10年目の栄光! 谷口信輝、苦難のチャンピオンロード
文●末岡大祐/ASCII.jp編集部 ●写真/加藤智充、編集部
2012年04月14日 12時00分
峠の走り屋から日本最高峰レースの王者になった男
GSRの顔・番場 琢選手のあとは、谷口信輝選手の登場だ。2011年に初音ミクGTプロジェクトのチャンピオンを牽引した存在といえば、NOBさんこと谷口選手! ドリフトやレースを見ている人なら、まず知らない人はいないというドライバーだが、痛車からレースに入ったASCII.jp読者の中にはどういう人なのか詳しくない人もいるかと思う。
今回のインタビューでは、谷口選手の人となりを知ってもらうために、自らのドライバー人生を振り返りつつ、去年の勝因、今年の意気込みを語ってもらった。
2輪レースで勝ちまくった広島時代
4輪への転機となったハチロクとドリフト
──まず、谷口選手が自動車に興味を持ち始めたのはいつからなんでしょうか?
谷口信輝選手(以下、谷口) 最初はBMXって自転車に夢中だったんですよ。小学5年生くらいから中学校の終わりくらいまでBMX少年で。高校に入って16歳になったのと同時にバイクの免許を取って、友達の家がモトクロスをやってたので、一緒にモトクロスをやったりとか、CR125というバイクを安く売ってもらったりとかして、楽しんでましたね。
──バイクはご両親が買ってくれたんですか?
谷口 いや、もともと新聞配達のバイトをやっていたので、それでお金を貯めてバイクを買いました。モトクロスから始めたので、最初はオフロードが好きだったんですけど、峠に走りにいくようになったらヒザを擦る方向(レース)に行って。そこからミニバイクのレースを16歳の終わりくらいから始めて、19歳くらいまでレースに明け暮れていましたね。
──成績はどうだったんですか?
谷口 広島県で勝ちまくってて、トロフィーはいっぱいもらってましたよ(笑)。広島県代表で全国大会に出て日本一になったこともあります。いくつかからプロのお誘いはあったんですよ。カラダひとつでくれば面倒見てやる、みたいな。でも、その頃は生意気にも「レースは趣味でやってるから楽しいんであって、仕事にするとスポンサーやらなんやらで重くなるから」みたいなこと言って断ってたんですが、気がついたらこの状態(GTドライバー)ですよ。
──2輪から4輪への転機は何だったんでしょう。
谷口 普通なら、そのまま大きなバイクにいくと思うんですけど、19歳の終わりくらいかな、トヨタのハチロク(AE86 カローラレビン・スプリンタートレノの愛称)を買って、ドリフトをし始めたんですよ。
──ちなみにそのハチロクはトレノですか、レビンでしたか?
谷口 トレノの3ドアハッチバックで、前期の赤黒モデルでした。グレードはGT-APEXです。これを、友達が働いていたクルマ屋さんから車両価格60万円で売ってもらって。
──60万って安いですね。私の知り合いは数年前ですが、20年落ちを300万で買わされましたが(笑)。
谷口 当時のハチロクなんてそんなもんですよ。デフを組んでもらって+10万で、合計70万くらいでした。そして、20か21歳の頃にビデオオプション主催のドリフト大会に出場したんです。イカ天(いかす走り屋チーム天国)だったっけな。四国の大会だったような気がします。そこで3位になりまして。その1~2年後には全国大会に出場して、これも3位だったんですよ。
──谷口選手のドライバー人生のきっかけがドリフトだったんですね。
谷口 そうですね。そこから、ビデオオプション編集部と繋がりができて、いろんな企画に呼ばれるようになっていきました。広島にいながら、呼ばれたらビデオオプションに出演するということを数年やっていました。で、24歳くらいのときかな? ビデオオプションじゃなくて、ベストモータリングというクルマ媒体があって、その中の「ガンさん(黒沢元治氏)に挑戦」みたいなコーナーに出たときにも“谷口ってヤツが上手いらしい”という話になり、そこからちょくちょくベストモータリングからも仕事のオファーが来るようになったんです。ビデオの企画で東京に呼ばれては広島に帰り、また東京で仕事という生活になっていましたね。
次第に、クルマ雑誌のドライバーの仕事がいいなあ、ベストモータリングのキャスターになりたいなあとか思い始めて、東京に行きたくなって。広島から上京しようと思ったんだけど、祖父がもうだいぶ高齢で寝たきりになってしまったんです。なので、祖父を看取ってから上京しようと決めました。そしたら、かなり長生きして。(祖父の容態が)危ないと言われてから2年くらい経った頃、祖父が亡くなったのをキッカケに上京したわけです。これが27歳の終わり頃ですね。
──それまでは広島でどんなお仕事をしていたんですか?
谷口 いろんな仕事をしていたけど、運送屋さんかクルマ屋さんが多かったね。ビデオの仕事で東京にちょくちょく行っていたので、ある程度時間に融通が効く仕事じゃないとできなかったんですよ。そのかわり、朝早くから働いたりしていたんだけど、仕事が終わったら寝る間を惜しんで峠に行って深夜まで走って、2~3時間寝てそのまま仕事に、という生活サイクルでしたねえ、当時は。
──タフすぎですよ!(笑) そんな生活も終わって上京するワケですが、東京に来てからはすぐに仕事があったんですか?
谷口 いや、当時はまだD1グランプリとかもなかったし、まずはクルマ系の編集部にあいさつ回りをしました。東京出てきたので仕事くださいって。もちろん、最初からそんなに仕事がもらえるはずもなく(笑)、近所でバイトをしながら食いつないでいました。そうこうしているうちに、次第にクルマの仕事も増えてきて、30歳になってようやくレースデビューできたんです。
スーパー耐久、SUPER GTとステップアップ
──レースというのはドリフトとかではなく、サーキットのレースですか?
谷口 そう。2001年からシリーズでレースをやり始めたんです。最初はスーパー耐久のクラスN+のアルテッツァワンメイクでした。RED LINE(オイルメーカー)カラーのクルマで。2002年は同じくスーパー耐久のクラスN+で、織戸クン(織戸 学選手)と組んでADVANアルテッツァに乗ってチャンピオンになり、そして全日本GT選手権(現・SUPER GT)でRE雨宮に乗せてもらいました。パートナーは松本晴彦選手で。
──30歳からとなると、レーシングドライバーとしては遅咲きですよね。周りの人の反応はいかがでしたか?
谷口 咲いてるのかどうかわからないけど(笑)、かなり高齢でスタートしましたよね。いろんな人から「もっと早く上京してたらね」とか言われましたよ。
──GTはRE雨宮さんでデビューだったんですね。スーパー耐久と比べて、レースの違いは感じましたか?
谷口 そうですね。やはりGTのほうがいろんな意味で“大人のレース”という感じがしました。スポンサーだったり、クルマ系のメーカーだったりが集まって、クルマ作りも本格的でピリピリ感が全然違うなと。GTカーのほうが、パワーもコーナリングスピードもあるんですが、スーパー耐久のクラスN+もレーシングカーに近いクルマだったので、最初乗ったときはあまり違和感はなかったかな。でも、GT500クラスの対処方法などで苦労しましたね。あうんのタイミングで抜かせたり抜かせなかったりというのは、経験が必要だと思いましたよ。
──SUPER GTに参戦して、2011年にGSRに移籍してくるまで、印象に残っているレースやチームはありますか?
谷口 基本的にはどのシーズンも印象深いですし、全部明確に覚えてますよ。うれしかったこと、辛かったこと、腹が立ったこととかいろいろありましたし。まあでも、悔しいことが一番多いんですけどね(笑)。例えばRE雨宮号(RX-7)って、なぜかセパン(マレーシア)が得意で富士スピードウェイが苦手なんですけど、2003年はSARS(ウィルス)の流行でセパンがなくなって、苦手な富士が3戦に増えてガックリしたとか。
2004年は坂東(RACING PROJECT BANDOH)に移籍して、青木孝行選手と組んだんですが、これもいろいろありまして。雨宮から坂東へ移籍するって、実はオオゴトなんですよ。ですが、その頃はどうしてもGT500に乗りたかったのでメーカーに直結している坂東を選んだんです。マツダはGT500に出ていませんし。坂東で乗ったセリカは前年度(2003年)は速かったんですが、2004年は無限のNSXとか出てきてそれに山野哲也選手が乗ってるもんだから、段違いに速くて。僕らも速かったんですけどね。
2005年は加藤寛規選手(現・エヴァ紫電ドライバー)と組んで、再びセリカで挑んだんですが、全然勝負にならなくて。加藤選手と組んでいたのに、1勝もできませんでしたからね、この年は。
思い出深いという意味では、やっぱり2002年に初参戦してセパンで初優勝したときは格別でしたね。あのどんちゃん騒ぎは今でも忘れませんよ。セリカのときなんか勝つとスポンサーさんが○○万円をポンっとくれたりね。GTで優勝するってことは、それくらいすごいことなんです。
──日本の最高峰のレースで優勝するって、なかなかできることじゃないですよね。
谷口 なんだけど、去年(2011年)は3勝もしたらチームが勝つことに慣れちゃって(笑)。だんだんトーンダウンしちゃってたよ!
──いやいや、そんなことはないですよ、たぶん(笑)。では、2006年以降はいかがでしたか?
谷口 坂東の次(2006年)にディレクシヴっていうチームに移籍したんですけど、チャンピオン候補だったにもかかわらず、シーズン途中でチームがなくなってしまったこともありました。なんとか走らせることはできたんですが、パートナーの密山祥吾選手がクラッシュに巻き込まれたりして、結局チャンピオンの権利はなくなってしまったんですけどね。
2007年はタイサンに移籍して、山路慎一選手と組んでいたんですが、途中からドミニク・ファーンバッハー選手に替わりました。この年はあまりパッとしない成績で終わっちゃいましたね。2勝したのに。
2008年もタイサンで山路選手と組んでいたんですが、最終戦だけドミニク選手になって、しかも優勝したんですよ。序盤、結構良い成績でチャンピオン争いをしていたのに、8戦目のオートポリスで、山路選手が4位を走行中、あと2周というところである選手にぶつけられてしまって、リタイヤになったんですよ。4位でゴールしていれば確実にチャンピオンだったのになあ。しかも、同じヨコハマ同士のクラッシュで、さらにチャンピオンをミシュランに持って行かれてしまったという……。
で、2009年に古巣のRE雨宮に戻って折目 遼選手とタッグを組むことになりました。タイヤ無交換作戦というのをはやらせて、開幕から4戦連続表彰台に上ったんですが、その後は性能調整の雨あられで結果はシリーズ2位……。
翌2010年もRE雨宮で折目選手と再び組んだんですが、2009年の最終戦で受けた性能調整がそのまま2010年も適用されるということで、開幕前から性能調整されたんですよ。でも開幕戦で優勝して、さらにセパンでも優勝できた。なのに、シーズン3位。途中でエンジンや駆動系のトラブルが出ちゃってトップを走ってたのにストップとか、最終戦のフォーメーションラップで番場がスピンしたりと(笑)、なかなか苦しいシーズンでした。
──もしかしてRE雨宮さんが撤退したのは、度重なる性能調整のせいですか?
谷口 いや、それはないですよ。いろいろあっての撤退ですが、まあたしかに性能調整をされすぎると萎えますよね。
──なるほど、個人的にロータリーファンなので、非常に残念な撤退でした。
2011年、“イロモノ”チームに移籍を決めたワケ
──いよいよ2011年にGSRに参加されるわけですが、オファーはいつからありましたか?
谷口 2010年の暮れかな。大橋さんと会うことになって、熱烈ラブコールを受けたわけです。最初は番場を変えてくれたらいいよ、なんて言っていたんですけど、それはどうにもならないみたいで(笑)。ちょうど右京さんも参加するって話も聞いてたんですが、そのとき他のチームからのオファーもあったので、僕としてはどのチームに入ればチャンピオンを取れるのかというのを見極めたかったのもあり、いったんは保留にさせてもらいました。例えばクルマがA、チーム力A、相方がB、資金力がAみたいに、自分の中で判断基準があるんです。なるべくチャンピオンを取れるパッケージを揃えたいじゃないですか、オフシーズンの間に。
GSRからオファーをもらったときに、まずクルマ(Z4 GT3)は楽しそうだなと。メンテナンスガレージはRSファインがRE雨宮撤退で空いているからどうか、と提案しました。僕が乗ろうが乗るまいが、RSファインにはなりそうだったんですけど。本当は某チームに移籍しようかと思ってたんですよ。監督もやる気になってたし。でも途中から計画が縮小されてきちゃって、これはないなと(笑)。GSRは安藝さんからも大橋さんからも声をかけてもらっていたんですが、なぜか番場だけは変えられない。俺は「番場は遅いとは言ってない、むしろ速いと思う。ただ、やらかすんです」と言ったんですよ。今年こそはチャンピオンが取りたかったので、安心してバトンを渡せる人がいいと。でもガンとして番場は変えなかった(笑)。ただ、他のパッケージと比較したら、ここ(GSR)で気になるのは番場だけ。じゃあ、番場を育てることに徹しようと。
──クルマも未知数だったんじゃないですか?
谷口 そうですね。でも、シェイクダウンで乗ったときに「お、こりゃかなり手応えアリ!」と思ったんですよ。これなら、イケるかもしれないって。
──加入以前のGSRは、谷口選手から見たら“イロモノ”な印象でしたか?
谷口 うーん、正直、印象どころか眼中になかったかな(笑)。GT300の中でレースをしているチーム、ただ参加しているだけのチーム、その中間のチーム、という判断基準が僕の中にはあるのですが、完全に参加しているだけのチームって見方でしたね。(初代ミクZ4の)片山エンジニアのことはもちろん知ってたけど、四苦八苦してて大変だなあと。あとは、サーキットに新しいジャンルのお客さんを連れてきてくれてありがとねって感じでした。ポルシェになってメンテナンスがKTRになり、中間層のチームにはなったけど、まだ上位争いをするようなチームではなかったので、脅威とかもなかったし。
──そんな評価だったのに、よくぞ来てくれました!(笑)
谷口 クルマはZ4だし、メンテはRSファインだし、タイヤはヨコハマということで、即答でNOは言いませんでしたが、最初は「初音ミク号~? 俺が?」みたいな戸惑いはありましたよ。
今ではすっかり慣れましたけど、始めに番場がビビらせるから、どうやって個人スポンサーの人たちと接したらいいのか、ビクビクしていましたからね(笑)。ニコ生でも「谷口△」というのを見て、「なんで俺が○じゃなくて△マークなんだよ!」ってイラっとしたし。
でも、去年1年間でみんなへの意識が変わりましたね。みんないい人たちですよ。今ではまったく抵抗感はありません。サーキット以外にも初音ミクファンとか個人スポンサーさんがたくさんいますよね。僕は仕事で日本中回っているので、各地で「あ、こっち側の人間だ」という人と出会うワケですよ。個スポやってますとか、レースはやったことないけど見てますとか、話しかけてくれるんです。1万6000人は伊達じゃないなあと(笑)。
──このチームが始めた、個人スポンサーというシステムはどうですか?
谷口 すごいシステムだと思いますよ。レース業界って基本的にはお金を消費するだけなんですが、お金を産んでレースをやってるチームなんですから。しかも、個人スポンサーさんたちもグッズをもらったりサーキットに観に来たりと満足度も高い。応援したクルマがチャンピオンになったりとかね(笑)。だから去年は個スポのみんなも僕たちも、みんなハッピーなシーズンでしたよね。
──“痛車”に対する印象は何かありましたか?
谷口 見て見ぬフリしてたからなあ(笑)。みんなそれぞれいろんな楽しみがあるよねって感じかな。クルマ業界における痛車のムーブメントは知ってましたよ。全国で痛車の集まりがあって、すごい盛り上がってるって。痛車について詳しく知ってるってわけじゃないですけど。あと、最初にミクZ4に乗ってた菊地 靖選手と田ヶ原章蔵選手は仲が良いので、いろいろと聞いてましたしね。
何ものにも代えがたいチャンピオンの称号
──それでは、2011年シーズンをこのチームで走ってみて、いかがだったでしょう?
谷口 初戦の富士では雨が降ってる中、タイヤを変えたりなんだりで試行錯誤して5位だったでしょ。あの時点で結構イケるんじゃないかなという確信はありました。1戦目と2戦目は番場がとてもいい仕事してくれたので、僕の中での彼に対する信用・信頼も積み上がっていきました。セパンでちょっとラップタイムにバラつきがあったので、うーんって感じでしたがちゃんと1位で戻ってきたのでいいかなと思っていたら……。SUGOでGT500と接触しちゃって、ガクって感じでしたね(笑)。
──鈴鹿ではスリック劇場の先陣を切りましたが、そのときの胸中を教えてください。
谷口 11位とか12位とかノーポイントで終わるよりも、ギャンブルに出たほうがいいだろうと思ったからです。しかも、やるなら誰もスリックに履き替えていないときじゃないとギャンブルにならない。最初、僕がスリックで行こうと言ったとき、RSファインの河野さん(エンジニア)も反対したんですよ。でもあと2周くらいで番場がピットインしてくるってときに、河野さんも「よし行くか!」ってスイッチが入って僕も「見とけよ~!」って気合いが入って(笑)。
──雨が上がったといっても、乾いている部分がライン一本分しかなかったですし、かなりリスキーでしたよね。谷口選手自身にとっても。
谷口 その乾いているラインは、他のクルマも走るからこっちはなかなか走れないんですよ。だから濡れているところをスリックで走らないといけなかったんでナーバスになりましたが、それよりも1ポイントでも多く取りたいという思いのほうが強くて。鼻から湯気が出る勢いで走ってたからね。そのおかげでなんとか5位まで挽回できて、自分としてはギャンブルに勝ったぞ! って。
──ドライブスルーペナルティーと、ちょっとイカちゃんに引っかかってしまったのが残念でしたね。
谷口 たらればになるけど、山内選手が周回遅れに気付いて譲ってくれてたら#11 ゲイナーは食えてたかもしれなかったので、ギャンブルには勝ったけど悔しかったですね。
──9月の富士ではホームコースですし、最初から優勝できると思っていましたか?
谷口 いや、優勝できるとは思ってなくて。ただ、ゲイナーに追いつくために大量得点を取らないといけないとは思ってましたね。かなりのウェイトハンデを背負ってたのにポールが取れたので、こりゃ行くしかないでしょ! とスイッチが入って、タイヤも良くなってたし、ミラーが見えなくなってしまった状況の中で番場がいい走りをしてくれたのもあって、完勝できましたね。ゲイナーがリタイヤになったのも、その後のチャンピオン争いに大きく影響しましたね。
──そう考えると、オートポリスの9位は厳しかったですね。
谷口 マシンの性格とコースが合わないというのもあるけど、なんか全然乗れてなかったよね。性能調整がガッツリで。番場節も炸裂してたし(笑)。ゲイナーが2位でうちらが9位になったことで、5ポイントも差が開いてしまって、やっぱり今年もチャンピオンは無理なのかな~とか考えてちょっと病んじゃって……。
──最終戦のもてぎが予選のときに雨だったことも、結構ヘコミましたよね。
谷口 金曜の搬入日にゲイナーはミケロット(フェラーリのレースカーの開発元)からエンジニアが来て、新品のエンジンを使うとか言ってるし、こっちは賞味期限切れてるエンジンだし、土曜日は朝から雨だし、もうどうすんだコレって(笑)。決勝は番場スタートで行かせて、彼がどんな順位で帰ってくるかで僕のやる気がどのくらい出るのか決めるわ、とか言ってヤサぐれてましたからね。
──しかし、予選日の練習走行でいきなりトップタイムでした。
谷口 あれ? って感じでしたよ。ゲイナー、ハンコック、ARTA(ガライヤ)あたりが上位に来るだろうと思ってたので。予選もポール取れたしね。こうなったら話は違ってきますよ(笑)。番場も乗れているし、こりゃ番場スタートだろ、と。1周目さえゲイナーを抑えられれば、あとはクリアな状態で走れるだろうし、もしダメでも僕がなんとかしてやる! と、俄然負けず嫌いが戻ってきて。そして、まさかのチャンピオンになれたという。感無量でしたね。
──番場選手への評価は変わりましたか?
谷口 ポカをやるし、天然だし、イラっとすることもあったけど、僕だけじゃチャンピオンは取れませんでしたし、番場の頑張りには非常に感謝しています。
──ところで谷口選手はフォーメーションラップで、左右に振ってタイヤを暖めるウェービングをあまりしませんよね?
谷口 個人的には必要だと思ったことがありません。加速減速だけで、タイヤの端についている油をちょちょっと取るだけでいいんですよ。そもそもその前にウォームアップ走行があるし。むしろ(タイヤの)内圧が低いときにこじって壊したくないんです。加速したらリアタイヤが潰れる、減速すればフロントタイヤが潰れる。これだけで十分ですね。加速減速を繰り返すことによって、ブレーキを暖められるし。
──なるほど、そういう理由があったとは。さて、ついに10年越しのチャンピオンに輝きましたが、どんな気分でしたか?
谷口 僕のチャンピオンに関して、たかがGT300でしょ? とか、クルマが良かったんでしょ? とか言う人もいるわけですよ。でも僕は10年間悔しい思いをしてきて、取りたいのにあとちょっとが遠くて、僕の中では非常に重かったんです、この10年は。このチャンピオンは何にも代えがたいくらいうれしかったですね。自分の中で、何かが降りたような気がしました。
──では、最後に次のステップや目標はありますか?
谷口 正直、これといってないんだけど(笑)。ただ、僕は負けず嫌いで、勝負事に関してはなんでも負けたくないんですよ。だから、今年もチャンピオン防衛に全力を尽くします。そのために、速くてやらかさない、悪条件にも強い片岡選手を呼んできてもらったワケだしね。去年みたいにブッチギリのレースはできないと思うから、僕と片岡選手とでしぶとく食い下がって、安定したポイントを取ってチャンピオンを防衛しますよ!
個スポのみなさんも、今年も応援していただいて、最終戦が終わったときに、僕らもありがとうと言いたいし、個スポのみんなからありがとうと言われるようなシーズンにしたいですね。
──ありがとうございました。今年も期待しています!
【次回予告】チーム関係者インタビューの最後はあの人!
現在、日本のレース界でトップレベルの谷口選手だが、チャンピオンまでの道のりは辛く苦しいものであり、ドライバースキルも一朝一夕で身につけたものではなかった。谷口選手が王者に輝いたのは運が良かった、クルマが良かったというのもあるかもしれないが、勝利への執念と、チャンピオンを諦めない心が、周りの人も動かし、そしてチーム一丸となって前に進んだからだった。
さて、GSRチーム関係者インタビューシリーズもついに次回が最終回。最後はこのプロジェクトのキーマンであるグッドスマイルカンパニーの安藝社長が登場! 今年2台体制を決断したその胸中とは!?
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