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長野県で活動を続けるつづく井領さんが抱く本気のSaaS愛

SaaSは地方の中小企業を救えるのか?ある経営者の絶望と再生

2019年12月30日 09時00分更新

文● 重森大 編集●大谷イビサ

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 クラウドサービス、特に開発不要ですぐに使い始められる多くのSaaSは、大企業だけのものだったITの力を中小企業にも広げる力を持っていると言われることが多い。しかし、地方中小企業の実態は、理想論とはかけ離れた状況にあるようだ。

 noteに掲載され、多くの人の心を打った「地方でSaaS導入支援会社を起業して3年、階段から降りられなくなった」の書き手であり、長野県上田市で地元企業へのSaaS普及に尽力する、つづくの井領 昭広さんに話を伺った。浮かび上がったのは、東京でSaaSを開発販売する企業が思い描く中小企業像と実態との大きな乖離だった。

つづくの井領 昭広さん

カリスマ経営者に憧れた若者時代を経てITの世界に飛び込む

 井領さんは子どもの頃から、職人に憧れを持っていたという。優れた職人が生み出すものは生活に根ざしていて、そこには機能美がある。また、技術立国として成長してきた時代の日本において、優れた職人は優れた経営者でもあった。本田宗一郎氏のように技術者から経営者へ歩みを進めて成功した人たちの立志伝を数多く読みあさったという。

「衝撃的な出会いがあったのは、16歳のときでした。1冊の本を読んだことで私は経営学に傾倒していきました」(井領さん)

 その本とは、「セブン‐イレブンの『16歳からの経営学』―鈴木敏文が教える『ほんとう』の仕事(勝見 明著)」だ。当時の井領さんは、まさに16歳。出会ったタイミングにも運命を感じ、当時セブン&アイ・ホールディングス会長兼最高経営責任者だった鈴木 敏文氏の経営哲学に心酔した。

「いつか鈴木さんの右腕になりたいと憧れ、大学でも迷わず経営学部に進みました。卒業時、これからの経営者を支えるためにはITの知識が必要だと考え、NTTデータイントラマートに就職しました」(井領さん)

 イントラマートはNTTデータの社内ベンチャー的な立ち位置にあり、大企業の安定性とベンチャーのスピード感を兼ね備えるという意味でいい選択だった。一般のベンチャーとの最大の違いはNTTデータという大きな看板のもとでビジネスを展開していったということ。井領さんは就職後すぐに超大手クライアントを数多く担当して経験を積んでいった。

「新しい潮流を感じ始めたのは、2010年頃だったでしょうか。SaaSが本格的に普及し始めました。このままいけば旧来のIT業界は殺されるのではないかという危機感を抱いたほどです」(井領さん)

SaaSに秘められた力を信じて転職、そして起業したが、しかし……

 井領さんは、「クラウド」と「SaaS」という単語を明確に使い分ける。クラウドという単語が示す範囲は広すぎる上に、「リフト&シフト」という手法が存在することからわかるように、ただ単に従来型のシステムの置き場所を変えただけでもクラウドと表現できる。井領さんはそうしたクラウド全般ではなく、メールアドレスとクレジットカート番号を登録するとすぐに業務システムとして使い始められるようなSaaSに特に注目していた。

「私が注目したのはSaaSの安さではなく手軽さです。従来ならSIerに依頼したりエンジニアを雇って開発しなければならなかったソフトウェアやITツールが、経営者でもすぐ使えるよう民主化されたのです」(井領さん)

 大規模企業なら、SIerに依頼して自社向けシステムを構築できるが、中小企業にそれだけの余力はない。しかしSaaSなら、中小企業でもITの恩恵を受けられる。その可能性に賭け、井領さんはSaaSベンダーのひとつであるfreeeに転職した。「スモールビジネスを、世界の主役に」と掲げるfreeeで中小企業を、職人を支援したいと思っていた。

「ところが、freeeはなかなか中小企業に採用してもらえませんでした。特に地方では、セミナーなどを開いても契約がほとんど取れない状態。その理由について考えているうちに、自分自身が地方に行かなければ本当の地方支援はできないと思うようになりました。そして、長野県に移住して作ったのがつづく株式会社です」(井領さん)

 長野県を選んだのは、奥さんの地元だったからだ。「同じ釜の飯を食った仲」という言葉があるように、自分自身が地方に軸足を置き同じ環境で仕事をすれば、話を聞いてもらえるはず。そう考えての移住だった。しかし現実は想像よりもはるかに厳しかった。

「パソコンの電源の入れ方、タブレットの音量調整の方法、そんなレベルから教えなければならない世界がそこには広がっていました。テクノロジーを活用した業務の効率化を説いても、興味を持ってくれる人はほとんどいませんでした」(井領さん)

 地方の中小企業では、紙の書類とFAX、電話が当たり前に使われている。そして商談といえば客先を訪ねて対面で行なうもの。それに対して井領さんは、導入後のサポートにビデオチャットを持ち込んだ。訪問するよりも頻繁に、気軽にサポートを受けられると考えてのことだったが、これが裏目に出た。客のところに来て話を聞いてくれないと言われたのだ。ITを前提としたビジネスの常識は、地方では通じなかった。

強制的に生まれた空白時間が、気持ちをリセットして原点に立ち返る余裕に

 IT導入のキーワードのひとつとしてここで井領さんは、「マインドシェア」という単語を挙げた。ターゲットユーザーがあるプロダクトについてどの程度好意的に捉えているか、製品導入に向けた意欲が思考のどの程度の比率を占めるかを示す用語だ。

「freeeにいたときには、freeeかマネーフォワードか、どちらがより高いマインドシェアを取れるかという話をしていましたが、そんなものは地方では意味がないと思い知りました。そもそも地方で中小企業を経営している人の心を占めているのは、今月も従業員に給与を支払えるか、来月も今月と同じように業績を維持できるか、今日は何時頃に帰って何を食べようか、そんな目先のことばかりです。業務の効率化になんて心の端っこにしかなく、ITに関することはさらにその中のごく一部でしかありません」(井領さん)

 地方でのSaaS普及なんて到達不可能な幻のゴールなのかもしれない、自分のやっていることに価値はあるのだろうか。そんな思いが強くなっていった。顧客は増えず貯蓄はみるみる減っていく。事業を継続するためにはITリテラシーの高い都会の企業をターゲットにすべきではないのか、そんな思考が頭の中をぐるぐると渦巻き、次第に目先の経営しか考えられなくなっていった。いまや井領さん自身も、気持ちに余裕のない地方中小企業の経営者のひとりだった。

 そして、ついに気持ちが折れる日が訪れる。クレーム対応が続いたある日、井領さんは出勤できず自分の会社を無断欠勤した。井領さんは当時のことを、自身のnoteにこうつづっている。

本気で私は悩んだ。
苦しんでまで、地方でSaaSの普及をやる必要はあるのだろうか。
東京に戻れば、今のようなパソコンの電源の入れ方から、iPadの音量調整の仕方から教えないといけないマーケットから"逃げられる"のではないか。

(中略)

経営者である以上、社員を食わせていかないと、というプレッシャーはすさまじかった。寝ても覚めてもお金の事を考え、必死だった。いつしか、会社の目的は食わせるために、お金を稼がないといけない、というなんともお恥ずかしい、悲惨なものになっていた。

そして、その日は来た。
お客様からのかなり酷いクレームが3件、立て続いた翌週、私は朝、階段を降りることができなくなった。
生まれて初めて、私は無断欠勤をした。
私は、私の会社に行けなかった。

「地方でSaaS導入支援会社を起業して3年、階段から降りられなくなった」(中編)


 精神的に追い込まれ、仕事を休まざるを得なくなった井領さん。しかし、この時間を使って自分がなぜ起業したのか、自分自身の原点に立ち返る時間を得たという。

「社員のためにお金を稼がなければという思考にとらわれていました。それをいったんリセットして、自分が起業したときの原点に立ち返ることにしました。このままでは地方でSaaSが普及しないという危機感、SaaSへの愛、それを思い出したのです。お金は、その結果としてついてくるものであって、お金稼ぎが目的ではなかったはず」(井領さん)

そもそもなぜ地方でSaaSが売れないのか真剣に考えた

 原点に立ち返った井領さんは、ビジネスを大きく方向転換した。いや、原点に立ち返って方向修正をしたのだから、当初の方向に戻っただけかもしれない。新規営業をやめるなど、とにかくドラスティックな変化を起こした。従業員である会田さんが「目指すゴールは変わらないけれど、アプローチは150度くらい変わった」と言うくらいの変化だった。

つづくのオフィス

「SaaSベンダーが考える中小企業像と、実際の地方の中小企業の経営現場とはあまりにかけ離れています。SaaSを使うとペーパーレスになって事務作業の時間も削減できます、と売り込んでいる営業担当者の人たちは、ペーパーレスになる前の、紙を使った決済現場を知りません。それを知らずにマインドシェアを取れるはずがないのです。たとえばキャッシュフローという言葉ひとつとっても、東京のSaaSベンダーの営業担当者が考えることと中小企業の経営者が考えることは違います。会社の口座に500万円しかないのに、従業員の給与と仕入れで600万円の請求が来る。どう乗り切ればいいのか。それが中小企業のキャッシュフローのリアルです。IT化で作業が減るとか、そういうレベルの話ではなんです」(井領さん)

 プロダクトマーケットフィット(PMF)という言葉がある。たとえば、ターゲットとしているマーケットのニーズに対してfreeeがどの程度フィットしているか、というようことを考える際に使う言葉だ。しかし井領さんは、地方の中小企業においてはプロダクト単位でのマインドシェア同様に、PMFはまったく意味を成さないと言う。プロダクト単位ではなく、SaaSというカテゴリー全体で力を合わせて、マーケットを作っていかなければならない。言うなれば、カテゴリーマーケットフィット(CMF)のレベルで取り組んでいかなければならないと説く。

 いま重視しているキーワードとして挙げたのは、事例、動機、そしてマインドシェア。中でも一番効くのは事例だという。しかし事例紹介の仕方にも、井領さんならではの工夫がある。SaaSを活用して成功した顧客の事例を紹介するのだが、その際に製品や機能の紹介は最小限に留めているというのだ。ベンダーが作成する導入事例とは正反対に近い紹介方法だ。先述の通り、中小企業の経営者はSaaSをプロダクト単位で区別して考えてはいないからだ。なんとなく「ITで成功している事例」と理解して、その効果に注目する。ITは所詮道具なので、アプローチとしては案外これが正攻法なのかもしれない。

「たとえば当社のコンサルティングで成功した事例のひとつに、両国屋豆腐店というお豆腐屋さんがあります。kintoneとfreeeを使っているのですが、この事例を知った経営者さんから『うちもkintoneを導入したい』という問い合わせがあった訳ではありません。『あの豆腐店と同じことをやりたい』と問い合わせをいただくんです。同じツールを使いたいのではなく、同じ成果を上げたいんです」(井領さん)

 この両国屋豆腐店の事例を引いて、井領さんは中小企業がSaaSを使う動機についても説明してくれた。同店は三代続く豆腐店なのだが、受注が増えれば増えるほど事務作業が増え、豆腐屋なのに豆腐作りに集中できないというジレンマに陥っていた。これは、紙やFAXで事務処理をしている地方の中小企業にありがちな課題だ。もちろん、懸案事項は事務作業だけではない。顧客管理、仕入れ、キャッシュフロー、パート従業員の管理、エトセトラエトセトラ。

「新商品開発の時間が欲しい、顧客のニーズに合わせた商品を提供したい、そういう強い動機があって初めて、業務効率化などに目が向きます。課題ごとに数多くのステークホルダーがいますが、その中で私たちが手伝えるのが、SaaSを使った事務作業の効率化だったという訳です。これを皮切りに他のことも効率化できるかも、と考え始めてくれるかもしれませんが、ともかく強い動機付けがなくてはスタート地点にも立たないのです」(井領さん)

 マインドシェアは前述したとおり、プロダクト単位ではなくSaaS、ひいてはITを使った業務効率化という広いジャンルでまずはマインドシェアを得ていかなければならないという話だ。

愛を持ってSaaSを地方に普及させていくために必要なこれからのこと

 話を聞く限りでは、課題ばかりのようにも思えてくる。しかし井領さんは一旦気持ちをリセットし、自分が進むべき方向をしっかり見出しているようだった。

「SaaSが好きだから、地方の中小企業にも使ってもらいたいから、長野に来て起業したんです。これまでは、土壌調査をしていたようなものです。地方の中小企業経営とはどういうものか、身をもって体験しながら、調査してきました。わかったのは、大事なのは技術ではないということと、SaaSを受け入れてもらえるよう土壌改善から取り組むべきだということです」(井領さん)

 具体的な取り組みとして、いまは商工会議所を窓口にして中小企業の底上げを図っているという。日本各地に515ある商工会議所は、中小企業にアプローチできる数少ない全国規模の組織だ。井領さんは商工会議所をまとめる日本商工会議所の顧問を引き受けており、依頼があれば各地の商工会議所でセミナーを行なうという。

「セミナーを行なうと言っても、AIやIoTなどといった華やかなワードが飛び交うものではありません。行政からそういったワードとともに助成金が下りてきてセミナーが開催されることは多いのですが、はたしてAIセミナーのあとでAIに触れてみる経営者がどれくらいいるでしょうか。地方のドローン活用セミナーの後にドローンを飛ばしてみたことのある人はどれくらいいるでしょうか。何度も言う通り、こうした先端技術は地方のマーケットにまったくフィットしていないのです」(井領さん)

 地方マーケットに合わせたセミナーを行なうと同時に、強制的にリテラシーを引き上げる取り組みも始めている。日本商工会議所にChatworkを導入してもらい、井領さんへの連絡には必ずChatworkを使ってもらっているという。

 

「チャットという抵抗感の少ない所から、少しずつSaaSに慣れてもらおうと思っています」(井領さん)

 とても地道な活動、とても小さな歩幅で一歩一歩すすむ井領さんの取り組みにより、いつか全国の中小企業にSaaSが広がり、日本のビジネス全体の効率が上がる日を、筆者もともに夢見たいと思う。

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