このページの本文へ

前へ 1 2 次へ

「パケット通信」考案者の1人、クラインロック氏が振り返る(前編)

「インターネット誕生」の瞬間、ログに残された2行のメモ

2014年02月13日 08時00分更新

文● 末岡洋子

  • この記事をはてなブックマークに追加
  • 本文印刷

 今では日常生活に不可欠なものとなったインターネットだが、その歴史はまだ浅く、幸いなことにわれわれはその誕生や発展に寄与してきた人々の“生の声”を聞くことができる。その1人がコンピューター科学者のレナード・クラインロック(Leonard Kleinrock)氏だ。インターネットの重要な仕組みの1つである「パケット通信」について数学的理論付けを行い、“インターネットの父”の1人とされる。

 そのクラインロック氏が昨年(2013年)10月末、アイルランドのダブリンで、インターネットの誕生を振り返り、今後を展望する講演を行った。誕生から45年、同氏は自分たちの産物の成長と発展をどう見ているのだろうか。

“インターネットの父”の1人、コンピューター科学者のレナード・クラインロック氏

100年以上前からあった「世界的ネットワーク」のビジョン

 多くの人が知るとおり、インターネットの原型は1960年代に米国防総省のARPA(高等研究計画局)が構築したコンピューターネットワーク「ARPANET」である。だがクラインロック氏は、世界を網羅するデータネットワークというビジョン自体は、ARPANET誕生の「ずっと前から存在した」ことを指摘する。

 たとえばARPANET誕生からさかのぼること約60年前の1908年、電気技師で発明家のニコラ・テスラ(Nikola Tesla)氏は、「ニューヨークにいるビジネスマンが、ロンドンにある自分のオフィスとやり取りすることが可能になる」「時計ぐらいの大きさのもので、どこからでも写真、絵、文字などをやり取りできる」と、世界的な通信ネットワークの誕生を“予言”していた。

 また、1938年にはSF作家のH・G・ウェルズ(H.G. Wells)氏が、著書「World Brain(世界頭脳)」において、世界中の知を集約する知識ベース「世界百科事典」の構想を記している。さらに1945年には、科学技術者のヴァネヴァー・ブッシュ(Vannevar Bush)氏が、高速で柔軟な情報参照を可能にする記憶補助機械「Memex」の構想を発表している。これらも、現在のハイパーリンクや「Wikipedia」の原型となるビジョンと言えるだろう。

ヴァネヴァー・ブッシュ氏の「Memex」構想は、人間の“連想の航跡”をたどって情報検索/閲覧ができる電気機械式装置というもの。ただし記録メディアはまだマイクロフィルムだった(画像はDARPAサイトより)

「技術はそろったのに、誰も重要さに気づかない」

 それではなぜ、米国政府は1960年代にネットワークの研究開発を奨励し、ARPANETが誕生するに至ったのか。クラインロック氏はその経緯を話し始めた。

 1958年、ARPAが設立される。そのきっかけとなったのは、前年(1957年)にソ連が世界初の人工衛星、スプートニク1号の打ち上げを成功させたことだった。敵国に先を越されたことに大きなショックを受けた当時の米アイゼンハワー大統領が、「このようなことは二度とあってはならない」とARPAを立ち上げたのである。ARPAは大学や研究所と産業界との共同作業を通じて、科学技術分野の高度な研究開発を推進することを目的とした機関である。

 一方、マサチューセッツ工科大学(MIT)に在学中だったクラインロック氏は、1961年にパケット通信網についての数学論文を発表している。

 1962年、ARPA内のリサーチグループである「IPTO(Information Processing Techniques Office)」の部長に就任したJ・C・R・リックライダー(J.C.R. Licklider)氏は、現在のインターネットに近いコンセプトの「Intergalactic Computer Network(銀河間コンピュータネットワーク)」構想を持っていた。

 1964年、リックライダー氏の後任となったMITのアイバン・サザランド(Ivan Sutherland)氏が、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)にあった3台のIBMメインフレームをネットワーク接続することを提案するが、メインフレームを保有する各部門からの反対(自分たちのマシンをほかの部門とつなぐのかという“政治的理由”)に遭い、中止となる。「ただし、このときに『ネットワーク』というアイディアがARPA内に生まれた」。

 1965年にはMITのローレンス・ロバーツ(Lawrence "Larry" Roberts)氏がIPTOに参加、西海岸と東海岸をダイアルアップで接続した。クラインロック氏はこのときの様子を「たった数ビットのデータ転送だったが、ひどい体験だった。フロー制御、プロトコル、モニタリング……何もなかった」と振り返る。だが、この「ひどい体験」によって、データ転送に適切な技術開発が必要だという認識につながったという。

 研究が大きく前進したのは、サザランド氏に代わってロバート・テイラー(Robert Taylor)氏がIPTOのディレクターに就任したときだ。コンピューター側の技術革新が進む一方で、データを相互に共有できないことを問題と感じたテイラー氏は、ネットワークが必要だと認識した。「ARPA全体がネットワークの必要性に気がついた。アイディアはあったが、やっとニーズが明確になった」。テイラー氏はすぐに行動を開始し、その日のうちに開発資金を得たという。

 この間もネットワーク技術の研究は進んでいた。パケット通信ネットワークの研究は、クラインロック氏などのMITグループのほか、ポール・バラン(Paul Baran)氏のランド研究所(RAND、米空軍のシンクタンク)、ドナルド・デービス(Donald Davies)氏のイギリス国立物理学研究所(NPL)という3グループが進めており、1960年代前半、ほぼ同時に考案された。ちなみに「パケット(packet)」という言葉は、デービス氏の論文で初めて用いられたという。

パケット通信ネットワークの研究は、ほぼ同時期に3つのグループが進めていた

 研究者らは、データネットワークの構築と商用化に最適なパートナーと考えAT&Tにアプローチしたが、当時のAT&Tはその提案を断ったという。「技術はそろったのに、誰も重要だと思っていない」。そうしたなかで、データネットワークのニーズに気づいたARPAが動き出した。

(→次ページ、1969年10月29日22時30分――アイディアとニーズがつながった!)

前へ 1 2 次へ

ピックアップ