「岩国」
このゴツゴツとした地名が日本史に初めて現れるのは万葉集である。
周防在 磐國山乎 将超日者 手向好為与 荒其道
(周防なる 磐国山を越えむ日は 手向けよくせよ 荒しその道)
Webのユーザーは都市部の方が多いので、このページを読んでいるのは、東京、神奈川、名古屋、大阪のいずれか、といえば10人中、8、9人は当たりのはずだ。となると、この歌の景色とは方向がまるで逆になる。周防(山口県東南部の旧名)にある磐国山を越えて行く先は奈良の都、平城京である。
天平元年(730年)。大宰帥(大宰府の長官)だった大伴旅人が病に倒れ、聖武天皇が遺言を聞き取るために駅使を派遣した。ところが病状が回復し、京に帰る駅使一行を見送るために夷守の駅家(福岡県糟屋郡粕屋町)で開かれた宴会で大伴旅人の部下、少典山口忌寸若麻呂が詠んだのがこの歌だ。京では前年に長屋王が誅殺され、聖武天皇と藤原4兄弟のパワーゲームが繰り広げられている。大宰府に左遷された大伴旅人とその配下たちが、周防を超えて京に戻る一行に、道中お気を付けて、そしてその先の京に戻ってもお気を付けください、の意を込めて詠んだのだろう。奈良の都といっても、天平15年(743年)に建立の詔が発布される大仏はまだなく、聖武政権を支える吉備真備、玄昉という奈良時代後期のスパースターは、唐に留学中の時代である。