業界に痕跡を残して消えたメーカー 格安モデムが秋葉原でも大量に売られたSupra

文●大原雄介(http://www.yusuke-ohara.com/) 編集●北村/ASCII.jp

2017年01月30日 11時00分

ネットワークつながりというと語弊があるかもしれないが、広義にはネットワーク企業としていいと思うのが今回ご紹介するSupra Corporation。ちなみに途中からSupra Inc.という社名に切り替わっている。

おそらく日本でも、1992~1993年頃にAT互換機を使っていたユーザーには懐かしい社名ではないかと思う。というのは秋葉原にこのSupraが大量に入荷した時があったからだ。

秋葉原でも並行輸入品が大量に売られた格安モデムSupraModem 2400

PCショップから機器メーカーに大躍進
アタリショックで倒産寸前に

Supra Corporationの前身はMPP(Microbits Peripheral Products)という。同店は1981年、オレゴン州アルバニーで立ち上げられた。共同出資者はJohn Wiley氏とAlan Ackerman氏の2人だが、2人はこの年高校を卒業したばかりである。

大学入学までのわずかな期間を使い、2人は自転車店の裏手に10フィート四方のスペースを借り、そこで小さなコンピューターショップとしてMPPが生まれた形だ。

そんな小さな店だったにも関わらず売上が急速に伸びた結果、1981年秋に2人が大学に入る頃には自転車店を奥に追いやり、MPPが手前に移動するほどだった。

ただ大学とショップ経営は両立できないので、新たにマネージャーを雇って店を任せたところ、程なく売上げが激減して店を畳む羽目になった。

これでへこたれない2人は、1982年のWCCF(West Coast Computer Faire)で6ftのスペースを借りて、彼らがデザインしたAtari向けのプリンターを展示する。1982年のWCCFというのは、WCCF史上もっとも盛況だった時でもあり、これもあってか展示中にトータルで8万ドル分以上の注文を受けるに至る。

ここで2人はコンピューターショップから機器の製造メーカーのビジネスに転換することを決断した。言うまでもなくターゲットはAtariである。そもそもAtari用のプリンターでビジネスを始めたのだからこれは当然であったが、そのAtariの市場は1983年末の「アタリショック」で猛烈な勢いで縮小する。

このあたりの話は連載第358回で解説したとおりだ。ちなみにアタリショックを助長したものの1つに、史上最悪のゲームの呼び声も高い“E.T.”の存在があるとも言われているが、本稿には関係ないのでおいておく。

当然アタリショックにより、MPPのビジネスも大打撃を受けることになり、一時は倒産寸前まで追い込まれつつも、なんとか生き延びることに成功する。Atari向けの既存の製品も引き続き売り続けていたらしいが、ビジネスのターゲットをAmigaに切り替える。

1987年の時点で、同社の主な製品ラインナップは以下のとおり。

Amiga 500向け
Power PC Board MS-DOSのエミュレーターボード
SupraTurbo 28 MC68000を28MHzで動作させるアクセラレーター
SupraRam 500 1/2MBのクロック付き拡張RAM
SupraRam 500RX 8MBのRAM拡張ボード
SupraDrive 1MB FDD
SupraDrive 500XP HDD及び拡張RAMボード
Amiga 2000向け
SupraTurbo 28 MC68000を28MHzで動作させるアクセラレーター
SupraDrive Hard Disk 52MBまたは120MB
WordSync SCSI I/F
SupraRam 2000 8MBのRAM拡張ボード

正確な日付が不明なのだが、この1987年までに社名はSupra Corporationに変わっている。この社名の由来も不明なのだが、当時の会社の所在地(7101 Supra Drive SW, Albany, OR 97321)にちなんだのではないかという気がする。

業界標準の3分の1の価格でモデムを発売
モデムメーカーとして一躍有名に

こうしたAmiga向けの製品ラインナップを拡充する一方で、同じ1987年に同社が投入した新しい製品がモデムである。

1987年といえば、CIS(CompuServe Information Services)が全米でサービスを行なっており、AOL(American OnLine)の前身にあたるQuantum Computer Servicesもサービスを提供していた。もちろん草の根BBSの類も盛んだった時期だ。

日本と異なりアメリカの場合、Local Call(日本で言うところの市内通話に近い)はいくらつないでいても定額制のプランがあったため、それこそ電話が複数回線あれば、そのうち1回線を常時つなぎっぱなしにすることもできた。

したがって、電話回線を使ってオンラインサービスやBBSにつなぐのはごく一般的になっており、その際にはモデムが必要というわけだ。この市場、当時はHayes Microcomputer Productsの製品がデファクトスタンダードになっていた。

同社が1981年に投入した300baudの“SmartModem”は広く使われており、この“SmartModem”で採用されたHayes command setというモデム用のコマンド体系は、その後どんどん拡張されながら業界標準となった。

Hayesは300baudに続き、1982年には1200baudのSmartmodem 1200を699ドルで発売、1985年には2400baudに対応したSmartmodem 2400を549ドルで発売する。このSmartmodem 2400は1987年の時点でだいたい500ドル前後まで価格が下がっていたが、とはいえまだ高価な製品だった。

Supra Corporationは1987年、このSmartmodem 2400と完全互換なSupraModem 2400を、たった179ドルで売り出す。

SupraModem 2400。デザインそのものもHayesのSmartModemに良く似ていた。明確な違いといえば、フロントに電源スイッチがあるほか、LEDが8つ(Hayesは7つ)付いてる程度である

機能が完全互換で価格が3分の1だったら、売れないほうがおかしい。当時の表現では“SupraModems sold like hotcakes.”(SupraModemはホットケーキ並みに売れた)そうで、あっという間に同社はモデムメーカーとして一躍有名になる。

この後、元気がなくなっていったHayesを尻目に、Supraは急速に業績を伸ばしていく。もっとも競合がないわけでなく、このあたりからUSR(U.S.Robotics)やTelebitといったメーカーが次第に勢力を伸ばしていった。

特に1986年にUSRがHST(High Speed Transfer)プロトコルを投入、これに対抗すべくTelebitも独自のプロトコルを採用したTrailBlazerシリーズを投入して、高価格帯で競っていた。

どのくらい高価だったかというと、USRが1986年にリリースしたCourier HSTは995ドル、Telebitの19200baudをサポートしたT2500という製品は当初1695ドルという価格がついており、直接Supraの市場とはぶつからなかったが、いずれは競合になることは明白であった。

ちなみにUSRは同じ1986年に、低価格向けの2500baudのCourier 2400を699ドルから599ドルに値下げしているが、これはSupraModem 2400の敵ではなかった。

モデムチップメーカーのRockwellと独占契約
格安モデムが秋葉原でも大量に売られる

このあたりから、モデムがどんな通信規格に対応しているかが次第に重要になってくる。このモデムの通信規格そのものはITU-T(国際電信電話諮問委員会)が標準化作業を行なっているが、標準化されても実際には使われなかった規格もわりと多い。

広く一般的に使われたという意味では、300~56000といったボーレートになるが、それぞれ以下のような関係になる。

モデムの速度と通信規格の関係
スピード(baud) 規格(勧告案)
300 V.21
1200 V.22
2400 V.22bis
9600 V.32
14400 V.32bis/V.33
28800 V.34
33600 V.34bis(後にV.34として統合)
56000 V.90/V.92/(X2)

これらの規格は、どちらかというと先行して技術開発したメーカーがその技術を標準化案として提案し、ついでに先行発売して既成事実を作り、先行者利益を獲得するので、その意味ではそうした新技術の開発ができる体力を持ったメーカーが有利となりやすい。

Supraはこの点でやや競合メーカーに遅れを取っていたのはやむをえないところだ。ところがSupra Corporationにとって幸いだったことに、この急速に進化するモデムの市場を狙っていたのはモデムメーカーだけではなかったことだ。

Rockwell Internationalの半導体部門(現在はその一部がConexantとして残っている)もこのモデムチップの市場に目をつけており、自社でモデムチップを開発していた。

SupraはこのRockwellと独占契約を結び、RockwellのV.32及びV.32bisのチップを利用したSupra FAXModem V.32とSupra FAXModem 14400をそれぞれ299ドル、399ドルで1991年に発売する。

Supra FAXModem V.32。LEDの代わりに7セグメント2桁表示なのが新しい。ちなみにこの後、低価格版として7セグメントLEDを省き、先の写真と似たようなLED配置となるSupra FAXModem 14400LCも出荷された

秋葉原などに入ってきたのは、Supra FAXModem V.32のほうで、当時5万円を切った価格だったと記憶している。この当時の為替レートは1ドルが101~126円と変動があった年だが、ショップによる並行輸入だった(Supraはついに日本に代理店を置かなかった)ため、この程度のマージンが載るのは妥当な範囲だろう。

ちなみに1993年当時の製品を調べてみると、インテグランのポケット型9600baudモデムである「通信ポコ9600」が6万8000円となっていた。AIWAのPV-A96V5などの据え置き型モデムはもう少し高価だったと記憶しており、Supra FAXModemの価格の安さが際立っていた。

もっともまだPSEマークもなければ、技適マークの取得にもうるさくない時代だったためできた技でもあるが、付属していたACアダプターがUSのものそのままで、「長時間使ってるとまずACアダプターが壊れる」と言われており、事実筆者が所有していたものも壊れた。確か本体にAC9Vを入れる不思議な仕様だった記憶がある。

V.34対応モデムの開発が遅れ
価格競争に敗れる

話を戻すと、これによりSupraは高速モデムの市場でもUSRなどと互角に争えるポジションを固めることができた。ただ不幸なことに、この後が続かなかった。

Rockwell Internationalは、V.34のチップの開発に乗り出すが、これが予想外に時間を要し、その一方でUSRを含む他のメーカーはV.34対応のモデムを1993年中から投入し始める。

ちなみに1993年はまだV.34そのものの策定が終わってなかったので、例えばUSRのCourier V.Everythingは登場時に“Courier V.34 Ready”というロゴを付けて売っていた。

Courierの場合はDSPベースのモデムだったので、ファームウェアのアップデートで仕様の差を吸収できる構造だった。したがって見切り発車で製品をリリース、あとからアップデートで正式対応という、この業界でよく聞くパターンが行なわれたわけだ。

それでもSupraもなんとか1994年中にSupra FaxModem 28800をリリース、さらに同年にはSupra Voice Modemも出荷する。これは要するに電話を使った自動音声応答システムなどに使われるもので、「XXXにありがとうございます。○○に御用の方は1を、△△に御用の方は2を押してください」といったシステムを作る際に使われるものだ。

ただなにぶん出遅れたうえ、28800baud以降では業界全体の価格競争が激しくなった。なんのことはない、Supraが構築した「半導体メーカーの作るモデムチップをそのまま使うことで、安くモデムを提供する」というビジネスモデルを他社も真似ただけの話であるが、この結果としてSupraの売れ行きは急速に悪化した。

結局同社は1995年、Diamond Multimediaに買収され、既存の製品ラインはDiamond Supraとしてそのまま継続販売されるに至る。

幸いというかどうかわからないが、現在もこのモデム製品のラインナップはDiamond SupraMAXとして残っており、ブランドだけは維持された格好であるが、果たして現在の顧客の何%くらいがそもそものSupraというメーカーを記憶しているか、はなはだ疑問である。

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