教材をBoxへアップロードし、そのリンクを各クラスのメールの連絡網で通知する。家庭で生徒はそのリンクからBox内のコンテンツを閲覧して、教科書やワークシートの補助的な教材として使う。
利用状況は下記の通りである。
・小学校 41校中29校で利用中
・中学校 17校中8校で利用中
・市立高校 3校中2校で利用中
(※いずれも5月17日時点)
データをアップロードしている教員は、全教員の3分の1程度とみられている。Boxに上げられたファイルの容量は、4月22日時点で4.8GBだったが、5月15日には86.6GBに達している。大型連休を挟み、急上昇した。
家庭からのアクセスも、多い日は2万5000を超え、順調に推移している。「連休明けの5月7日~8日に、各学校から生徒宅へ郵送した通知で、Boxに新しい教材がアップされていることを伝えたため、5月11日にアクセスが急増した。家庭でBoxを利用することが定着しつつあると感じている」(瀧本氏)
今後は段階的に登校日が設定されると予想されるため、登校時に告知することで、在宅時の教材としてBoxの利用がさらに進むと期待している。また、教材を提供する教員側も、積極的に使用する人が出てきている。教員が自分でBoxの設定をして、生徒から図工の課題作品の写真をアップロードさせ、クラスメートで共有している活用例もあるという。
「学校組織は、企業のように上意下達で何もかも動かせるわけではなく、実際に授業でITツールをどう使うかなどの運用面は、現場の教員の裁量によるところが大きい。そのため教育委員会はあくまでインフラの提供に徹し、コンテンツや運用については現場が自由に使ってもらうほうがうまくいくと考えている」(松本氏)
すでに、利用者である各学校から教育委員会へ、Boxを長期的に継続して利用したい声も届いている。
「ある学区では、以前から区内の複数の学校間で情報を共有できる基盤が必要だと議論していた。メールにファイルを添付する方法では限界を感じていたためだ。その学区の校長先生から直接連絡が来て、今回のコロナ対策でBoxを使うようになり非常に便利なので、コロナが収束したあとも引き続き使えるようにしてほしいと要望されている」(松本氏)
5%の「ネットがない家庭」への対応 アフターコロナの教育環境とは?
実は尼崎市教育委員会では、クラウド利用を決める前に、生徒宅のインターネット環境についてアンケートを採っている。それによると、インターネットを使って動画等の教材が受信できると答えた家庭は95.1%で、約5%はインターネットを使えないことがわかった。
従来であれば、学校教育のインフラとして5%の家庭で利用ができないものは採用されないのが順当だろう。しかし尼崎市では、クラウドサービスの利用に踏み切った。
この決断の理由を松本氏は、次のように話す。
「ゼロリスク主義では、いつまでたっても教育は変えられない。たとえば、悪天候時の運動会の開催判断などは、従来からホームページで通知する運用を行ってきた。その延長線上だと考えれば、無理なことではない。教育現場のIT利用は必然という話は以前から語られてきたが、進んでこなかった。この非常時に思い切った判断をすることで、学校はもちろん家庭にも、教育にインターネットは必要だという認識を持っていただくきっかけになればいいと思っている」
インターネット環境がない家庭への支援策は、登校日に学校のPCを使う形が基本になる。登校日は5月18日からで、取り組みは始まったばかりだが、学校のコンピュータ室でどうやって「密」を避けながら使うかなど課題も多い。尼崎市は人口45万人の大きな市で、市街地と郊外で学校の規模も大きく異なるため、対応は学校ごとに違ってくるという。
尼崎市教育委員会では、コロナが収束して登校が可能になった後も、ITによる学習支援を積極的に推進していきたい考えだ。
「中学と高校を対象に、オンライン教育アプリケーションである『スタディサプリ』の利用も予定している。現在のインターネット利用の取り組みを一過性のものにせず、国が進める『GIGAスクール構想』へつなげていきたい」(瀧本氏)
Boxに関しても、まだすべての学校、教員が使っているわけではない。教育委員会としては優れた利用事例の情報提供を行って利用拡大を支援していく。
「教育現場は、学校で長期間授業が行えないという初めて経験する試練に直面した。そしていまは、『学校教育とは何か』を本気で考える機会ともなっている。教室という場に集まって行う教育で何をすべきか、先生方はみな問い直している。この貴重な経験を生かして、次の教育の形を作っていかなければいけない」(松本氏)
できない理由を探して全体を止めることをよしせず、できるところから着手した尼崎市の取り組みは、教育現場の停滞を防ぎ、次の段階へ進めようとしている。