「聖地」で満たす大人の探求心

「盆栽って結局何が楽しいの?」って人、その答え、すべて「さいたま市大宮盆栽美術館」にあります

文●村野晃一/編集 ASCII

提供: さいたま市

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磯野波平の趣味はなぜ盆栽なのか

 こうして会話を逐一再現していると、いつまで経ってもこの記事が終わらないので、ここからはちょっと駆け足で紹介していこう。お次は企画展示室にて、歴史のお勉強だ。この展示室の半分は常設展示のパネルで、盆栽の歴史を学ぶことができる。

 歴史と聞いて、興味が削がれた方もいるかもしれないが、実はこの盆栽の歴史にこそ、磯野波平さんがなぜ盆栽を趣味としているのかという謎の答えが隠されている。

 そもそも盆栽のはじまりは、1300年ほど前の中国にまで遡る。その後、宋の時代には”盆山”、やがて明の時代には”盆景”という盆栽のルーツとなるものが中国で親しまれるようになり、盆景は中国で現代まで継承されている。この中国で生まれた文化の内、盆山が日本に渡来したのが、おそらく平安時代から鎌倉時代にかけて。おそらく、というのは、書物でなく、鎌倉時代の絵巻物に描かれているという資料しか残されていないからだ。

平安時代の貴族屋敷の庭先に置かれた盆山が描かれた絵巻物

 室町時代に入ると、文献資料にも登場するようになり、盆の上に山を表現するもの、より風景に近いものの表現法として知られていく。鎌倉・室町時代には山水画が流行するのだが、それを3D化したものが盆山、さらにそれを大きくしたものは”山水”と呼ばれる庭園になり、そこから草木のような生きているものを抜き取ったのが”枯山水”の庭園になる。

 江戸時代に入ると、将軍家で行われていた薬草研究のための”鉢植え”と、盆山を愛でる文化が融合し、将軍家の庭園でも、ただ愛でるだけのための鉢植えの樹が育てられるようになっていく。こうして育てられた盆栽は、殿様から家臣への報賞として贈られることもあり、ギフトとしての役割も持っていた。

田口「当時の家臣は嫌だったと思いますよ。土地でも金銀でもなく、希少な宝物といったものでもない。その上、きちんと手入れをして育てなきゃならないし、ましてや枯らしてしまったら一大事ですからね」

 確かにそうだ(笑)。こうして江戸時代も後期に差し掛かると、ようやく文献にも”盆栽”という言葉が出てくるのだが、話し言葉としてはまだ”はちうえ”と呼ばれていた。江戸時代の中期以降には、戦もなく庶民の暮らしも安定してきて、衣食住足りれば趣味に走るという者も現れはじめ、田舎と違って緑の少ない江戸の生活の中で、小さな器の中で植物を育てる鉢植え文化が、庶民の間にも取り入れられるようになっていく。

登盆、盆栽という文字は見えるが、ふりがなは、”はちうへ”となっている

 庶民と執権者の双方で盆栽文化が取り入れられ始めるが、庶民の間で好まれたのが主に梅などの花ものや草のものなど小さな鉢植えで、一方の上位の階級の間で好まれたのが松などの大ぶりな樹の盆栽だった。この頃からすでに盆栽には高価なものと庶民的なものの二通りが存在していたのだ。

 江戸の末期から明治にかけては、煎茶の文化が中国から伝来し、それまでの様式的な茶文化である抹茶文化に替わり、自由で堅苦しくない煎茶文化は文人達に大いに好まれた。その文人たちが茶室で好んで飾った盆栽の樹形が文人木であり、それまで外に置かれていた盆栽を床の間飾りに用いるようになったのもこの頃。

 また、それまでの染め付けの華やかな盆器に代わって、茶色の渋い盆器が用いられるようになったのもこの頃で、現代の日本に伝わる盆栽の様式が固まってきたのはこの江戸後期から明治にかけてのことだ。

 中国からの煎茶の到来前、抹茶の世界であれば、床の間に飾られるのは生花であったのだが、煎茶文化では盆栽が飾られる。つまり、生花と盆栽とは、お茶文化の違いでもある。

 抹茶や生花には茶道や華道といった伝承の道が用意され、また流派があって、その手前がマニュアル化されハウツーとして伝えられていったのに対し、煎茶、盆栽は自由闊達を旨として、盆栽には型はあれど流派などは存在しない。そのため、生花や抹茶文化は今でも習い事として触れる機会があるが、煎茶は現代でも誰でも気軽に飲めるお茶としてあり、盆栽もまた、誰に師事する必要もなく、誰でも自由に楽しめる趣味的な位置づけのものとしてある。このためか、盆栽には大家と呼ばれる人物はいても、その名が一般的に広く知られるようにはなっていない。名が挙がるのは大抵の場合、他に名声を持ちながら、盆栽を趣味として嗜む人物ばかりなのだ。

 そして明治期になって、世の中に起こったもう一つの変化によって、盆栽文化はさらに花開いていく。それがジャーナリズムの発達で、徳川家の統治していた時代には庶民には伺い知ることのできなかった政財界人など上流階級の人々の暮らしぶりが、明治維新を経て、生活面などに至るまで新聞などを通じて報じられるようになった。

政財界人の趣味が盆栽だと知れるとブームに。政治家がまだ庶民のヒーローで憧れがあった時代と考えると隔世の感を禁じえない

 この国を引っ張っている人たちが盆栽を趣味にしていることが知れ渡ると、それをステータスとして真似ようと多くの人が盆栽を趣味とするようなブームが起こる。こうして、明治に生まれた男たちは、いつかは盆栽を趣味にしようとがんばって働き、大正、昭和の時代に揃って似た趣味を持つお父さんに育っていく。それがすなわち、日本の代表的お父さん像・磯野波平さんの姿なのだ。

企画展示室には、大宮盆栽村の成り立ちなどを記した資料も。東京ドーム10個分くらいの広さがあり、かつてはこの一帯がすべて盆栽園で、さながら盆栽版の秋葉原のよう

盆栽村の住民となるには協約があり、盆栽を10鉢以上所持、日陰を作らないように2階建て禁止などといった制約が設けられるのと同時に、門戸を開放しいつでも誰でも見られるようにしておくこと、など、今考えるとあまりにも牧歌的な協約もあった

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