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第4回 和歌山編

紀州塗500年の変遷とWebの可能性

漆器の「四大産地」紀州をWebで発展させるには?

2010年01月19日 00時00分更新

文● Web Professional編集部

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紀州漆器の由来と500年間の変遷

 会津塗(福島県)、越前塗(福井県)、山中塗(石川県)に紀州漆器を産する海南(和歌山県)が日本の四大漆器産地だという。

 漆器に縁がなくても、「根来塗」という言葉は聞いたことがあるだろう。使い込むうちに上塗りの朱が擦れて地塗りの黒漆が顔を出し、模様として浮かび上がるのが特徴で、江戸時代から「根来もの」として人気があったという。

典型的な根来塗の煮物椀
典型的な根来塗の煮物椀

 根来塗の発祥の地は、現在の和歌山県岩出市にある根来寺だ。平安時代後期、「空海(弘法大師)以来」と言われ、権勢を誇った高僧である覚鑁が反対勢力に高野山を追われる事件があった。覚鑁一門が新たな本拠地としたのが根来寺一帯で、最盛期の室町末期には寺領72万石。数百の坊舎(僧の住む家)があり、根来衆とよばれる僧兵1万を要する軍事集団でもあった。根来衆は種子島から火縄銃1挺を早期に入手し、産地となった雑賀衆から鉄砲を大量に購入。一時は雑賀衆とともに織田信長に協力するが、石山合戦では石山本願寺側につき、織田勢を苦しめた。

 根来塗の始まりは、数千人の僧徒たちの日用什器である。数千の僧や1万と言われる僧兵の生活用品として漆器が生産された。僧侶たちは相当位が高く高級な漆器を使用していたと言われ、下塗りに黒色、上塗りが朱色の漆器だったのが使い込むうちに上塗りが擦れ落ちてしまい黒い部分が出てきた。その擦れた模様を面白く思い、あえて削り落とす加工を施したのが現在の根来塗というわけだ。

 その後、この元祖根来塗は根来衆と運命をともにする。1585年(天正13年)、豊臣秀吉による根来攻めで、根来寺は大師堂、大塔など一部を除いて灰燼に帰す。数多くいたと思われる工人たちは四散し、ある者は輪島や薩摩に行き着いて、根来塗の技法を伝えたという。近隣の黒江に落ち着いた者が始めたのが紀州塗というわけで、根来塗は、近代漆器のルーツとも言われている。

 江戸時代中期には紀州藩に庇護され、紀州漆器として栄えたという。江戸時代から続く漆器問屋も何件か残っており、1830年(天保元年)創業の角田清兵衛商店7代目の角田卓司氏は「うちはこのあたりでも1番か2番目に古い。大正時代の米騒動で焼き討ちにあい、貴重な資料が焼失してしまったが、史料によっては江戸時代初めまでさかのぼれる」という。

「7代目清兵衛」の角田卓司氏
「7代目清兵衛」の角田卓司氏

 2代目清兵衛の時には江戸に店舗も構えるほど紀州塗が栄えた。明治維新で紀州藩が廃された後、一時的に衰退するかに見えたものの、海外貿易により危機を脱し、「根来もの」は海外の好事家にも好まれたという。その後も沈金彫(漆を塗った表面に文様を毛彫りし、凹面に金箔や金粉を押し込む技法)の技術を導入したり、蒔絵(塗った漆が乾かないうちに金粉などを蒔いて模様を描く技法)を改良するために京都から蒔絵師を招へいしたりして、漆器の技術革新をリードしたのも黒江の紀州漆器職人たちだ。

 大正時代になってからも進取の気風は失われなかった。天道塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が導入され、分業や大量生産により、他の漆器にはない大衆向け製品の産地として発展したのだ。技術革新は戦後も続き、プラスチック素材の採用、カシュー塗やウレタン塗など、合成塗料の吹き付け塗装、蒔絵のシルクスクリーン印刷技術など、素材と製造方法に科学技術を取り入れ、昭和53年には通商産業省から紀州漆器が伝統工芸品の指定を受けた。

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