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今、明かされる「ニコ動」「ニコ生」誕生の舞台裏

3日でニコ動を作ったネ申「戀塚氏」に取材してみた

2009年12月28日 12時00分更新

文● 全農連P、広田稔/ASCII.jp編集部

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初期のドワンゴは「好きなように遊んでいた」

── 学生時代からBio_100%までの間はどういう感じだったんですか?

戀塚氏:高校卒業後に最初に入った会社が、組み込み系の仕事をやっている日立の下請けでした。その同じ会社の人たちがBBSに趣味で参加していたんです。私もオフラインミーティングに呼ばれたりして、「いろいろとソフト作ったらアプローチしろよ」って言われてました。

 それがきっかけで自分でソフトを公開し始めて、そうこうしているうちにBio_100%のメンバーが集まっているところで遊ぶようになった。最終的には「alty」(Bio_100%の中心人物の一人、森栄樹氏、関連記事)から誘われてBio_100%に入ったんです。その入る直前の話は、新書にも書かれていますよ。


── Bio_100%は、その後、ドワンゴに合流しますが、戀塚さんもその流れでドワンゴに入社したんですか?

戀塚氏:私は勤めていたいた会社を辞めて、フリーになったんですよ。元々その会社はフリーランスの人を外注でいろいろ使っていたので、辞めても仕事をもらっていました。

 フリーになったことで、ほかの会社からも仕事を受けられるようになったので、プログラミングに加えて、雑誌への寄稿も始めました。この時期からaltyと組んで記事を書いたり、研究開発本部長の千野など、現在のドワンゴのメンバーと一緒に仕事をすることを始めたんです。

 その後1997年、ドワンゴ設立という話になった際、まずaltyなど一部が入社して、あとはaltyから声がかかって加わっていったという感じです。

初出時、千野氏の肩書きが誤っておりました。訂正してお詫び申し上げます(2009年12月28日)


── 初期のドワンゴは、どういった雰囲気でしたか?

戀塚氏:だいぶ節操がないというか、秩序がないっていうか(笑)。好きなように遊んでいるっていう雰囲気はありましたね。


── 現在、戀塚さんは週1回の出社で、あとは在宅勤務と聞きました。その頃から「週1」だったんですか?

戀塚氏:週1回とは限らず、時期によって出社日が変わったこともありました。基本的には、担当しているプロジェクトがきちんと回るようなタイミングで出社するという感じです。

 私の場合、開発作業は家のほうがはかどるんです。出社するのは基本的に会議のためで、「会議のある日が出社日」という感じでした。


── それをずっと貫かれて今に至る、と。

戀塚氏:そうですね……。入社の経緯もちょっと特殊だったんです。入社前は、ドワンゴの外注として「So-net」(現・ソネットエンタテインメント)のネット麻雀ゲーム「ジャンプラグド」の開発プロジェクトに参加していました。

 そのゲームができあがる頃、「もうフルタイムで仕事をしているんだし、ほかに何もやっていないなら社員になったほうがいいんじゃない?」と誘われて入社したんです。

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