「発信」の時代にこそ必要になる「受信」のスキル
今日はそうした供給過多の情報環境の中で、いかに情報と付き合っていけばいいのかを考えてみたい。
結論を急ぐわけではないのだが、大前提として、情報は思考や判断のための材料に過ぎず、自分の興味や関心に合致したものが知識として昇華され、やがて知恵や知見に結実しなければ意味がない。
だから、ただ単に情報をたくさん持っているだけでは自慢にもならないのである。情報は知識を構成するためのモジュールであることを忘れてはならない。
本連載でも再三述べたように、もはや個人がメディアだから、メディアが乱立すればするほどニュースは際限なく製造される。
1990年代初頭のインターネット黎明期に喧伝された「すべての人々が情報の発信者になる」というヴィジョンが、商用利用開始から20有余年を経て、まさに現実になったわけだ。けれども、その結果として、情報はまさにバイラル的に増殖を繰り返していく。
私自身、2012年末に「UPLOAD」という動画系ウェブマガジンを某企業の支援を受けて立ち上げて、アップロード文化を焚き付けた者の一人なわけだが、こうして総発信者時代を迎えてみると、今度は逆に「受信」のスキルが重要になってきていることを痛感している。
本来は知識のパーツに過ぎないはずの情報に翻弄されたり、不本意な誤解、不用意な反応、不必要な疲弊を引き起こさないためにはどうすればいいのか……?
情報に翻弄されないための4つのポイント
受信に求められるスキルとは、各人が自分独自の「編集方針」のもとに情報を研磨/成型/精錬することである。
つまり、「自分」というメディアにはどんなコンテンツが必要なのかを「編集」することだ。そこで、怒涛のように押し寄せる情報をあるときは受け止め、あるときはやり過ごし、自分を編集するために心掛けておきたいポイントを4点列挙しておく。
1. 発信される情報はことごとく編集されており、その情報を受信する自分も編集しているという感覚を持つ。
2. メディアの液状化の進行により、例えば「ソーシャルメディア的」なものは案外ソーシャルメディア以外の場所にある。
3. メディアが多様化しても取り扱われるトピックの重複化は進むため、本当に価値のある情報は一層見えづらくなっていく。
4. 自分の興味や関心が多少なりとも明確になっていないと、情報のハイパーリンクもセレンディピティーも起こらない。
(次ページでは、「編集の恐ろしさを物語る名作映画「羅生門」」)
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