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塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤” 第2回

塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤”

「show and tell」の文化

2008年06月01日 15時00分更新

文● 塩澤一洋 イラスト●たかぎ*のぶこ

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ブログを書くことで磨かれる バランスのとれたリテラシー


 考えてみれば、人間は生まれながらにして表現する動物だ。赤ちゃんは空腹や眠さを伝えるために泣くことから始め、成長とともに次第に笑ったり怒ったり、身振り、手振り、絵画、言語などへと、表現のバラエティーを増やしていく。人は元来、表現することによって自己の存立を確保するのだ。

 社会にはさまざまな人がいる。殊に米国は世界中から人が集まっている社会だ。多様な人々が多様な価値観を背景に、ともに生活している。そこでは自分が何を考え、何を欲し、何をしたいのかを、相手に的確に伝えることが日常的に求められる。したがって自己表現の能力は生きるための基礎的素養なのである。そのため、人が元来持っている自己表現欲求に基づいて表現能力を最大限伸ばすとともに、他者の表現に耳を傾けそれを尊重する態度を養うことが、教育の大きな目的なのである。表現のルールを学び、他者によってなされた表現を理解して、それを扱うためのルールを学ぶのだ。

 かように、表現と理解は表裏一体である。自分が表現をするからこそ、他者の表現をよりよく理解できる。したがって教育においても、よき表現者を育てることこそよき理解者を育てることになる。表現力と理解力はワンセットなのだ。このセットのことを「リテラシー」と呼ぶ。読み、聴き、理解する能力と、書き、話し、表現する能力のセットがリテラシーだ。教育の重要な目的のひとつは、リテラシーを向上させることなのである。

 しかし従来、特にパブリックな意味でリテラシーというとき、表現よりも理解のほうに重点が置かれがちだった。本を読んで理解する能力、新聞や放送といったメディアから流れる情報を正しく理解する能力だ。それは、本の出版やテレビ放送によって言論を公にすることができるのが、ごく一部の人に限られているからだ。一般の人々が出版や放送をする機会などほとんどない。その結果、リテラシーの重心は、自然と情報の受信・読解能力に偏ることになる。


(次ページに続く)

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