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大村大次郎『お金の流れで読む日本の歴史』特別企画

戦前の日本は超格差社会だった

2016年05月19日 16時00分更新

文● 大村大次郎 編集●盛田 諒(Ryo Morita)

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元国税調査官の大村大次郎氏が日本の歴史を「お金」から読み解いた1冊『お金の流れで読む日本の歴史』から、現代世界と比べても印象深いくだりを紹介。なぜ日本国民は国際社会から孤立してまで「満州事変」を支持したのか?

 戦前の日本は、現代以上の格差社会だった。

 それが、「戦争を歓迎する」という日本国民の考えの土壌になったのである。

 日本は明治維新後、急激に工業化をすすめたが、国全体を見れば、「貧しい農村社会」だった。もともと江戸時代の人口の9割近くが農業をしていたくらいなので、おいそれと改善できるものではない。

 昭和5年の調査では、第1次産業47%、第2次産業20%、第3次産業30%で、就業人口2900万人のうち1370万人が農業に従事していた。そのうち半分近くの600万人は女性だ。男性も女性でも、もっとも多い職業は「農業」だったのだ。

 昭和20年の時点でも農業人口は就労人口の50%近くあり、職業人口としては農業がダントツのナンバーワンだった。

 そして農村においては、その貧しい生活のはけ口として、軍部が人気を集めるようになっていた。「軍部が大陸で勢力を伸ばすことが、農村を辛い生活から救ってくれる」というような錯覚を大勢が抱いたわけである。

 どれほどの格差があったか、ここで少し説明しておこう。

江戸時代と変わらなかった農村部

 都市の生活者たちは現在の人とあまり変わらないような、便利で文化的な生活をしていた。しかし、当時の人口の半数近くを占めていた農山村では、まだ江戸時代とほとんど変わらないような生活をしていた。

 農山村では、昭和に入っても上下水道の設備が整っていないところが多く、そのため、生活水は近くの川や井戸から汲んでくることになる。それは大変な重労働であり、農山村の生活の上で「水汲み」は大きな位置を占めていたという。

 また、ガスも入ってきていないところが多かったので、煮炊きにはかまどや囲炉裏を使う。これらには薪や柴が必要であり、その調達も農山村の生活には欠かせないものだった。

 電気は昭和初期には大半の家庭に入っていたが、電熱器などを使っていたのは都市部の家庭だけであり、農山村では各家に白熱灯が一個だけついている、ということが少なくなかったのだ。

 また当時の農業は、実は経営基盤が非常に弱いものでもあった。今でも日本の農業には「土地の狭さ」という大きな問題があるが、それは戦前にすでに抱えていたものである。

 図のように、農家一人あたりの農地面積というのは、世界と比べても大変狭い。所有耕地は5反(約0.5ヘクタール)未満が約50%で、3町(約3ヘクタール)以上は8%に過ぎなかった。

土地をもたない小作農が大半だった

 しかも戦前は、土地を持たずに農作業だけを請け負う「小作人」が多かった。

 彼らは、日本の農業を担っていたが、階級は最下層であり、不作の年には娘を身売りするなどということが普通に行われていた。

 彼らは地主に「決められた小作料」を支払って農地を使わせてもらっていた。そのため、農作物が不作のときや、農作物の価格が暴落したときは、小作料が払えなくなり、困窮した。

 小作人が小作料の引き下げを求めて暴動などを起こす「小作人争議」は、たびたび社会を混乱させた。

 耕地面積は自作53%、小作47%、不在地主は耕地所有者の19%だった。つまり日本の農地の半数は小作だったのである。

 そのため農家の経済基盤は非常に脆弱で、ことあるごとに生活が困難になった。特に昭和初期に起きた世界恐慌で、農村は大きな打撃を受けている。

 昭和5年、当時の物価は20~30%下落しているが、農産物の物価の下落はひどかった。米は半値以下、繭は3分の1以下になったのだ。昭和7年当時、農家の1戸平均の借金は840円で、農家の平均年収723円を大きく上回るものだった。

兵の約半分は貧しい農漁林業生まれ

 そして昭和9年には東北地方が冷害で不作となり、農村はまた大きな打撃を受けた。農村では学校に弁当を持って行けない「欠食児童」や娘の身売りが続出、一家心中も多発し、社会問題となっている。

 昭和6年の山形県最上郡西小国村の調査では、村内の15歳から24歳までの未婚女性467名のうち、23%にあたる110人が家族によって身売りを強いられたという。警視庁の調べによると、昭和4年の1年間だけで東京に売られてきた少女は6130人だった。

 5・15事件や2・26事件に走った将校たちも、この農村の荒廃をその動機に挙げている。瀬島龍三(せじまりゅうぞう)が著した『幾山河』には、次のような記述がある。

「さて、初年兵教育を受け持って感じたのは、兵たちの半分くらいは貧しい農漁林業の生まれということだ。中には、妹が夜の勤めに出ている、家の借金が火の車というような者もいた。一方では新聞紙上で、ドル買いで財閥が儲けたとか、政治の腐敗とか、その他、我が国をめぐる厳しい内外の諸問題などを知るにつれ、私自身、社会観が変わっていったように思う」

都市部の多くに貧民街があった

 貧しいのは農村だけではなかった。口減らしのために農村から都心に働きに出たが、思うような仕事につけず、まっとうな生活ができない貧民は激増していた。

 戦前の日本では、都市部の多くに「貧民街」があったのをご存じだろうか。

 たとえば東京には深川、浅草、芝、小石川、下谷、京橋、麻布、牛込、本郷、四谷、神田、赤坂などに貧民街があった。彼らは非衛生的で狭い長屋などに住み、残飯などを食べて生活していた。当時は兵営や軍の学校ででた残飯を買い取る業者がおり、その業者が量り売りしているものを買って食べるのである。このような残飯買い取り業者は、昭和5年の時点で、東京市内に23軒もあった。

 この絶望的な貧富の格差により、社会の不満が溜まり、その不満を解消してくれる存在として軍部が台頭していったのである。

 日本が昭和初期に突き進んでいった戦争には、こういう背景があったのである。


お金の流れで読む日本の歴史
元国税調査官が日本の「古代~現代」にガサ入れ! お金の流れを追うだけで、この国の「成り立ち」「混乱」「発展」そして「今とこれから」が読み解ける。歴史を動かしているのは「人」ではない、「お金」だ!

著者・大村大次郎
元国税調査官。国税局に10年間、主に法人税担当調査官として勤務。退職後、ビジネス関連を中心としたフリーライターとなる。一方、学生のころよりお金や経済の歴史を研究し、別のペンネームでこれまでに30冊を越える著作を発表している。

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お金の流れで読む日本の歴史 元国税調査官が「古代~現代史」にガサ入れ

※本記事は書籍の一部を記事用に編集したものです。




盛田 諒(Ryo Morita)

1983年生まれ、記者自由型。戦う人が好き。一緒にいいことしましょう。Facebookでおたより募集中

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