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今、明かされる「ニコ動」「ニコ生」誕生の舞台裏

3日でニコ動を作ったネ申「戀塚氏」に取材してみた

2009年12月28日 12時00分更新

文● 全農連P、広田稔/ASCII.jp編集部

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ニコニコ動画が未来を作るドワンゴ物語

 ドワンゴといえば、ケータイ電話向けの着信メロディー「いろメロミックス」や動画共有サービス「ニコニコ動画」といったサービスを生み出してきた企業だ。

 この10月、そのドワンゴを題材にした新書「ニコニコ動画が未来を作るドワンゴ物語」が弊社から発売された(関連記事Amazon.co.jpで見る)。フリージャーナリストの佐々木俊尚氏が延べ30人を取材し、ドワンゴの全貌を明かしたものだ。この中でもキーマンの1人として登場するのが戀塚昭彦(こいづかあきひこ)氏。

 戀塚氏は「ニコ動を3日で作ったプログラマー」としてネットで知られており、現在もニコニコ関連の開発に携わっている。90年代にはゲームクリエイター集団「Bio_100%」のメンバーとして活躍。2001年に起きた「2ch閉鎖騒動」では、過負荷対策を行なって閉鎖を食い止めたUNIX板住民のひとりでもあった。

 そんな戀塚氏はどういった経緯でドワンゴに入り、どのようにニコ動を作り出したのだろうか? 米DWANGOの「父」であるロバート・E・ハントレー氏のインタビュー(関連記事)に続き、ニコ動の「父」である戀塚氏に話を聞いた。



高校時代からプログラミングで「野生のプロ」

── もともとコンピューターと出会ったきっかけは何だったんですか?

戀塚氏:小学校の5年頃に4ビットのワンボードマイコンを買ってもらったのがきっかけですね。

 4ビットマイコンというと、最近では学研「大人の科学マガジン Vol.24」に付属していたことが話題になった。ニコ動でもアニメ「けいおん!」のエンディングテーマを演奏した上の動画が人気を博している。


戀塚氏
戀塚氏

── 小学校からもう自宅でプログラムを作っていたという?

戀塚氏:いや、基本的には店頭にあるパソコンをさわりに行って、って言う感じでしたね。


── 店頭というと……?

戀塚氏:埼玉県の越谷市に住んでいたので、越谷駅の「ロケット」でパソコンをいじり倒していました。いきなり店頭でグラフィックエディターみたいなの作って、その上で絵を描いたりして遊ぶという(笑)。


── 「誰の仕業だ」って感じですね。

戀塚氏:BASICの時代はそんな感じかな。そのあとは米ザイログが開発した8ビットCPU「Z80」のアセンブラを覚えて、色々プログラムを書いていました。

 中学になると今度はポケコンを始めたんです。ポケコンではシャープのCPUが使う命令セットを解析した人が現れて、その解説記事が「THE BASIC」に載っていた。それに基づいてプログラムをハンドアセンブルしてポケコンで動かしてました。アセンブラであれば高速なので、ブザーを駆動させてPCM再生を頑張るとかができた。そういうのが楽しかったんです。


── それは遊びなんですか(笑)。中学生の段階でそこまでやり込むというのが驚きです。

戀塚氏:その段階でプログラマーになろうと決めていたんです。「プログラマー35歳定年説」というのがあったので、最短でなるために高校は「情報技術科のある新設校」を選びました。

 新設校に決めたのは、「コンピューターは新しくないと駄目だろう」という理由だからです(笑)。予想通り学科では、FORTRANやCOBOL、汎用機などを使える環境が揃っていました。「ガッガッガッ」って1秒に1枚くらいつながった紙が出てくる大型のページプリンターもあったので、FORTRANで3Dのオブジェクト作ってレンダリングして、プリントアウトしたりしていましたよ。


── それは仕事の新人研修でやらされるような内容じゃないですか(笑)。

戀塚氏:まあ、そんな感じで色々なことをやらせてもらいました。高校の授業では、「分かる人はマニュアルを見て教えていないことも自由にやってていい」という対応もあったので、いつも勝手にやっていましたね。


── その時点でニコ動でいう「野生のプロ」という感じですね。

戀塚氏:最初はそんな感じで一人でやっていったんですけど、学年が進んでいくと似たようなレベルの人が何人も出てきた。そんな仲間と集まって遊ぶ感じでした。

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