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呉軍港めぐり……大和ミュージアム編

戦艦大和、未だ沈まず

2008年08月23日 12時00分更新

文● 吉田/Webアキバ編集部

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「大和」の歴史

宿毛沖で全力航行中の「大和」

宿毛沖で全力航行中の「大和」 ※写真 米海軍歴史センター

「大和」誕生

 ここで戦艦「大和」の歴史について簡単に触れたいと思う。「大和」は昭和8年(1933年)、旧日本海軍によって計画が開始された。当時はまだロンドン海軍軍縮条約下であり、設計や資材の調達のみが行われていた。この約15年にも及ぶ海軍軍縮条約時代は、「海軍休日」(ネーバルホリディ)と呼ばれ、その間主力艦の建造が行われていなかった。昭和11年(1936年)の海軍条約脱退を受け、いよいよ昭和12年(1937年)11月に呉で起工式が行われた。

建造中の「大和」

建造中の「大和」 ※写真 米海軍歴史センター

 呉で戦艦を建造したのは海軍休日前の戦艦「長門」が最後であり、さらにその後の技術革新などを反映した「大和」の建造には、400万工数が必要と見込まれ、多くの人々の努力と英知が必要とされた。そのような状況下で、西島亮二中佐が苦心して編み出した工数を完全に把握することが可能な「西島方式」と呼ばれる工程管理方式によって、「大和」は予定を半年早い昭和16年(1941年)12月に公試運転を開始するに至った。しかし時、あたかも真珠湾奇襲攻撃、そしてマレー沖海戦と航空機が戦艦に対し優位を示したタイミングであり、「大和」は誕生したときからすでに時代遅れの存在となっていたとも言えよう。

宿毛沖で公試試験中の「大和」

宿毛沖で公試試験中の「大和」 ※写真 米海軍歴史センター

開戦後、活躍の場もなく…

 多くの海軍首脳の期待の元に建造された「大和」だったが、広大な太平洋・インド洋戦域での戦いは航空機主体の戦いとなり、空母機動部隊への随伴が難しい「大和」の出番はもはや無かった。昭和17年(1942年)のミッドウェー海戦にも参加したが、空母機動部隊の後方に位置していたため、戦局にはなんら寄与することなく虚しく日本本土に帰投することとなった。なお、日本海軍はこの戦いで空母4隻と熟練パイロット多数を失っている。
 昭和19年(1944年)6月、日本が設定した「絶対国防圏」内側のマリアナ諸島に連合軍が来攻した。いわゆる「マリアナ沖海戦」で、日本はこの戦いでミッドウェー海戦以来、回復に努めていたパイロット多数を失った。これにより日本海軍は戦略的な打撃能力を失い、以降は完全に受動的な立場に追い込まれていく。そしてこの戦いでも「大和」の砲戦能力の出番は無かったのだ。

(次ページへ続く)

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