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グレープシティ株式会社社長ダニエル・ファンガー氏に聞く、2002年の.NET戦略

2002年01月08日 09時40分更新

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[MSDN Mag] ここで、文化オリエントの隠された話をお聞かせください。
[ファンガー氏] 文化オリエントという会社は、そもそもは現会長が作った会社で、インドにいる日本人の友達が、インドから民芸品や木彫品などを日本に輸出するときの代理店だったんです。販売はしていませんでした。私は、仙台の私立学校で、英語の教諭をしていました。そこでPCが出回るようになってきた。まだ8ビットの時代で、CP/Mだったんですが、文化オリエントの現会長が、その時学校の理事もやっていた関係で、「PCの時代が来るから学園でもPCを買って使いなさい」という提案を理事会に出して使い始めました。

しかし、ハードウェアがあってもソフトウェアがなかった。そこでソフトウェアを自分達で作ろうという話になって、私と現在上海の社長が2人して独学で勉強して、会計システムを構築したわけです。最初買った機種は、沖電気if800 model30でした。プリンタが付いているオールインワンで、OKI-BASICが動いていました。その上でシステムを構築して行なったわけです。ある日そのシステムを見た、学校に監査に来ている公認会計士が、PCのマニアでパソコンがすごく好きな人だったんですけれど、「このシステムけっこういい作りしてるな」と、ほかの学校でも使いたいってことになったんです。この公認会計士も、いろいろな学校の監査をしていたわけですから。

しかし、私立学校としてはソフトウェアを販売するわけにもいきません。そこで、ここに「文化オリエント」という会社があるから、ちょっとソフト開発部門を作って販売してみるかということになりました。当初は安易な気持ちで、ビジネスプランもなく始めたんです。最初はけっこう苦労しましたけれど、そうやってスタートして19年ぐらい続けました。

'91年の頃から、どうしてもWindows対応を考えなければならないことになった。それまでに、全国で私立学校向けのシステムとしてはけっこう有名になっていたんです。そのうちに輸入の関係もずいぶん少なくなって、ソフト部門のほうがずっと大きくなったんですが、実は、その頃から社名を変更しようかと考えていました。「文化オリエント」というのは、どうもコンピュータの会社に聞こえないと思ったのです。ということで、これまでにも社名変更の話は何回か持ち上がったのですが、その都度いろいろな理由で実現しませんでした。

'91年当時は、Windows 3.0上で、SDKとCとで大きな管理ソフトを組もうとすると、非常に辛かった。しかし、そこにVisual Basicが登場したので目を付けたわけです。当時は「Actor」などの開発環境を持ってきて実験もしたのですが、Visual Basicが出たときに、ビル・ゲイツがBasicをメインの言語にするって発表したので、それに賭けたわけです。そして始めたわけですが、やはりまだまだ力が足りないと感じました。そのときはバージョン1の英語版を使っていたのですが、米国でバージョン2がリリースされた頃に、コンポーネントやツールがちょこちょこ出てきました。そして「VBX」を見たときに「あ、これ欲しいな」って思ったんですね。これがあるともっと簡単にシステムを構築できるなと思いました。私学システムというニッチな市場で、コンピュータのソフトウェアビジネスとしての自信はありませんでした。マーケティングも知らない、何にも知らない。最初は開発も素人でスタートしたわけです。とにかくずっとこの分野でやっていこうとは思っていたのですが、どこかがローカライズしてくれないとVBXは使えないなと思っていました。

そこで、とうとうこのローカライズもやってみようということになりました。この分野も、大手が参入しないニッチな市場になるかもしれないと思ったんですね。そんなに伸びると思わなかったのですが、思い切って'92年の夏頃から1つ目の会社と契約して、1年ちょっと掛けてローカライズを行ないました。最初に学校会計システムを作ったときもそうだったのですが、'92年から'93年にかけて、1年ぐらいはあまり寝ないで仕事をしていました。そこでさらに'93年9月に7製品リリースし、9~11月には立て続けに7製品リリースしました。こういったきっかけでツールのローカライズと開発に入っていきました。とにかく、Windowsの移行に際してツールが欲しい、ほかにローカライズしてる会社もなかったわけで、手を上げてやり出したのが経緯です。

一番早かったとは言えませんが、時期的には早いほうでした。米国のいろいろなベンダーとお付き合いさせていただいて、1社だけから、すべての製品を持って来てローカライズするのではなく、米国での売れ筋製品や日本でも売れるのではないかというものを選びました。最初は、全部やってくれって言われるんですよ。でもそれではもとが取れなくなる。最初はなかなか満足してもらえないベンダーもありましたが、最終的には売り上げも伸びて、先方にもロイヤリティが入るとなると、喜んでくれて文句も言われなくなりました。さらに今度はいろいろなベンダーから声が掛かるようになりました。特に最初に付き合ったベンダーと信用関係を築き上げることができたというのがよかったと思います。それからはもう口コミで、米国のコンポーネント業界では、日本へ進出するんだったら「文化オリエント」だぞって話になりました、そういう意味では非常にラッキーだったと思います。

文化オリエントという会社は、本当は東南アジアやタイから、民芸品などを輸入する会社のために、斡旋や仲介を行なっていた会社だったものが、今では、100%ソフトウェア開発になったわけです。そこでインドでも輸入をやめて、一緒にソフトをやろうよということになって、文化オリエントの現地法人ができたわけです。ですから、文化オリエントのルーツはインドと非常に深い関係がある。最後にまたインドに戻って、ソフトウェアも一緒にやるようになったわけです。
[MSDN Mag] 私学会計システムは、元々はBasicだったわけですね。
[ファンガー氏] 私は、Basicのプロになりましたよ。たとえば、COBOLで組んであるほかのシステムがあって、1カ月の計算を何時間も掛けて処理しているものを、Basicで組み直して15分で処理が終わるようにしました。当時はフロッピーベースで、しかもメモリが少ない。そこで徹底した最適化を研究しました。だから普通の人が見ると、Basicで作ってあるとは信じてくれなかった。「これってCで書いてあるんだろう」と聞かれましたね。

一部のコードは、実はアセンブラで書いてありました。入力関係やソートなどの部分です。最初は、ガベージコレクションがひどくて、部分的にアセンブラで組み直しました。それを、MS-DOSの時代からツールとして売っていたんです。NECのアプリケーションカタログみたいなところに、ただ載せてあるだけで、マーケティングなどは全然やっていなかったんですが、それが売れ始めました。こういった経験というのもあって、Visual Basicのコンポーネントが出てきたときに、1つのビジネスとして考えられるんじゃないかなと思ったわけです。

当時はプラットフォームとしてはNEC、富士通、沖がありました。まずは沖でスタートしましたが、最終的にバージョンが上がっていったら、NECと富士通だったんです。当時富士通さんには、ものすごく支援していただいた。新しいマシンの貸し出しとか、マーケティングの費用とかでもお世話になった。ただどうしても、やはりNECでないと買えないというお客さんが出てきて、NECもサポートするようになりました。しかし、F-BASICとN88のBASICはけっこう似ていたから、ほとんど1つのソースコードでできたんです。コーディングの規約などもしっかり作って、アセンブラのサブルーチンも入れました。そのMS-DOSのバージョンは、同じバージョンを10年近く売りました。

しかし今度は、Pentiumのマシンで動くようになりました。フロッピーベースのシステムでも月次計算が数分で終わっていたのが、Pentiumのマシンになると、もう瞬時に終わってるんですね、ほんと1秒で。そうするとユーザーが、「これはバグなんじゃないか、何にも動いてない」って言い出すこともありました。

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