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渡辺由美子の「誰がためにアニメは生まれる」 第11回

その2:「ファンが求めるガンダムらしさ」との対話

機動戦士ガンダム00と、2つの「対話」 【後編】

2010年12月18日 12時00分更新

文● 渡辺由美子(@watanabe_yumiko

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 人類が対峙する敵を、人間ではなく「エルス」という金属生命体として描いた、「劇場版 機動戦士ガンダム00」。インタビュー前編では、敵への恐怖は相手がわからないということから生まれているものだと、水島精二監督は話した(前編を読む)。

 ストーリーの根幹をなす、「わかり合いたい」という意思は、ファンに対しても同じだったという。「ダブルオーはガンダムらしくない」という感想を持った観客たちと、監督はどのような「対話」を試みるのか。

※ 記事の中に、映画本編の重要な場面についての「ネタバレ」が含まれています。ご注意ください。(編集部)

「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」

 24世紀初頭、突如として現われた私設武装組織「ソレスタルビーイング」。彼らはガンダムによる戦争根絶を掲げ武力介入を開始、一時は組織壊滅の危機を迎えながらも、争いの絶えなかった世界を急変させた。

 地球連邦政府の成立、独立治安維持部隊アロウズの専横による戦争状態を経て、ようやく「武力に頼らない社会」ができた西暦2314年、再び危機が訪れる。130年前に廃船となっていた生体反応のない木星探査船が地球圏に接近してきた。それは、人類の存亡をかけた戦いの始まりだった――。

 オフィシャルサイトはこちら

監督・水島精二氏について

 1966年生まれ。東京都出身。東京デザイナー学院卒業後、東京アニメーションフィルム(現アニメフィルム)で撮影を、サンライズにて制作進行を務めた後、フリーに。1998年「ジェネレイター・ガウル」で初監督。代表作に「地球防衛企業ダイ・ガード」「シャーマンキング」「鋼の錬金術師」「劇場版 鋼の錬金術師~シャンバラを征く者~」「はなまる幼稚園」など。

ダブルオーは「ガンダム」らしくない?

―― 前回、「劇場版 機動戦士ガンダム00 -A wakening of the Trailblazer-」(以下「ダブルオー」)のテーマは「対話」というお話をお伺いしました。その対話は作中だけでなく、見る側、つまり観客との対話でもあったということでしたね。

水島 そうですね。フィルムを通してお客さんと対話したいと思っていました。たとえば、「ダブルオー」を受け入れられないと思っている人とも「対話」ができればいいなと。

 ガンダムは長く愛されている作品なので、やっぱりファンの方それぞれが「自分のガンダム像」というものを持っていますよね。だから、「ダブルオーはガンダムらしくない」という言葉も聞こえてきます。

 でも、そういう声はあって当然ですよね。「ガンダム」という歴史ある大きなタイトルで、様々なタイプの作品が作られて来ている。だから、「自分のガンダムと違う!」という感想は出るだろうなと思っていました。

 ただ、それをわかった上で「ダブルオー」を受け入れられない人たちとも、もう少し近づきたいなと思うんですね。これも僕のおせっかいな性分なんだけど、対話をやめたくないんです。いつも、どこかでわかり合えるラインがあるんじゃないかと思っていて。


―― 監督ご自身はどんな対話をしたいと思っていますか。

水島 対話は互いの想いを発信し、理解し合うことで達成されますから、発信と受信が必要ですよね。その上で、作品にメッセージを込めた。これはこちらからの発信です。そして受信は様々な感想を聞くことです。聞くと言っても、面と向かって聞ける例は少ないので、ネット上のモノが多くなります。全部とはいきませんが、なるべく多くの、それこそ悪口も含め見るようにしてますね(笑)。


―― 悪口でも見るんですか。

水島 やっぱり、いろんな意見を聞きたいですから。ネット上には、視点の優れた人がたくさんいて、作り手のこちらが「あっ」と思うようなことを書いてくれたりするんですよ。

 彼らは感想として自由に書いてくれているだけで、批評しようとか考えていなくても、僕たちの制作意図がすごくまっすぐに届いたり、反対にうまく届いていないことがその言葉からわかる。そうしたときに、表現方法や伝え方を今度は変えてみようかなと思えるわけです。

 これはTVシリーズの「ダブルオー」以前からそうなんですが、どんな感想でも、「気付けること」が、僕にとってはすごくためになるんですね。人が何を見てどう考えるのかという実例だから。

 ただ、たくさんの感想を見ていて、惜しいなと思うこともありました。「ダブルオー」が受け入れられないという状態があるとしても、もう少し踏み込めば、もっとその感想が有意義なものになるのにな、と。


―― 踏み込むというのは……。

水島 視点の置き方ということかもしれません。たとえば「ダブルオーはダメだ」と思ったとき、そこで終わってしまうのは、もったいない。それでは、せっかくの「気付き」を活かしていない状態だと思うんです。

 ダメだと思ったら、そこから「なぜダメだと思うのか」を明らかにしてそれを書いてみるとか、自分の好みはこういう映画だから、この部分が好みに合っていないんだ、というところまで思考を発展させることができると、どんな映画を観ても有意義な時間が過ごせるんじゃないかなと。

 「ダブルオー」の感想で、たとえ批判的に見える内容であっても、「なぜそう思うか」まで具体的に書かれていると、けっこう同意できたりするんですよね。そこは僕も心残りな部分だったな、この課題は次に活かす! とか思いますから(笑)。

 あと、これはダブルオーと直接関係なく、ネットというものの特徴だと思うんだけど、悪口悪評がひとつ出ると、そこに乗っかって悪口を言い始める人がいて、その中には憶測や冗談まじりの嘘もある。そこから、多数に理解されやすい情報だけががどんどん膨らんで、 「巨大悪」ができてしまうことがありますね。

(次のページに続く)

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