Windowsという環境を使っていて、非常に気になることがある。それは、このプラットフォームを使い続けている限り「消費型生活」を送らねばならないことだ。
たとえばOfficeなどのアプリケーションを使っていると、1~2年ぐらいで新しいバージョンが出て、それをまた、買わねばならないというサイクルが必須なのである。旧版を使い続けることもまったく不可能ではないが、少なくとも新しいバージョンが登場すれば、バグの修正もほとんど行なわれなくなるし、場合によっては、新しいバージョンで作成されたデータファイルを読み込むことさえできなくなってしまう。
これも、アプリケーションの機能が低く、発展途上にあるときは悪くなかった。新しいバージョンは、ある程度魅力ある機能を装備していたからである。しかし、Windowsにより、仮想記憶がサポートされ、アプリケーションが使えるメモリが広大になり、高度な機能を取り込めるようになったあと、アプリケーションの劇的な進化は止まってしまったようである。また、アイディアが出尽くしたのか、小規模なスタートではビジネスが難しいのか、以前に比べると、ユニークなジャンルを作ったり、画期的と思えるようなソフトが出にくくなったようにも見える。
魅力的な機能は少ないものの、それでもアプリケーションは、次々と機能を追加してくる。機能を追加していけば、そのうち、あなたにぴったりの機能が装備されますよ、といわんばかりである。そのため、要求メモリやCPUの制限は除々に上がっていき、結局は、2年もしないうちにハードウェアを買い換えるなり、CPUを交換する、メモリを追加するなど、ハードウェアも「消費型生活」のサイクルに入っていくのだ。
Linuxに限らず、(GNU言うところの)フリーソフトやオープンソース系がもてはやされる理由には、こうした消費型生活への反感というか、反抗というか、とにかく消費型生活とは違った「非消費型生活」がしたいという気持ちもあるのではなかろうか。少なくともコードが手元にある環境なら、気に入らなければ、手を入れればいいし、バグがあれば、直せばよい(なんとなく自給自足って感じ)。ただし、この非消費型生活に入るためにはプログラミング技術という高いハードルがある。
かつて、コンピュータによる自動化が進んで、人類は何もすることがなくなるのではという意見が大まじめに語られていたこともあったが、その意味では、プログラミングこそ、人類最後の仕事なのかも。
そういえば、かつて「マイコン」などと呼ばれていた時代、BASICだけが動くマシン(たとえば、IBM PCやPC-98シリーズも最初はBASIC ROMを搭載したマシンだった)が当たり前だった時代があった。この時代、コンピュータを使うとは、プログラミングすることを意味していた。そういえば、UNIXで起動するとスクリプト作成可能なシェルが動くというのもなんとなく、このBASICマシンと似ているような感じ……。
しかし、パッケージソフトの魅力にはみんな勝てなかった。原理的には、自分でプログラムを作ることで、なんでもすることができる。しかし、ちょっとゲームしたいと思ってから、いきなりプログラムを書くなんて、たいへんである。江戸時代のように時間がゆっくりであればいいが、いまや、そんな悠長なこともいっていられない。いつまでたっても、インスタント食品やファーストフードがもてはやされるように、いまや、米を洗って、釜で炊くようなことは、誰にでもできることではなくなってしまったのである。やっぱり人間、消費型生活のほうがラクなんですな。
さて、プログラミングの道に入って、完全とはいかないまでも、非消費型生活に入るか、あるいはこのまま、消費型生活を続けるべきか? と二者択一で白黒はっきりさせたい方もいるかもしれない。こういう性格だと、いちどLinuxなんかを始めると、Windowsは見るのもいや、仕事で使うのが苦痛なんてことになって、かえって非健康的な気もするのですよ。
じゃ、単なる趣味でLinuxができるんかいな? これについては、次回考えることにしましょう。
(塩田紳二)