奥さんは面接うかると思っていなかったらしい
岩本:さっそくなんですが、改めて3人が会社に入った経緯を教えてください。今回、自ら起業したパターン、エンジニアとして入社したパターン、創業メンバーの一人として入社したパターンなどそれぞれバラバラなんですね。先ほどちょこっと創業の経緯を話していた田中さんから。
田中:学生時代に自分でサーバーを立ち上げて社外の人に貸していたんですけど、けっこうユーザーが増えてしまったんです。
岩本:いつくらいの話ですか?
田中:1995年くらいですかね。私、Apacheユーザー会をやっていて、OSSの発信をしていて、そのついでにサーバーを貸していたんですけど、トラフィックが増えまして。私のサーバーを商用に使ってはいけないSINETにつないで公開していたので、大学から怒られまして(笑)。
じゃあ、サーバー閉じようと思ったんですけど、自分にとってはサーバー立ち上げるのは簡単だったけど、ほかの人からするとえらく難しい作業らしいんですよね。「お金を払ってでもいいからサーバーを使わせてくれ」と言われたんです。そこが起業のきっかけですね。
岩本:じゃあ、そこから会社にしたんですね。
田中:はい。会社にしたら、ちょうどネットバブルが来て、今よりもすごい波でしたね。結局、増資をしたんですけど、増資をしたらしたで上場しないといけない。でも、エンジニアとしては、それはなんか違うと思ったし、社内の規則を作るのもいやだったので、「そんなんで社長やってんじゃない」という感じで辞めたんです。まあ音楽性の違い、ロックな感じですよねー。吹奏楽部だったけど。
岩本:ブラスバンドですよね(笑)。
佐藤:全然、ロックじゃない(笑)。
岩本:では栗栖さんは?
栗栖:僕はSIer出身。当時、SIerの自律モデルって、マネジメントやって、エンジニアを増やして、売り上げを上げていこうという感じだったんですが、肌にあわなかった。私は社会人になってプログラミングを覚えたのですが、モノを作るのが楽しくて、自分でコーディングできる環境を探していたら、はてなにたまたま行き着いたんです。面接受けて来ようかなと話したら、うちの奥さんが背中を押してくれました。
岩本:いつ頃の話ですか?
栗栖:2008年くらいですかね。はてなが東京から京都にオフィスを戻したときに、ちょうど募集してました。そうしたらJ・近藤(前社長・近藤淳也氏)が出てきて、「いきなり社長面接!これがベンチャー」みたいな感じでした。
田中:それにしても背中押してくれた奥さん、すごいですね。
栗栖:あとから聞いたら、面接受かると思ってなかったらしいです(笑)。うじうじ言ってるから、記念受験で受けてくれば納得するだろうという感じ。とはいえ、受かってしまったので、あとは文句を言わずついて来てくれました。それからもろもろあって社長です。
岩本:その「もろもろ」が、けっこうトントン拍子だったという話ですが。
栗栖:それほどトントン拍子ではないのですが、2年前に上場する際に社長になりました。
上場企業の社長って、兼務ができないとか、現場に立てないとか、監督者であるべきみたいな感じで、けっこう制限があるんですよ。でも、創業者の近藤は、プレイヤーとして動きたいという願望があったので、彼に会長になってもらい、エンジニア出身で開発チームをまとめていた私に白羽の矢が立ったみたいです。だいぶ悩んで、1回断りかけましたけど。
岩本:断りかけたんですね。
栗栖:やれって言われて、社長やりたいですか(笑)。やっぱり看板が重いんですよ。
悩んでるんだったら、飛んでしまえみたいな感じ
岩本:なるほど。続いて佐藤さんですが、paperboy & co.(現GMOペパボ)を家入さんといっしょに立ち上げた創業メンバーですよね。
佐藤:もともとは2000年くらいかな。大学に福岡に行ったんですが、大学生になるとホームページくらい持ちたくなるじゃないですか。えっ、そうじゃない?
栗栖:またホームページというのが懐かしいね(笑)。
岩本:サイトとか、ブログじゃないんだ(笑)。
佐藤:福岡の大学だったんですが、福岡のホームページのリンク集があったので、そこに登録したんです。そのリンクの2つくらい下に、ペパボを立ち上げた家入さんのホームページのリンクがあって、そこの掲示板に「カッコイイですね」とコメントしたのが出会ったきっかけ。
全員:おおー!
佐藤:そこからリアルで会うようになって、家入さんと仲良くなった。その後、2001年に家入さんが「ロリポップ」という名前でレンタルサーバーを立ち上げたんですが、僕は名前が怪しいから使わないでおこうと(笑)。
田中:最初からロリポップだったんですねー。
佐藤:そうしたら、けっこう人気が出てきてしまって、2003年に会社を作るという話になり、そのときから手伝っていたんですけど、気づいたらちゃんと働いていた。
岩本:僕は紙メディアのペーペーだったのですが、佐藤さんとは顔をあわせずにやりとりしていたんです。ずっと広報だと思っていたら、エンジニアリング以外、ほぼ佐藤氏が回していたような状態だったようですね。
佐藤:最終的には管理部門は全部見てました。
岩本:その後、創業者の家入氏が辞め、佐藤氏が2代目社長となったわけですが、どういった決断とかがあったんでしょうか?
佐藤:2008年に上場することになったのですが、先ほど栗栖さんが言っていたとおり、上場するとできないことが多くなるので、家入さんの熱量がどんどん下がっていったんです。なんだか、飲食店とかやり始めて、あきらかに仕事したくないオーラが出ていた(笑)。だから、上場1年前くらいから僕がほぼほぼ社長業やっていて、その1年は家入さんに「もうちょっと待とうね~」となだめていて、上場した段階で「どうぞ好きにしてください」となったんです(笑)。だから決意というより、「もういいよ~」という感じでした。
田中:家入さん、その後、都知事選とか出てましたからね(笑)。
岩本:では、上場する前に佐藤さんが社長というのは、わりと以前から既定路線だったんですね。
佐藤:少なくとも家入さんから言われる前にある程度覚悟はしていたという感じですね。
岩本:栗栖さんの場合は、社長になることを決めるなにか決定打みたいなものはあったんですか?
栗栖:ここにいる地元の人はみんなそうだと思うけど、薩摩の人は来たボールは必ず振りに行くでしょ(笑)。社長になる機会になんて、そうそうないじゃないですか。チャンスをもらえるんだったら、やらないと九州男児、薩摩隼人の名が廃るでしょ。冗談みたいに言ってますが、そういう気質あると思いますよ。
佐藤:鹿児島の言葉で「泣こかい 飛ぼかい 泣こよか ひっ飛べ」というのがありますがこれって、飛べないから泣くんじゃくて、悩んでるんだったら、飛んでしまえみたいな感じ。そういう気質が鹿児島にはあります。