塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤” 第12回
塩澤一洋の“Creating Reed, Creative Mass.──大公開時代の羅針盤”
愛はあふれるもの
2008年08月10日 15時00分更新
一方、「学問」は、そうして築かれてきた「学」、学び取ってきた「学」に対して、虚心坦懐に疑問を呈することだ。「○○は常識とされているが、本当にそうだろうか」と問い直してみて、自ら学の体系をゼロから形成していく。それによって新たな問題や解決の糸口を見つけたり、真実を発見したりする。学問とは、知的創造をアウトプットしてゆくプロセスなのである。
だから、たとえば授業の受け方も異なる。高校までは先生がおっしゃることを、「なるほど」と聞いて理解すればいい。しかし大学では、講義を聞いて理解したうえで、常に「本当にそれでいいのか?」と自問することが大切だ。
教師が講義していることや本に書いてあること、ウェブの記述について疑問を抱く。世の中の情報は何でも自分の思考の素材なのだ。さらにその思考を友人たちと共有し、議論し、教師に投げかけ、また議論し、自らアイデアを出しあって、ともに新たな知的価値を築いていこうとする場、それが大学である。
学習によって既知の情報を大量にインプットし、それを体系立てていくインプット型の教育がなされるのが高校。他方、既知の知識体系をもとにして新たな問題を掘り起こし、議論し、アイデアを練ってそれをさまざまなかたちでアウトプットしていく学問の場が大学。だから、受験のために究極のインプットを続けてきた受験生が、大学に入ってまったく逆のアウトプットを求められたら、そのギャップに直面して途方に暮れるのも自然なことだ。
私のような大学の教師の仕事は、このようなアウトプット型の知的生活を楽しめるよう、新入生たちをリードすることである。もちろん大学においても専門領域に関わる「学習」は不可欠だ。でも、目的はあくまでもその先にあるアウトプット。学生たちひとりひとりが、「常識」を疑い、自分の頭で考え、新たなアイデアを出し、さまざまな表現をすることによって学問に貢献することだ。
大学の教師はそれを明らかにし、その面白さをあの手この手で披露して、学習に慣れた学生たちを学問の世界へと誘(いざな)う。知識や情報を提供することは、大学の教師の仕事の中心ではない。
(次ページに続く)
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