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山谷剛史の「中国IT小話」 第64回

中国が主張する「言論の自由」とは

2010年02月09日 12時00分更新

文● 山谷剛史

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中央政府の話題に触れなければ比較的自由

 「中国の報道には自由がない」とは言われるが、中央政府の批判を避ければ、不自由ではない。たとえば首都北京の北京市政府の批判はできるし、している中国人はゴマンといる。

 今まで筆者が訪れた中国の多くの地域で、自身の住む都市単位でのインフラ整備など身近な政策や地元政府に不満を抱き、それを平気で口にしているのを聞いた。

 ところが中国共産党を含む中央政府の不満を口にする人は滅多に聞かない。不満がないのではなく、口にしてはいけない、口に出すと何か恐ろしいというのがその理由だ。それは筆者が中国で地元民に対して話を聞くにそう感じる。

 したがって、中国の新聞やネットメディアは中央政府こそ批判しないが、省や市レベルの政府の腐敗やインフラ整備の問題点などはしばしば指摘している(日本の報道と比べるとその頻度はずっと低いが)。

 中国で(検閲された上で)出版された(中国流)インターネットと言論の自由についての書籍が何冊も出版されているが、そこにもヒントがある。

中国網情報告

「中国網情報告」

 たとえば昨年中国で出版された「中国網情報告」(新星出版社)という書籍では「政府や政府の偉人に中国国民が悪く言うことはあり得ない」という前提の上で、「各サイトの自治をインターネット利用者に委任し、表現の自由を保障する」と記している。さらに「全てを規制すると、不満は鬱積するのでよくない」「インターネットという新たなメディアにおいて、インターネット利用者の権利、すなわち言論の権利は与えるべき」「ただし国家(中国政府)を攻撃しようとする言論の隙を与えてはならない」「ネット上による価値観の多様化は無害」と、最高権力への非難以外の言論については表現は規制すべきではないと書いている。

 そして制限付きの表現の自由から、面白いコンテンツや、新技術が生まれるとしている。中国由来の「白髪三千丈」がときに本来の意味から逸脱し、「中国人は表現が大げさ」ととらえられることもあるが、上記についてはまんざら誇大な表現でないと感じる。

 こうした事情を知らない人(日本人含む)の中には、たとえば筆者に対して、政府から圧力がかかっているのだろう、と心配する人もいるが、正直筆者は過去に威圧を受けたことがない。

 IT系の記事は、技術トレンドや新製品や新サービスを紹介する記事が多く、すなわち政府政治からは話題は縁遠いためだ。中国に言論の自由があるか否かについては、中央政府の話題を包括しているか否かなわけである。

 こうしたことを知らない日本人を含む外国人は、頭ごなしに「中国では(全てにおいて)表現の自由がない」と認識(人によっては訴え)し、一方で中国政府は「政府批判を包括した表現の自由を求めようとする外国メディアの取材陣」を歓迎せず「表現の自由を保障している」と国営メディアを通して発表し、内輪で対処を完了させようとするため、いつまでたっても歯車がかみ合わず、両者が理解できない結果になっている。


山谷剛史(やまやたけし)

著者近影

著者近影

フリーランスライター。中国などアジア地域を中心とした海外IT事情に強い。統計に頼らず現地人の目線で取材する手法で,一般ユーザーにもわかりやすいルポが好評。当サイト内で、ブログ「中国リアルIT事情」も絶賛更新中。最新著作は「新しい中国人~ネットで団結する若者たち」(ソフトバンク新書)

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