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アキバを作った“永遠の店長” ぷらっとホーム 本多弘男会長

“本多のオヤジ”のこと ――店舗の人 本多会長――

2008年07月17日 04時00分更新

文● 塩田紳ニ

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 先般亡くなられた本多会長の話をお聞きするため、筆者は秋葉原へ行った。改札を出るとそこには警察官の姿があった。6月8日のあんな事件のあとなので、しかたがないことだが、どうにもやりきれない感じがある。本多会長のことを書くとすれば、秋葉原について触れないわけにはいかない。秋葉原こそ、本多会長がいた場所だったからである。

 筆者が、本多会長に出会ったのは1976~77年の頃である。当時、本多会長は、ラジオデパートの地下にある「本多通商」という店をやっていた。この頃の秋葉原は、大きく変わりつつある時期だった。それは、当時マイコンと呼ばれていたマイクロプロセッサやその関連の商品が秋葉原で大きく扱われはじめ、それまでと違った活気が出てきたからである。

店舗の本多会長

本多弘男会長 店舗にて

 マイコン登場以前、秋葉原は、オーディオと無線、そして自作派の街だった。もちろん一般的には、家電の街だったのだが、家電を買う一般客とは別に、いまでいう高級オーディオやアマチュア無線、そして電子工作を趣味やビジネスとする人たちの街だった。なので、いまのようにはんだ付けもできない青少年がうろうろとするようなところではなかったのである。そのかわり、なにかひなびたような、のんびりとした雰囲気があった。

 マイコンが登場し、コンピュータを一般人でも作れると知った一部のユーザーは、もともとは秋葉原に足繁く通うような人だった。しかし、NECの発売したTK-80がブームとなり、一般雑誌などでも取り上げられるようになると、さらに人が集まるようになった。かつて、電子工作を趣味にしていたエンジニアが、マイコンの登場で再び電子工作に戻ってくるようになったし、新たにコンピュータに惹かれてやってきた人たちもいた。そして、CPUやメモリ、海外製のトレーニングキットを扱う店も増えてきた。当時のマイコンは、オーディオや無線に匹敵する趣味であり、ビジネスだったのである。

 1976年から1977年は、そんな感じで、秋葉原にある種の活気が出てきた頃だ。筆者は、以前より、本多通商なる店があることは知っていたが、自分が立ち寄るような店とは思っていなかった。しかし、マイコンが登場し、ワンボードマイコンや、マイコンを使ったコンピュータのシステムが出てくるようになると、本多通商は、その中でも変わったものを扱う店として輝き始めた。それで、筆者も秋葉原に行くたびに店をのぞくようになったのである。当時、インターネットもパソコン通信もなく、情報がすべて雑誌だった頃、秋葉原の本屋だけが創刊間もない月刊ASCII(月刊アスキー)やI/O(アイオー)を扱っていた。それを買うために高校生だった筆者は、毎月のように秋葉原を訪れるようになった。東京ラジオデパート2階の電波堂でASCIIとI/Oを買い、そのあと本多通商や亜土電子(のちにT・ZONEとなる)、そして駅前のラジオ会館でBit-INNや関東電子なんかをのぞいて帰るというのがお決まりのコースだった。

 金のない高校生なので、本多通商でときたまにしか買い物をすることがなかったが、何回目かに、「君はときどき買いに来てくれるねぇ」と声を掛けてくれたのが本多会長とのつきあいの始まりである。それから、ときどきではあったが買い物をするたびに、声を掛けられた。

 それから、30年の月日が流れ、6月6日に本多会長が亡くなったという。8日にあんな事件が秋葉原で起こり、前後して会長が亡くなったことを知った。自分としては、秋葉原の1つの時代が終わったとしか思えない。

次ページ「本多通商からぷらっとホームへ」に続く

本多弘男会長「お別れの会」のお知らせ

本多弘男会長への「お別れの会」が、7月28日月曜日、午前11時30分から午後1時まで、東京都千代田区丸の内1-1-1 パレスホテルの2階「ローズルーム」にて行われます。ぷらっとホームによれば、香典、供花、供物は辞退とのこと。また、服装は平服でよいそうです。

詳しくは、ぷらっとホームが公開しているPDFをご覧ください。

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