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古田雄介の“顔の見えるインターネット” 第82回

ふぁぼられ方が半端じゃない! 謎の「ダ・ヴィンチ・恐山」

2010年10月26日 12時00分更新

文● 古田雄介

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小学生の頃からガロ系マンガや異形小説に親しんだ過去

―― 自己批判ネタもそうですが、小学生時代の卒業文集を批評するネタを見ると、子供の頃から客観的といいますか、他者を意識した書き方をしている気がします。どんな子供だったんですか?

恐山 おっしゃるとおり、今までの人生で無我夢中になったことはなく、常にちょっと離れたところから見ている自分がいるという感覚がありますね。オレンジジュースが飲みたいとき、「オレンジジュースを飲みたがっている自分」を観察する自分がいるような感じです。

 小学校の卒業文集を開いたときに気づきましたが、確かに当時の自分も「大人になった自分が見て笑えるように」という意識で書いているんですよね。とにかく冷めた子供でした。

卒業文集(公式ブログ)。子供時代の文章を「批評」するスタイルだが、もとの文章からして異質な香りが

―― そのうえで、当時からものを見る視点がユニークですよね。僭越ながら、ツイートやブログを見ながら、「この人は絶対に、クラスの中心にいる人気者タイプではなく、教室の隅で一人遊びしながら自身の独自性を勝手に磨いているタイプ」だと思っていました。

恐山 まさしくその通りです(笑)。たとえば中高の体育祭でも、競技に熱中することはなく一番長くいたのは購買コーナーだったりしましたから。

 振り返ると、おそらく父の影響が強かったんだと思います。小学生の頃からガロ系マンガや「ドグラ・マグラ」のような異端な小説を強制的に読まされたんですよ。まだ子供のでき方も知らない頃に、つげ義春の「ねじ式」を読まされて、ラストで主人公が女医と布団に潜り込むくだりの意味を父に聞いた記憶があります。父は答えませんでしたが。

―― 素晴らしい経験ですね(笑)。

恐山 どうなんでしょう。まあでも、何か表現したり意見するにしても、自分なりの視点でものを見られたらいいなとは、子供の頃からぼんやり考えていましたね。世間から言われていることを鵜呑みにした倫理観ではなく、それがなぜ悪くて、誰が困るのか、と考えて取捨選択するような。そういう思考回路が、もしかしたら、批判を回避しながらちょっとひねくれたネタを書く源になっているのかもしれません。

つげ義春、夢野久作、渋澤龍彦、寺山修司、生田耕作といった作家・作品にふれたのは小学生の頃だったという

―― なるほど。では、ツイッターやブログ上の人格は装っていないといいますか、実社会の恐山さんとほぼ同じというわけですね。

恐山 基本は同じですが、普段はあんなことをそのまま口に出したりはしません(笑)。やっぱり、文字や絵だけで表現するのと、相手のリアクションを見て話すのは違いますから。たとえば、普段の会話に作り込んだ冗談を盛り込むと、相手に「へぇー、そんなこと考えているんだ」と感心されてしまったりして、「じゃなくて笑って……」と悲しくなります。それがツイッターなら、発言がボールになって自分を離れていくので、ひとつのネタとして作品として見てもらえる。それが嬉しいんですよね。

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