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動きが鈍い日本の医療界を尻目に挑戦

「もっと医療×ITへのフィードバックが必要」日本人医師起業家・武藤真祐氏にシンガポールでの事業を聞いた

2019年12月06日 07時00分更新

文● プレーンテキスト 宮原智子 聞き手・編集●北島幹雄/ASCII STARTUP 撮影●曽根田 元

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日本政府の諮問委員会に参画している識者であっても、日本の医療にITを活用しようという動きへのスピードに歯がゆさを感じている現状がある。世界のフィールドで、医療におけるITの可能性を模索している日本人医師起業家に話を聞いた。

 在宅医療専門のクリニックを開業しながら、疾患管理システムを開発するスタートアップを設立した医師がいる。日本政府の諮問委員会にも参画している武藤真祐氏だ。氏は医療現場でのIT活用をさらに進めるために、国内にオンライン診療システムのスタートアップ「インテグリティ・ヘルスケア」を、またシンガポールにも在宅医療支援システムを開発する企業を設立している。今回は、氏がシンガポールで進める事業の内容とその狙いについて話をうかがった。

世界に通用する医療サービスを求めて

 武藤氏は、1996年に東京大学医学部を卒業し、循環器内科医として東京大学医学部附属病院や三井記念病院に勤務した。勤務医として働いていた頃は、心筋梗塞などの疾患を治療する「心臓カテーテル治療」に取り組んでいた。

 日本の医療現場で働き、問題が山積していると考えた武藤氏は、「世界に通用する医療サービスをつくりたい」という思いを抱き、一旦、医療の現場を離れる。2006年にマッキンゼー・アンド・カンパニーに入社。「問題解決能力を身に付けるため」に、コンサルタントとして経験を積んだ。

 2009年10月には医師としての経験とコンサルタントとしての経験を活かして、疾患管理システムを開発・提供するスタートアップである「株式会社インテグリティ・ヘルスケア」を設立した。さらに、2010年には在宅医療専門の「医療法人社団鉄祐会 祐ホームクリニック」を開業。厚生労働省や総務省など政府が設置するタスクフォースや諮問委員会に参加するなど、幅広く活動している。

 そして氏は、2013年に経営について学ぶためにフランスINSEADシンガポールキャンパスのExecutive MBAコースに入学する。そこで知り合ったNg Li Lian氏と共同で2015年、シンガポールに設立した企業が「Testuyu Healthcare Holdings Pte, Ltd.」だ。

医療現場でのIT活用を進めるために、シンガポールにも進出した武藤真祐氏

患者の状態を表すデータをクラウドで管理するシステム

 Tetsuyu Healthcare Holdings Pte Ltd.は、傘下に「Tetsuyu Homecare」という企業を持っており、その企業が在宅医療支援システムを開発、提供している。そのシステムが「CARES@HOME」だ。

 CARES@HOMEは、現在、シンガポールやマレーシア、インドネシアなどの病院、老人ホームに実際に導入されている総合的な在宅医療支援ソリューションだ。

 医師や看護師、理学療法士、そして患者の家族が、診察結果や患者への処置の内容をクラウドに記録し、関係者間で共有可能とする機能や、患者をリアルタイムで捉えた動画や画像をクラウドにアップロードし、関係者がその動画や画像を見て、症状や状態についてビデオ上やコメントの形で意見交換を可能とする機能も備える。そのほか患者宅に訪問する看護師のシフト管理や勤怠管理、訪問先までの最適な道順を提示する機能や会計機能を備えている。


 CARES@HOMEの機能を紹介する動画(出典:Tetsuyu Homecare)

 Tetsuyu Homecareは加えて、看護師が定期的に患者宅を訪問するサービスも提供している。このサービスもCARES@HOMEと連携した形となっている。

 武藤氏は当初シンガポールで、医師が定期的に患者宅を訪問する在宅医療サービスの提供を考えていた。日本ではよくある形式の医療サービスで、保健医療の範囲で利用できるものだ。

 しかし、シンガポールで在宅医療を受けると自由診療、つまり全額が患者の自己負担となってしまう。富裕層が多いシンガポールでも、在宅医療にかかる費用すべてを自費で負担できる人口はごくわずか。市場として成り立たなかった。

また、在宅医療に携わろうという医師を集めることも非常に困難だったという。そこで、CARES@HOMEの開発提供と、訪問看護サービスに事業を転換した。ちなみにシンガポールでの在宅医療で医師を1回派遣すると3万円ほどかかるが、看護師なら1回の派遣ごとの費用は8千円~1万円で収まるという。自費診療でも無理なく続けられる。

 とはいえ、訪問介護サービスにも課題は多い。在宅医療に従事したいという看護師を集めることや、確保した看護師を指導できるような、経験豊富な看護師を確保することが難しいと武藤氏は明かした。

 また、シンガポールで事実上の一党独裁体制を築いていた人民行動党が、近年は支持を失い始めている。そして総選挙などでは高齢者福祉が争点となっている。結果、医療や福祉サービスが充実し、病院や老人ホームなどで質の高い医療サービスを受けられるようになってきた。「国の制度では利用できないサービスを、自費で提供することの難しさは今なお感じる。少しずつ広がってはいるが、まだまだスモールビジネスだ」と武藤氏は実感しているという。

「CARES」シリーズを拡大する付加サービスも提供

 シンガポールでは、中流家庭以上では住み込みのメイドを雇っていることが多い。武藤氏はそこに目を付け、上述した「CARES」の付加サービスをつくり出し、提供している。「お茶を飲ませた」「体位を変えた」など、介護のプロではないメイドの行動を医療関係者がすぐに確認できるようにする介護者向けの遠隔管理システムはその1つだ。

 もう1つ、体表の傷を管理するシステム「CARES4WOUNDS」も提供している。このシステムはすでにシンガポールで、一般医療機器の認定を受けている。

 CARES4WOUNDSはおもに、長期間同じ姿勢で寝たきりでいると発生する褥瘡(じょくそう:床ずれ)の管理で使うことが多いそうだ。褥瘡発症当初は皮膚が赤くなる程度だが、徐々に皮膚がただれていく。放置しておくと潰瘍のようにえぐれ、骨や筋肉が見えるほどの大きな穴が空いてしまうこともある。

 CARES4WOUNDSでは、タブレットに3Dスキャナーを取り付け、褥瘡の画像を光学カメラで撮影し、3次元スキャナで傷を捉えることで、大きさや深さなど傷の状態を評価する。現在は、光学カメラと3次元スキャナのデータを機械学習やディープラーニングの技術で分析し、適切な処置方法を自動的に提示する機能を、シンガポール政府と共同で開発している。「今後は褥瘡管理に絞って、日本でもシンガポールでもニッチ戦略をとっていきます」と武藤氏は話す。


 CARES4WOUNDSを紹介するTVニュース。タブレットと3Dスキャナーを使って傷の画像を撮影している様子が分かる(出典:Tetsuyu Homecare)

シンガポールだからこそ挑戦できること

 日本では、CARES@HOMEようなITを活用した医療サービスが普及するには時間がかかる。一部の医療機関が試験的に導入して評価し、安全性や有効性が認められないと保健医療で利用できるものにはならない。また、個人開業医などにとっては、システムを利用するために必要な機器を導入する費用が重い負担となる。

 シンガポールでCARES@HOMEが受け入れられた背景には、Eガバメント(電子政府)の世界ランキングトップに君臨するほどのITリテラシーの高さがあるという。加えて、先述の通り在宅医療はすべて自費診療となるため、CARES@HOMEのようなサービスを試しやすい。しかし、高齢者人口70~80万人ほどのシンガポールでビジネスを成り立たせることは難しい。武藤氏は市場を拡大するため、東南アジア各国や中国への進出をはかっている。

 この事業展開も、シンガポールを起点にしているからこそ有利な面がある。シンガポールは国民の8割弱が中華系であり、中国人の考え方に理解がある。また中国への事業進出でも仲間を見付けやすい。一方で、英語が公用語になっており、西洋の考え方や文化への理解もある。中華文化と西洋文化が融合するシンガポールを開発とPoC(Proof of Concept:概念実証)の場と位置付けることで、アジア各地などにサービスを広げやすくなるのだ。

政府主導で医療とテクノロジーの融合が進められるシンガポール

 シンガポールでは、電子カルテなどの医療情報を、国が指定したクラウドサーバーにアップロードするように定められている。政府主導で医療とテクノロジーの融合を急ピッチで進めている。

 日本では電子カルテシステムの普及が始まっているが、カルテのデータを蓄積するサーバーはいまだにオンプレミス型サーバーであることがほとんど。「日本では、クラウドサーバーについて医師もまだ理解が足りない。またベンダーも準備ができてない。サーバーをどんどんつないでオープンにするというところまで至っていないですね」(武藤氏)

 日本政府の諮問委員会に参画している武藤氏は、日本の医療にITを活用しようという動きに歯がゆさを感じている。「私が関わった一部の政策は実現すると思いますが、もっと多様な声を反映し、政府や利用した医療機関からのフィードバックがあればと感じています」。今後もシンガポールの拠点から海外マーケットを拡大したいと話す武藤氏。日本だけでなく、世界のフィールドでも、医療におけるITの可能性を模索していく。

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