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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み 第5回

隙間時間の変化がデジタルカルチャーを変えていく

電車でスマホは古い? 通勤時間が変えるヒマつぶしの可能性とは

2015年12月15日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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スマホは通勤時間に支えられた存在

 そう考えてみると、実に驚くほど多くのコンテンツ産業がこの画一的なワークスタイルにおける“隙間時間”を埋めるためのサービスとして存在している。ニュースサイトの閲覧しかり、SNSへの投稿しかり、動画の視聴しかり、ソーシャルゲームしかり。社会学者の北田暁大氏による『広告の誕生 近代メディア文化の歴史社会学』という本の冒頭にこんな記述がある。

 “朝ささやかな住処を出てから、通勤あるいは通学といった開かれた日常へと踏み出していく。待ち合わせる友人のあてでもあるのならともかく、われわれの多くはその会社、学校への経路において、いったん住処を離れると同時に徹底した孤独のなかへと投げ出される。(中略)住居のような「私的」空間においてではなく、逆説的にも、非私的であるはずの都市空間に踏み出すことにおいて現前する、純化された「私性」――文庫本を読み耽り、安物の、家ではとうていやる気にもならないゲームに興じてみせるといったことも、そうした不気味に差し迫ってくる〈いま、ここ、わたし〉の空虚さを埋めあわせ、ともかくも「わたしだけしかいない」ことを否認するための苦肉の策であるような気がしてならない。(中略)
 広告という存在が、われわれの生活世界のなかへと静かに滑り込んでくるのは、まさしくこうした空虚で所在なげな日常の一場面においてであろう。いわば広告は、「通勤する」「読書する」といった目的意識が弛緩するふとした瞬間に〈わたし〉の一瞥を捉えるべく、虎視眈々と息をひそめて日常生活の襞に待機しているのだ。”

Image from Amazon.co.jp
社会学者・北田暁大氏の「広告の誕生―近代メディア文化の歴史社会学 (岩波現代文庫)」。近代以降の社会空間における「まどろみ」の中で「見るとはなしに見てしまう」という広告の本質を鋭く指摘した良書。やはり同氏の広告に関する論考「増補 広告都市・東京 その誕生と死(ちくま学芸文庫)」もおすすめ

 同書は筆者が大学で広告とメディアについての話をするとき、かならずと言っていいほど引き合いに出させてもらうテキストなのだが、特にこの部分は広告の本質と私たちのメディアへの接し方を鮮やかに描き出した文章ではないだろうか?

 私たちは通勤/通学に代表される「空虚で所在なげな日常の一場面」=“隙間時間”をやり過ごすために、各々何らかの「苦肉の策」を弄しているが、その意識が「弛緩するふとした瞬間」、「虎視眈々と息をひそめて」いた狡猾な広告に見事に視線を絡め取られる。前述した“曖昧な意識”の中で、特に知りたいと思っていなかった情報をうっかり知ってしまうのだ。

 ここでいう“苦肉の策”の過去の定番は新聞や雑誌、人によってはラジオであり、現在は言うまでもなくスマホである。

 だから自然の成り行きとして、広告が身を隠す主なメディアは新聞や雑誌、ラジオからスマホ上の各サービスへと移行した。近代以降の交通網の発達は労働力の集約と大都市の成立をもたらし、やがて職種は違えど働き方はだいたい同じという現代的なワークスタイルを確立させるにいたった。このワークスタイルの中に皆に一様な“何をするでもない空疎な時間”が点在し、その空隙を埋める産業が今日ではデジタルカルチャーの一大主戦場だったりするのである。

(次ページでは、「隙間時間こそデジタルカルチャーの主戦場」)

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