このページの本文へ

松田直樹さんの死から7年、風化させたくない名選手の真の姿

2018年08月11日 06時00分更新

文● 藤江直人(ダイヤモンド・オンライン

  • この記事をはてなブックマークに追加
  • 本文印刷
松田直樹さん
松本山雅でプレーしていた松田直樹さん。松田さんの突然の死から7年が経過した Photo:AFLO

魂をほとばしらせる熱きプレーで歴史に名前を刻んだ名ディフェンダー、松田直樹さんが34歳の若さで急死して7年の歳月が過ぎた。最後の所属チームとなった松本山雅FCは、故人の命日だった8月4日の明治安田生命J2リーグ第27節で、ジェフユナイテッド千葉から3‐2の逆転勝利をゲット。命日前後に行われたリーグ戦で初めて白星を天国へ捧げた。日本代表としても活躍した松田さんは、日本サッカー界に何を伝えたのか。J2の首位を走る松本山雅の反町康治監督(54)と横浜F・マリノス時代からの盟友・田中隼磨(36)の言葉、そして生前の故人に行った忘れられないインタビュー取材を蘇らせながら、松田さんが残した軌跡を再現する。(ノンフィクションライター 藤江直人)

「オレは、サッカーが大好きだ」
これだけは誰にも負けたくない

 故人は笑顔こそ浮かべていたが、内心ではちょっぴりムッとしていたのではないかと今では思っている。大事にしていた聖域に土足で入り込んでしまったことを、今では謝りようがない。

 あの日も暑い夏だった。2009年8月。今は撤退してしまった横浜みなとみらいのマリノスタウン内にある瀟洒なクラブハウスの2階で、横浜F・マリノスに所属していた松田直樹さんにインタビュー取材を行った時のやり取りだ。

 ある雑誌の企画で、テーマは「一流選手になるための7ヵ条」だった。松田さんは「オレなんて全然一流じゃないよ」と謙遜しながらも、時間の経過とともにテンションをどんどん上昇させ、熱い言葉の洪水をこれでもか、とばかりに浴びせてきた。

 こちらも必死に受け止めながら共同作業の形で7ヵ条をまとめ上げ、最終的に真っ白な短冊状の色紙に直筆でしたたためてもらった。しかし、最後となる7つ目で「オレは」と記し始めると、松田さんはしばし沈黙した後に大きな「読点」を打った。

 色紙はそれほど大きくはなかった。その後の文字が綴れなくなるのではと、思わず「読点はない方がいいのでは」と話しかけたのが冒頭でのやり取りだ。首を横に振った松田さんの反応から、読点に深い意味を込めていたことが伝わってきた。そして、読点の後に力強い文字でこう綴った。

「サッカーが大好きだ」

 インタビューのハイライトとなった「これだけは負けない、絶対に譲れない一線はありますか」という質問に対する答えだった。まるで子どもように無邪気な笑顔を浮かべた松田さんは「サッカー好き度、かな」と切り出すと、胸中に抱く思いの丈を語ってくれた。

「サッカーが好きだ、というヤツには絶対に負けたくないですね。オレは本当に1日中、サッカーのことしか考えていないし、サッカーが大好きで仕方がない。サッカーは世界を動かせると思っているから。それくらいすごいスポーツだというのをみんなに伝えたい。本当に面白いんだ、と。好き、好き、本当に好きですね」

 インタビュー取材から2年後の2011年8月4日、松田さんは34歳の若さで天国へ旅立ってしまった。16年間所属したマリノスから、戦力外を告げられた中で迎えた2010シーズンの最終節。ホームの日産スタジアムで行われた退団セレモニーで、松田さんは号泣しながら現役続行を宣言した。

「オレ、サッカーが大好きだから、もう少しだけ続けさせてください」

 地域リーグの北信越リーグ1部から2010年にJFLへ昇格し、ごく近い将来のJリーグ参入を目標として掲げていた松本山雅FCへの移籍が発表されたのは2011年1月9日。マリノス時代から自身の象徴としていた「3番」を新天地でも背負い、センターバックとして15試合に出場したまま、真っ赤な魂をたぎらせてきた軌跡は途絶えてしまった。

松田さんの心筋梗塞による死から
試合会場や練習場でのAED義務づけへ

 オフ明けの練習が行われていた8月2日。グラウンドで突然倒れた松田さんは、心肺停止の状態で信州大学医学部附属病院の高度救命センターへ緊急搬送された。病名は急性心筋梗塞。最後まで意識が戻ることはなかった。

 松田さんが倒れたグラウンドにAED(自動体外式除細動器)が設置されていなかったことから、日本サッカー協会は2012年度からJリーグだけでなく、JFL、なでしこリーグ、フットサルのFリーグなどの試合会場や練習場におけるAED常備を義務づけた。

 救命の輪はスポーツの垣根を超えて、日本陸上競技連盟(JAAF)や日本相撲協会などへ広がって今現在に至る。日本循環器学会AED検討委員会と公益財団法人日本心臓財団が、AEDの配置に関して具体的な目安を示すなど、日常生活におけるAEDへの関心も高めるきっかけにもなった。

「マツが松本山雅に来たときにオレはいなかったから何とも言えないけど、クラブの管理不足もあっただろうし、だからこそ本当に残念だった。ここ来てからはオレも選手の健康管理を第一に考えながら、人一倍やってきたつもりです。サッカーができなくなったら、やっぱりおしまいだから」

 こう語るのは、松本山雅を率いて7年目を迎えている反町康治監督だ。松田さんを失った後半戦で驚異的な巻き返しに転じた2011シーズンの松本山雅は、最終的には4位に食い込んで成績面におけるJ2参入の条件をクリアした。

 4位を確定させたのは2011年12月4日。くしくも松田さんの4度目の月命日だった。そして、J2からJ1へ駆け上がる夢を託されて、2008年の北京五輪でU-23日本代表を指揮し、アルビレックス新潟と湘南ベルマーレをJ1へ昇格させた実績を持つ反町監督が招聘された。

今年初めて松田さんの命日前後に勝利
故人に思いを馳せる反町監督とDF田中隼磨

 2015シーズンにはJ1の舞台で戦うなど、松本山雅は夢をひとつずつ成就させてきた。しかし、松田さんの命日前後に行われた試合だけは勝てない。日本代表戦が行われた関係でJ1が中断していた2015シーズンを除いて、2012シーズン以降で3分け2敗の成績が残されていた。

 迎えた今シーズン。松田さんの7度目の命日となった8月4日に、松本山雅は敵地フクダ電子アリーナで行われた明治安田生命J2リーグ第27節で、ジェフユナイテッド千葉と対峙。PKで1点を先制されながらも怒涛の猛攻撃を繰り広げ、3‐2の逆転勝利をもぎ取った。

 連勝を今シーズン初の「4」に、連続負けなし試合を「8」に伸ばし、首位をキープした試合後には選手たち、そして反町監督以下のコーチングスタッフが手渡された特製シャツを重ね着していく。クラブカラーの緑色のシャツの胸と背中には「3」が、背中の下の部分には「松田直樹」と記されていた。

 命日前後に行われた試合で、初めて勝利を捧げられたことを反町監督も知っていた。就任以来、松田さんの命日には練習前のピッチ中央に3枚の写真を飾り、1分間の黙祷を捧げてきた。命日に試合が行われた今年は、前日にクラブに関わる全員をピッチに集めて故人に思いを馳せた。

「日本サッカー界に大きく貢献した選手であることは間違いないし、風化させないように、絶対に忘れちゃいけない存在だと思っているので。今日もどこかでマツが見ていると思っていました」

 ようやく届けられた白星を神妙な表情で振り返った反町監督は、心の片隅に後悔にも近い思いを抱いていた。ベルマーレの監督を務めていた2010シーズンのオフ。マリノスを退団した松田さんから突然連絡が入り、ベルマーレへの移籍を志願してきた。

 10年ぶりにJ1を戦ったベルマーレは、力及ばずに最下位に終わっていた。再びJ2を戦う2011シーズンへ。続投した反町監督の下で、ベルマーレは大幅な若返りを余儀なくされていた。断腸の思いを込めて、反町監督は松田さんの直訴を却下したと明かす。

「その時に『悪いけどマツ、ウチは若いチームなので』と断った経緯がある。もしも『湘南に来い』と言っていたら、今も生きているかもしれない。その意味ではオレも責任を感じている」

 J2を戦いながら12位、7位と着実に力をつけて迎えた2014シーズン。松田さんの魂を引き継ぐ男が、志願して松本山雅に加入した。マリノス時代にトータルで6年半、松田さんと一緒にプレーしたDF田中隼磨は遺族の承諾を得て、空き番になっていた「3番」を背負った。

「松本山雅の『3』は特別な背番号だし、マツさんの魂や気持ちを抱いて戦わなければ背負う資格はないとも思ってきた。『3』をつけることで、いろいろな人の想いや願いを背負いました」

 シーズン序盤に右ひざ半月板損傷の大けがを負いながら、首脳陣以外にはひた隠しにすることを決めた田中は、J1昇格を決める11月1日のアビスパ福岡戦まで39試合連続で先発フル出場。生まれ故郷に初めて生まれたJクラブを、プレーと背中の両方で牽引した。

「僕自身、若い頃はマリノスでマツさんをはじめとする偉大な選手の背中を見ながら、いろいろなものを教わった。同じように山雅のチームメイトたちに、経験や厳しさを伝えていかないといけない。死に物狂いで戦わないと、J1では結果を残せない。その意味ではぬるま湯につかっている選手がまだ多い。ただサッカーをしているだけの選手や、僕の気持ちが伝わらない選手はプロとしてまだ甘い。厳しい言い方になりますけど、そういうことに対して平気でいられるところが許せないんです」

 結果を先に言えば、J1の厚い壁にはね返された松本山雅は1年でJ2へ逆戻りした。2016シーズンはJ1昇格プレーオフ準決勝で苦杯をなめ、2017シーズンは8位に終わった。

松田さんの熱い生き様や突然の悲しい別れも
少しずつ忘れられてきたが……

 先月31日には36歳となり、松田さんよりも年上になって久しい田中は今も自分及び周囲へ厳しい姿勢を貫き通す。2016シーズンには「右眼裂孔原性網膜剥離」を患ったが、失明のリスクを乗り越えて約3ヵ月後には復帰した。田中の体に脈打っているのは松田さんの真正直で、不器用な生き様。実は故人はこう語りながら、豪快に笑い飛ばしたこともある。

「1年目なんて、試合の前夜にお菓子を買えるのが嬉しくてね。お金はあったから、ホテル入りしてからコンビニへ行って、甘いものばかり選んで。食生活なんて酷かったですから。リザーブと分かった時は、ロッカーに隠れてお菓子を食べていましたからね。他のみんなが試合前のアップをしている時にボリボリと。今そんな若手がいたら、オレがぶっ飛ばしますけどね。クビを切られる選手をたくさん見てきたし、そこからの第2の人生は本当に大変。オレが言えたことじゃないけど、だからこそプロの意識を高く持って、自分を出していかないと」

 時には怒りのマグマを放出しながら、若手を忌憚なく叱咤激励した松田さんは自らを「Jリーグ史上で最大のやんちゃ坊主」と呼んではばからなかった。思いの丈を真正面からぶつける。それが原因で周囲と確執が生まれることも厭わなかった松田さんは、こんな言葉を紡いだこともある。

「オレは自分で言ってきたことに、何でも責任を取ってきたつもりです。今の若いヤツらは自分で責任が取れないから、やんちゃもできないと思うんですよ。とりあえず陰に隠れて淡々とこなしていけばいい、というのはすごく感じるんですよね。それが今の若いヤツらの生き方と言われればオレは何とも言えないですけど、オレは淡々とやるのが大嫌いですからね」

 1対1における無類の強さ。1996年のアトランタ五輪でブラジルを撃破した「マイアミの奇跡」で全身からまき散らした、どんな強敵に対しても絶対に物怖じしない強靭なメンタルは、2002年のワールドカップ日韓共催大会で史上初の決勝トーナメント進出を果たした日本の最終ラインも支えた。

 しかし、ピッチに刻まれた残像以上に松田さんを一流たらしめ、誰からも愛される存在へと昇華させたのは、サッカーに注ぎ続けた海よりも深く、山よりも高い愛情だ。

「マツさんが成し遂げられなかったことを、36歳になってもマツさんの背番号をつけてプレーできていることを、当たり前に感じちゃいけない。本当に幸せに感じないといけない。(命日を)意識しないことはないけど、あの悲しさをクラブとしては絶対に忘れちゃいけない。美談にするのは簡単ですけど、やっぱり起きちゃいけないことですから」

 今シーズンの田中は、リザーブに回る試合が多くなった。ジェフ戦でピッチに立ったのは後半アディショナルタイム。試合後には「こんな情けない命日を迎えて、悔しさしかないよ」と捲土重来を誓いながら、自らに課せられた使命を力強い口調で再確認している。

「マツさんがどのようなプレーヤーだったのか、ということも知らない若手が多い。一緒にプレーした選手たちが伝えていかなきゃいけないけど、言葉で伝えるのは難しいですよ。オレたちの頃とは時代が違っているから。それでもピッチの上で彼らに響くように、練習からプレーで示していくしかない。何も感じない選手もいるかもしれないけど、オレはずっと伝え続けます」

 2011シーズンのJFLをともに戦ったメンバーで、今も松本山雅でプレーしているのは32歳のDF飯田真輝だけとなった。選手だけでなくファンやサポーターも入れ替わってきた間に、日本サッカー界を悲しみのどん底に突き落とした松田さんとの突然の別れも、少しずつながら忘れられてきた。

 松田さんが絶対に負けたくないと公言していた「サッカー好き度」を、比べることはもうかなわない。それでも、現役でプレーする限りは永遠に張り合っていく。天国と勝負し続けることが、伝説と化したディフェンダーを後世に伝えていくことになる。

 ベルマーレ入りがかなわず、カタールの金満クラブから届いた破格のオファーを断った末に松本山雅入りした松田さんは、2011年1月30日に行われた新体制発表会で思わず涙ぐんでいる。会場を埋めたサポーターがチームカラーの緑色のマフラーをかざし、白星を挙げた後に歌う『勝利の街』の大合唱で迎えられた光景に感極まった。

「このチームに来て本当によかったと、松本山雅を必ず全国区のチームにしてみせるから、任せてくださいと言っていましたね。やるからにはJ2じゃない、J1ですよと。だから社長、クラブとしても絶対に後押ししてくださいと」

「J1でマリノスに勝つ」
松本山雅はますます加速していく

 当時の大月弘士社長に語った思いを抱えたまま、松田さんが志半ばで旅立ってから7年もの歳月が過ぎた。天国から叫んでくる言葉があるとしたら、冒頭で記した短冊状の色紙にしたためた13文字にすべてが凝縮されているような気がしてならない。

「オレは、サッカーが大好きだ」

 きっと「読点」のところで深く息を吸って、日本サッカー界に関わるすべての人間へ届くように、あらん限りの大声で「サッカーが好きだ」と叫びたかったのだろう。そう考えると「読点」を入れた意味も、最後に「!」を加えますか、という提案が真顔で却下された理由も理解できる。

 松田さんのサッカー人生で最も重要であり、かつ本質的な部分。余計な修飾の類を使いたくなかったのだろう。永遠のサッカー小僧は見守るだけではなく、プロとは名ばかりのプレーでファンやサポーターを失望させれば、容赦なくカミナリを落としてくる。自らを律するように田中が力を込める。

「J1へ戻るだけじゃ意味がない。その先を見すえて、戦っていかないと。J1でマリノスに勝つことを、マツさんは望んでいるはずなので。この場にいれば『まだまだ。もっと上を目指せ』と言うはずですから。だからオレも、まだまだ頑張りますよ」

 J1におけるマリノスとの対戦成績は1分け1敗。敵地でカマタマーレ讃岐と戦う11日の明治安田生命J2リーグ第28節で、長丁場のJ2戦線は3分の2を終えるが、この先に待つ胸突き八丁の戦いも通過点。豊穣の秋を目指す過程でJ1に定住する地力もつけ、何よりも愛するサッカーを心から楽しみながら、命日に捧げた勝利を介して松田さんの魂を新たに感じた松本山雅は力強く加速していく。


※本記事はダイヤモンド・オンラインからの転載です。転載元はこちら

カテゴリートップへ

最新記事
最新記事

ASCII.jp ビジネスヘッドライン

アスキー・ビジネスセレクション

QDレーザー販促企画バナー

ピックアップ