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高橋幸治のデジタルカルチャー斜め読み第5回

隙間時間の変化がデジタルカルチャーを変えていく

電車でスマホは古い? 通勤時間が変えるヒマつぶしの可能性とは

2015年12月15日 09時00分更新

文● 高橋幸治、編集●ASCII.jp

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photo by Elvert Barnes

何かをしていなければ埋めることができない不毛な時間

 前回、「メディアは最盛期を過ぎるとその本来的な魅力や特質が見えてくる」という文脈でオールドメディアの代表格「テレビ」について書いたところ、思いのほか多くの反響があり、あらためてテレビの偉大さに思いを致さずにはいられなかった。

 詳細はこちらをご覧いただきたいが、主旨としては、「観る」にもメディアごとに強度や深度が存在し、「映画を観る」と「動画を観る」と「テレビを観る」では、その密度がまったく異なるということである。

 私たちのライフスタイルの中で、テレビは「観るとも観ないともつかない曖昧な意識」で接しているメディアなのだ。

 このメディアに対する意識の強度や深度は当然のことながら「読む」にも当てはまり、「新聞を読む」と「小説を読む」と「雑誌を読む」では“読む”の濃度にかなりの相違がある。

 よく美容院で散髪の最中に雑誌を渡されるのは、雑誌がテキストメディアというよりもビジュアルメディアに近いからであり、「読むとも読まないともつかない曖昧な意識」で視線を浮遊させることができるからである。従って、雑誌のページをぱらぱらめくりながらでも美容師との会話が成立する。

 今回問題にしたいのは私たちの生活の中におけるこの「曖昧な意識」とメディアとの関係、ひいてはそこに付随するコンテンツ産業との重要な関係である。

 私たちの生活の中には膨大な「何をするでもない空疎な時間」が存在する。上記の例で言えば、帰宅後、食事も済ませ、入浴も済ませ、かと言って寝るにはまだ早いという“何をするでもない空疎な時間”に、私たちは“曖昧な意識”とともにテレビを点ける。または美容院で椅子に座って一切動くことができず、誰かに髪を切ってもらっている“何をするでもない空疎な時間”に、私たちは“曖昧な意識”とともに雑誌のページを開く。

 この「何かをしていなければとうてい埋めることができない不毛な時間」のことを「隙間時間」などと言うことがあるが、ライフスタイルを異にする多くの人々が総じて当てはまりやすい“隙間時間”は通勤のための移動時間だろう。出発地から目的地まで、窮屈で孤独な満員電車の中で過ごす“何をするでもない空疎な時間”、私たちは“曖昧な意識”とともにポケットからスマホを取り出し何らかのアプリを起動する……。

不動産情報サービスのアットホーム株式会社が東京都、埼玉県、千葉県、神奈川県のサラリーマン583人を対象に行なった「通勤時間」に関する調査。平均通勤時間は片道58分。85%が電車で通勤しており、通勤時間を有意義だと感じている人は全体の30%にも満たない。大雑把だが1日約2時間の往復通勤を週に5日、1ヵ月に4週、仮に40年間続けるとすると、生涯の通勤時間は1万9200時間。これは800日分にあたり、実に2年以上の時間を通勤に費やしていることになる。※詳細はクリックすると参照できます

(次ページでは、「隙間時間こそデジタルカルチャーの主戦場」)

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