丸の内LOVEWalker総編集長・玉置泰紀の「丸の内びとに会ってみた」 第13回

1年半のメンテナンスを終え11月に再開館でどう変わる!? 「三菱一号館美術館」の池田新館長に会ってみた

文●土信田玲子/ASCII、撮影(インタビュー)●曽根田元

  • この記事をはてなブックマークに追加
  • 本文印刷

 丸の内LOVEWalker総編集長の玉置泰紀が、丸の内エリアのキーパーソンに丸の内という地への思い、今そこで実現しようとしていること、それらを通じて得た貴重なエピソードなどを聞いていく本連載。第13回は、この4月より三菱一号館美術館の三代目館長に就任した池田祐子氏に、1年半のメンテナンスを終え11月23日に再開館する美術館の展覧会の内容や今後の試みについてうかがった。

今回の丸の内びと/三菱一号館美術館館長 池田祐子

4月に3代目館長に就任
三菱一号館美術館と丸の内の印象は?

――はじめに、4月から新館長に就任された三菱一号館美術館と、新たな勤務地となる丸の内の印象についてお聞かせください。

池田「三菱一号館美術館といえば、まずその場所ですよね。丸の内という日本のビジネス街の代名詞のような街の中心部にある美術館なので、第一に丸の内で働いている人たちやここに来る人たちに何ができるのか、どういうことを皆さんにアウトプットしていくべきか、ということが重要です。そこから色々な活動が派生していくと思いますし、今まで私が勤務していた国立美術館のそれとは若干異なるものになると理解しています。
 ビジネス街なので、基本的なコア・ターゲットはビジネス・パーソン、それに加えてその家族やパートナー、友人たちへ広がっていくイメージでしょうか。昔は週末に誰もいないようなところでしたが、三菱地所による「まちづくり」の結果、近年は大きく変わって休日も賑わうようになってきているので、そういう人たちへも広がっていってほしいです」

――池田さんは大阪のご出身で、就職されてから長く京都にお住まいですが、ときどき上京はされていた?

池田「行きたい大学があったので大学受験で初めて上京しましたが、その後は大学院に入るまで上京したことはありませんでした。親戚もほぼ大阪にしかいないし、むしろ海外志向が強くて、日本の中の東京それ自体には憧れはなかったですね。 仕事で東京に来ることはあっても、特にビジネス街の丸の内は、それこそ三菱一号館美術館ができる前は、わざわざ立ち寄るところではありませんでした。だからこの美術館ができたことで、これまで丸の内に用事がなかった人でも来るようになっているのではないかと。私がそもそもそうですから」

――丸の内は当時、ビルの1階には銀行や証券会社の店舗が軒を連ねていたこともあり、土日は閑散となるオフィス街でした。1990年代には、金融再編による統廃合やビルの老朽化などによる他のエリアへの本社移転の動きもあったことから、「丸の内のたそがれ」などと言われたこともありましたね。そんな中、「丸の内の再構築」計画がスタート。今の丸の内につながる様々な変化がもたらされました

池田「大学院生になって、美術史学会の全国大会に参加するため大阪から東京に夜行バスで来たことがありますが、滞在中食べるところにすごく困ったと記憶しています。東京は小腹を空かせている人に冷たいな、と。当時も大阪では、ファッションビルの上にも必ず飲食店街があって、いつでもどこかで何か食べられたので」

――今では多くの飲食店がありますが、新丸ビル7階に「丸の内ハウス」っていう深夜までやっている飲み屋街みたいな場所ができたのは驚きました。あれは衝撃でしたね

池田「今はずいぶんと変わって、困らなくなりましたね。個人的には、ビルの中に入っているお店よりも、街角の個人経営のお店が好きなんですけど。関西人的には、雑誌『Meets』が好みという感じでしょうか。
 アートについて言えば、いわゆる現代美術はサブカルとの親和性もあるし、街が持つ影の部分を含むレイヤーから生まれてくる側面があると思うんです。なので、三菱地所の方とお話ししたときも、全部が日向みたいなきれいな街よりも、どこか影の部分があってこそ街は面白いし、新しいものはそういうところから生まれてくるのではないでしょうか、と伝えました」

――今の丸の内もここ10数年で人工的に作られた街ですが、近ヨーロッパ的というか架空の世界という感じでもあるし、池田さんがおっしゃるような影がすでにもうできつつあるような気も。丸の内仲通りの彫刻も、街中にあるアートとしてはかなり面白いし

池田「街を、古いものや影の部分も含めて自分たちで使っていく、という考えはヨーロッパでは普通のような気がします。新しいものを与えられてそれを消費するだけでは街は育たないと思いますし、今あるものをどうやって使うか、それも遊び場としての場所を確保して使っていく、ということが大切なのではないでしょうか。展覧会にも同じようなことが言えて、100%理解できるように作られた展覧会で、面白い展覧会はほとんどありません。もちろん基本的なコンセプトを伝えることは必要ですが、観る側が考えられる余地、遊びの部分があるような作り方をしないと、洗脳のようになってしまいます」

――丸の内をふくむ大手町から有楽町までのエリア(大丸有エリア)は、日本のエリアマネジメントの先駆けで20年以上の歴史がある。地域の人たちが自分たちでこの街をどうするかをすごく考えている全国でもユニークな場所ですが、その点は美術館の活動に影響しますか

池田「そうですね。会社のエリアマネジメントと公共性を基本に据える美術館というのは、ミッションにおいて異なる部分もありますが、お互いにコミュニケーションをとりながら、なんらかの形で地域に貢献する展覧会やそれ以外の活動をやっていければ、と思います」

――三菱一号館美術館自体が、丸の内の開発にとって非常に歴史的なものですね。建物自体は復元ですが、美術館としてはあり得ない、極めて展示しにくい間取りを持っています。そういう“箱”としての印象は?

池田「やはり何と言っても美術館建物が印象的ですね。新しいビル街の中に19世紀の様式を持つレンガ造りの建物があるコントラストはユニークですし、建物それ自体が歴史的な時空を繋ぐような存在でもありますよね。だからこそ、丸の内のランドマークでありえるし、それによって認知度が上がっているのも事実だと思います。
 美術館としての歴史はまだ10年余りしかありませんが、この建物があることによって、自分たちの活動の指針として、オリジナルの『三菱一号館』が建設された歴史的背景やその時代の芸術の在り方といったものをある程度下敷きにできたのは、とても幸運だったと思います。何もない更地からのスタートだったら、何から始めていいかわからないといった感じだったでしょうから」

1894年に造られた三菱一号館は老朽化のため1968年に解体されたが、2009年に復元、翌年三菱一号館美術館として開館した

――もう100年ぐらいあるような感じですけどね

池田「そうですね。だから、この建物は本当に大事にしなければいけないと思います。もしそこからかけ離れたようなことをするのであれば、きちんと理由付けを行って、両方をブリッジするような形を模索することが必要です」

――もともとがオフィスビルで、暖炉もあるような建て付けの中で展示を行うのは、大変? それとも面白い?

池田「どちらも、ですね。ただ、これまではわりと素直な使い方しかしてきていないように思います。やりようは色々ありますし、暖炉も邪魔だったら隠せばいい、と私は考えます。隠したうえでうまく展示できればいいですし、暖炉があった方が展示のコンセプトに合うのであれば、うまく使えばいい。展示室を使う側の柔軟性にも因るので、その可動性については今後高めていきたいですね。制約的な間取りを逆手にとるぐらいが理想です」

――実に面白い

池田「ただし、天井高や間口の問題で物理的に入らないものや不可能な施工はあります。そういった制約は受け入れざるをえません」

話を聞くうちに、展示方法に物理以外の「制約」はないのだなとワクワクしてきた

コレクションを活かして
学芸員の育成も

――三菱一号館美術館のコレクションについてはどう思われますか?

池田「コレクションがあって出発した美術館ではないので、現時点でそれほど多くの収蔵品があるわけではありません。言い換えれば、これからコレクションをどうしていくかというのは今後の大きな課題です。収蔵品を増やすのか、増やすのであればどういう増やし方をするのか。予算についても課題として考えていかなければいけません。
 コレクション、言い換えれば作品の収集活動は、基本的に展覧会活動とリンクしています。三菱一号館美術館でも、トゥールーズ=ロートレックやフェリックス・ヴァロットンなどは、作品収集と展覧会活動が繋がっていて、その二つが両輪になっています。ほかにもジャポニスムに関連した作品・資料群を所蔵していますが、それらをどのように育てていくのか、新たな領域を開拓する可否も含めてこれから考えていきます」

フェリックス・ヴァロットン《公園、夕暮れ》 1895年 技法・素材:油彩、厚紙 18.5 x 48.5cm 三菱一号館美術館

――今回の休館は「リニューアルではなくメンテナンス」ということですが、お部屋が2つ増えてレクチャールームができるとか

池田「部屋を増設するのではなく、これまで別のことに使っていた部屋の用途を変更するという形です。そのひとつが『小展示室』です。当館の所蔵作品紹介の場所という新たな機能だけではなく、学芸員たちが自分のアイデアを試すことができる場所であり、キュレーターとしてスキルを上げていく場所であることを目指しています。つまりは人材育成の場でもあります。
 もうひとつが多目的室『Espace(エスパス)1894』です。ここでは、レクチャーやワークショップ、インタラクティブなイベントなどを開催する予定です。美術館での活動を多様化して、アクセス可能性を増やすことが目的で、それによって美術館それ自体だけではなく、周辺地域が活性化していけばいいなと思っています」

学芸員人生のスタートは
究極の二択だった

――池田さんが美術の世界に携わってこられたヒストリーやターニングポイントを教えてください。まずご出身は大阪で、大阪大学大学院を出られて京都国立近代美術館(京近美)、国立西洋美術館に勤められましたが、第1のターニングポイントは京近美への就職ですか

池田「そうですね。なので、よく訊かれるのが、どうやったら学芸員になれますか、ということなんですが、実はそもそも学芸員を目指していたわけではないんです」

――そうなんですか!?

池田「はい、結果的にこの仕事に向いているなとは思うようになりましたが。そもそも大学・大学院に10年もいると、高学歴を通り越して過剰学歴のような感じで、普通に就職できるところがなくなって、大学の研究者になるか、美術館の学芸員になるかしかなかったんです」

――今でいう、ポスドク(博士研究員)問題ですね

池田「二択しか選択の余地がなかったので、どちらか話が先に来た方に進もうと考えていました。私は、大阪外国語大学(現:大阪大学外国語学部)でドイツ語とドイツ学を勉強して、その後美学・美術史を学ぶために大阪大学大学院に進学しました。研究対象がパウル・クレーだったので、在学中にベルン(スイス)に留学しましたが、一年間だけだったので、一旦帰国して改めて奨学金をとって博士論文執筆のためにスイスに戻ろうと思っていました。
 その帰国中に、京近美で西洋近代美術専門の研究員の公募があって、当時の阪大の担当教官に勧められて受験したところ、運良く合格したわけです。10年以上も大学に残って研究していると、なんだか社会性がなくなりそうな感覚もあって、留学継続ではなく就職を選びました。流れに身を任せていて学芸員になった、というスタートです」

――京近美って、独特なイメージがありますし、コレクションも面白いですね

池田「京近美は、1963年に東京国立近代美術館の分館として開館しました(独立したのは1967年)。そういう出自もあって、東京との関係性も含めて向き合わないといけないものが多くて、そのたびに自分たちは何者なのか、何者であるべきなのか、ということを常に考えている美術館でしたね。京都市の強い要望で開館に至ったという経緯もあって、国立美術館ではありますが、地元京都からの期待値も高いですし。特に、作家やその遺族からの、作品・資料の寄贈申し入れが非常に多いです。企画展に加えてコレクション展を開催し、作品の貸出件数も多く、寄贈された作品・資料群の整理や紹介もやっていく、働いていて日本で一番忙しい美術館のように思えました」

――そうなんですか

池田「展覧会企画を含めて作品を扱える学芸員数は、学芸課長を除けば、三菱一号館美術館と同じですからね。それであれだけの仕事量をこなしているので」

――しかも、あんなにカタログに凝ってしまって。京近美のカタログは僕の宝物です

池田「アホですよね、みんな(笑)」

――京近美は、いわゆる明治以降の京都画壇から、大正・昭和初期の前衛芸術、それに加えて現代美術など、先鋭化した形の芸術運動をよく拾って紹介されているのがすごい

池田「それは、やらなきゃいけないという気持ちですね。日本の近代美術史は東京中心に記述されてしまう傾向がありますが、美術は東京だけで展開したわけじゃない。京都の美術館として、政治的にいわゆる正史とされるものに対して、常にカウンターを提示するという使命感のようなものがあります。江戸と東京は、美術史において政治的に断絶していますが、京都では江戸と明治がゆるやかに連続しているというのも大きな違いです。もうひとつの違いとして、異なるジャンルの作家たち、たとえば絵描きと陶芸家などが、横並びで一緒に仕事をしている、というのがあります。ジャンル縦割りの歴史記述だと、そういったハイブリッドさがすべて抜け落ちてしまう。そのことに対する危機感というのは、かなり大きくありましたね」

――アートの歴史も、京都にフォーカスしたことによってすごく立体的に見えますね

「あるけどない」「ないけどある」
再開館記念展覧会のテーマ『不在』が面白い

ロートレック作品をあしらった仮囲いは7月まで観られる

――池田さんが三菱一号館美術館に着任されてから最初の展覧会である再開館記念展はトゥールーズ=ロートレックとソフィ・カル。ロートレックは十八番ですが、ソフィ・カルをされるとは! 三菱一号館で現存作家を採り上げるのは初めてでは?

池田「はい、初めてです」

――「不在」というテーマの意味を教えてください

池田「この言葉は、展覧会の担当学芸員たちとソフィ・カルさんとの対話から出てきたものです。彼女がこの美術館で大いに関心を抱いたのが、オディロン・ルドンの《グラン・ブーケ(大きな花束)》をめぐる状況だったんですね。この作品は、カンバス に顔料が載っているだけのパステル画としては規格外な大きさで、作品保全の観点から移動がままならないこと、そしてその大きさ故に美術館の収蔵庫での保管が難しいことから、実は常に展示室にあります。あるんだけれど、その前に仮設の壁を立てて、通常は見えないようにしている。一号館訪問時にソフィ・カルさんは、この説明に大いに関心を持たれたわけです。〈あるのに、ない〉、〈ないのに、ある〉と」

オディロン・ルドン《グラン・ブーケ(大きな花束)》 1901年 パステル、カンヴァス 248.3 x 162.9cm 三菱一号館美術館

――めちゃくちゃ面白い!

池田「それで一号館の《グラン・ブーケ》をテーマに作品を作られて、そのお披露目を2020年の開館10周年記念展で行うはずが、新型コロナウイルス感染症の拡大でソフィ・カルさんの来日が実現せず、展示もできなくなった。再開館記念展で、ようやくそれが実現するわけです。
 またコロナ禍の最中、この〈不在〉という言葉はとてもリアルでしたよね。美術館はそこにあるけど開いていない、または何も展示されていない。作品は展示されているけど鑑賞はできない、つまり来館者はいない。言ってみれば、〈ある、なし〉〈なし、ある〉をリアルに行ったり来たりしていたわけです。〈不在〉が可視化され経験値化されたことは、自分たちの足元を改めて考えるきっかけにもなりました。つまりそれは〈存在〉を改めて考えることでもあって、決してネガティヴなことではないですよね。
 ソフィ・カルさんから導き出された〈不在〉という言葉に、一号館のコレクションの核になっているトゥールーズ=ロートレックを掛け合わせることは、一号館自身の存在意義への問いかけでもあると思いますが、初めての試みなので、どういう効果が生まれるかはやってみたいとわからない、というのが正直なところです。でも、観に来られる方々にとっても、三菱一号館について色々と何かを考えるきっかけになれば、と思っています」

――どういう風に展示するかはもう決まっているんですか? トゥールーズ=ロートレックとソフィ・カルがクロスオーバーするところはありますか?

池田「展示図面はまだ完全にフィックスしていませんが、二人の作品は基本的に分けて展示する予定です。ただ、断絶するのではなく、何らかの連続性は持たせておきたいですね。ただもちろん、ソフィ・カルさんの部分については、作品選定や展示方法について彼女自身の意向を最大限尊重するようにしています」

――ソフィ・カル作品とルドン《グラン・ブーケ》は並べて展示されますか?

池田「その点についてはまだ協議中です。ただソフィ・カルさんは、ルドン作品が『あるけど、見えない』ことに関心を持たれていたので、もし作品を見せるのなら、何らかの仕掛けは必要かもしれません」

――たしかに。でもどういう展示になるのかワクワクしますね。「不在」というテーマも、これまでのテーマと比べるとすごく抽象的で興味深い

池田「そうですね。これまでにないコンセプトかもしれません。19世紀末の館に現代の息吹を吹き込む感じでしょうか」

時代の変化で美術館が抱える
問題と解決策は現代アート?

――池田さんが一時期いらっしゃった国立西洋美術館(西美)も、現在かなり挑戦的な現代作家を採り上げてますね

池田「日本で西洋美術だけを扱う美術館の存在意義という問題ですね。昔は泰西名画を紹介することが啓蒙的意味を持っていたと思いますが、今はどうなのか。また、そのような展覧会の観客は年配の方が主流で、来館者の高齢化も問題となっていました」

――たしかにそうですね

池田「常設展には修学旅行生などがいますが、企画展の来館者は本当に年齢層が高く、若い人たちが西美に来ない。小中学生か高齢者で、その間の人たちがいないというのは結構大きな問題です。その問題意識は西美の中にもありましたし、特に田中館長が20世紀美術を専門にしていらっしゃるというのもあって、新しい試みに繋がったのではないでしょうか。
 三菱一号館美術館も19・20世紀の西洋近代美術と同時代の日本を取り扱っているので、それを見直すためには何らかの仕掛けが必要になります。同様の意識は多くの美術館にあると思います」

――同じく泰西名画の殿堂みたいだったポーラ美術館も、ここ何年かずっと現代アートとコラボして庭園を使うなどかなり攻めたことをやっていますね

池田「アーティゾン美術館さんもそうですね。ただ一号館はいかんせん展示空間が限定的なので、アーティゾンさんやポーラさんのように、大々的に現代美術を採り上げて展示するというのは物理的に不可能です。だからそこは少し知恵を絞ってやり方を考えないといけないですね」

――まさに美術館というものの歴史や流れの転換点で、池田さんが新館長になられたことに意味がある

池田「もといた京近美は、色んなジャンルを等価に取り扱うハイブリッドが極まっているような美術館だったので、19世紀末の作品と現代美術を組み合わせることにあまり違和感はありません。この美術館にとってはすごく新鮮なことだと思いますが、私自身にとっては普通のことをやっているという感覚に近いです。
 先ほどは、丸の内で働く人たちがメインターゲットというお話しをしましたが、東京駅に近い三菱一号館美術館は、全国からのアクセスも抜群です。東京に来て、新幹線の発車まであと一時間あるけど、という時にも来られます。これからは、展覧会だけではなく、インタラクティブなイベントやワークショップなど新しいことにもやっていくつもりですので、是非気軽に立ち寄っていただきたいと思います」

 三菱一号館美術館の3代目館長は、キラキラした丸の内はちょっと苦手というコテコテの関西人・池田さん。パウル・クレーの研究を原点に、大阪外大(当時)から阪大へ、そしてスイスに留学。スイスで博士号を取るはずが、絶妙のタイミングで京都国立近代美術館に就職、途中国立西洋美術館にも勤務し、三菱一号館美術館の新館長に就任した。

 19世紀の建築様式をもつ三菱一号館美術館が初めての現代アート展示に挑む。展示しにくい間取りだって逆に活かしてしまえばいい。建築様式に合わせて、その時代の作品の紹介だけに固執する必要もない。ハイブリッドな美術館の経験があるから、普通のことだという池田さんのチャレンジは観覧者からすれば新しい。池田さんを新館長に迎えて変わっていくだろう美術館の今後の活動に注目だ。

池田祐子(いけだ・ゆうこ)●三菱一号館美術館館長。大阪大学大学院文学研究科博士課程後期終了後、京都国立近代美術館・国立西洋美術館主任研究員を経て、2019 年 4 月から京都国立近代美術館学芸課長、2022年7月から副館長を2024年3月まで務めた。専門はドイツ(語圏)近代美術・デザイン史。三菱一号館美術館では、2022年に開催した「上野リチ:ウィーンからきたデザイン・ファンタジー」展を監修した

聞き手=玉置泰紀(たまき・やすのり)●1961年生まれ、大阪府出身。株式会社角川アスキー総合研究所・戦略推進室。丸の内LOVEWalker総編集長。国際大学GLOCOM客員研究員。一般社団法人メタ観光推進機構理事。京都市埋蔵文化財研究所理事。大阪府日本万国博覧会記念公園運営審議会会長代行。産経新聞〜福武書店〜角川4誌編集長

■関連サイト

現在設備入替および建物の設備メンテナンスにより休館中。
再開館の2024年11月23日から2025年1月26日まで「三菱一号館美術館 再開館記念『不在』―ソフィ・カルとトゥールーズ=ロートレック」展を開催予定

この連載の記事