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「子どもの夢を応援したい!」自宅から生まれた取り組みが全国展開の大規模イベントに成長

文●杉山幸恵

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 子どもが夢を語るスピーチコンテストや職業体験などを通じて、子どもと大人が一緒になって未来を考える「こども万博」。2022年に神戸で初開催された同イベントは翌年から全国展開をし、2024年までに約5万人を動員。そして、2025年10月には「EXPO2025大阪・関西万博」にて「こども万博」が開催されるまでに成長した。このイベントを創設した手塚麻里さんは、思春期にホームレス生活を送ったという壮絶な過去の持ち主。「一度はすべてを失った」という彼女だが、手を差し伸べてくれる人はたくさんいた。そして彼女自身も懸命に努力した。それらすべての経験を原動力とし、今度は自身が受けた恩を返すべく、今は子どもたちの夢を全力で応援し続けている。

「こども万博」の創設者であり、現在は実行委員会委員長を務める手塚麻里さん。3児の母でもある

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中学3年生で夜逃げ&ホームレス生活を経験。支援と自らの努力で看護師の道へと進む

 1985年に長崎県で生まれ、横浜で育った手塚麻里さんの人生が激変したのは、中学3年生の時だった。それまではごく一般的な家庭で育てられていた彼女だったが、父親が事業で失敗したのだ。

 「ある日突然、学校のテスト中に呼び出され、すぐに親戚の家へ行くようにと。そこで母から『今夜一度だけ家に戻るから、どうしても手放せない物を箱に詰めてほしい。その後、家には二度と帰れない』と言われ…夜逃げをしました」

 家を失った手塚さんと母親、兄は親戚の家に身を寄せることに。当時、私立の中高一貫校に通っていた彼女は、そんな状況で学費を払い続けることはできないと判断。自ら理事長のもとを訪ね、退学の意思を伝えると、思いもよらない言葉が返ってきた。

 「『高校まで無償で通っていい』と。ただし『卒業後にお金を返そうと思わず、将来自分で稼げるようになったら、その時の子どもたち、次の世代のためにできることを精一杯やってください』という条件付きでした」

 しかしながらその時、真っ先に彼女が思ったのは「これで部活が続けられる!」ということだったとか。無事に卒業できることのありがたさや、その後の人生への影響まで理解するには、まだ考えが幼かったのかもしれない。

 「今振り返ると、あの時学校に通えなくなっていたら、私の人生は全く違うものになっていたでしょうし、もしかしたら生きていなかったかもしれません。学生時代の私にとって、人生の8割9割が学校だったので、その場所に居続けられることは本当に大切なことでした」

 無事、学校には通い続けることができたものの、親戚の家では肩身の狭い思いをしていた手塚さん。昼夜働く母親、奨学金を取るべく勉学に励む兄。2人が「どう生活を立て直していくか」と話し合っていても、自分は相談相手にもならないことが心苦しくもあった。そうしていつしか、友人の家に居候させてもらったり、公園やビルで寝泊まりしたりするようになる。

 「寝る場所や食べるものに困る、そんな生活が2年ほど続きました。昼休みには給水器の水でお腹を満たすなんてことも…。事情を知る数人の友人が、『パンを食べきれないから半分食べて』など、優しい嘘をついて食べ物を分けてくれました。

 その温かさに何度も救われ、今でも大切な友人としてつながっています。辛い経験でしたが、人の優しさと自分の生き方を見つめ直すきっかけをくれた、貴重な時間でもありました」

 こうしてホームレス生活を送りながら、手塚さんは母とすれ違うことが多くなった。それでも顔を合わせる度に母から繰り返しこぼれるのは、「苦労させてごめんね」「本当に申し訳ない」といった謝罪の言葉だったという。

 「母は明るい人でしたが、この出来事をきっかけに『ごめんね』としか言わなくなってしまい。私が走って帰ってきて『疲れた』と言うだけでも、『ごめんね』と返される状況で。次第に『自分の存在が母にとって負担をかけているだけで、マイナスだ』と感じるようになってしまったんです」

 一時は思い悩んだ手塚さんだったが、やがて物事を前向きに考えるようになる。母にとって〝謝まられる対象〟にならないよう、「自分がマイナスになることをやめよう。せめてプラスマイナスゼロになろう」と。

 「この瞬間からどんな状況でも笑って過ごし、楽しむことを心に誓ったのです。そう決意したコンビニの前の景色を、今でも鮮明に覚えています。

 あれから今にいたるまで、大変なことはたくさんありましたが、基本的にすべてを楽しんでいます。辛かったことも『そんなことあったね』という笑い話にするんです。あの時の決断が、今の私のポジティブな生き方の原点になっています」

 夜逃げをしてから2年が経ったころ、ようやく家族3人で暮らす部屋も借りられるように。そして進学を考える大切な時期がやってきた。手塚さんが通っていたのは一流大学への進むのが当たり前という進学校。本人は就職という道も視野に入れていたが、母親の「大学に行かせられなくてごめんね」という言葉をなくすために、ある作戦を思いつく。

 「当時、医師や獣医師の仕事に興味があったので、合格が難しいレベルの医療系大学をあえて受験。結果は予想通り不合格(笑)。母には『これはお母さんのせいではなく私の学力不足が原因。1年間勉強とアルバイトをするので浪人させてほしい』とお願いしました」

 手塚さんはアルバイトでお金を貯め、3年制の看護専門学校に進学。浪人1年+看護学校3年で、大学を出た同級生と同じタイミングで社会に出られる道を選んだ。「当時の私にはこれが画期的なプランでした」と語るように、母親を安心させつつ、自分の目標を達成できる道筋をつかんだのだ。

ナースキャップを受けとる戴帽式の様子

 2008年に専門学校を卒業した彼女は、慶應義塾大学病院に入社。救命部に配属される。手術や救命の現場にやりがいを感じていたが、次第に部署が明確にわかれている大学病院では患者と長く関わることが難しい現実に葛藤。来院から回復まで継続して寄り添える美容クリニックを紹介され、経験を活かせる場として転職を決断した。

「手術に強い看護師を求めているという話もあり、自分の経験を活かせると思い、転職を決意しました」と、手塚さん(左)。写真は美容クリニックでの何げないひとコマ

 大手美容クリニックに転職した手塚さんは2011年に結婚し、出産も経験する。

 「美容クリニックは年中無休、かつ管理職になっていたのでなかなか自分の都合を優先することができず…。やがて子育てとの両立が難しくなり、土日に休める職場に転職することに。多国籍な環境で働きたいという思いからインターナショナルスクールを選びました。

 スクールナースとして生徒の健康管理や保護者対応に加え、外国人スタッフや日本人スタッフの保育サポートも担当。翌年からはクラスの担任も任され、学習・成長面の計画とクラス運営にも携わりました」

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