「おもてなしの経営学」の著者である中島聡氏が、本誌(月刊アスキー)にプログラムを持ち込んだのが今から30年ほど前。以来、アスキー・ラボラトリーズ、NTT、マイクロソフト、UIEvolution、アルファブロガーと着実にキャリアを積み重ねてきた氏の、アスキー時代、マイクロソフト時代にスポットを当ててみました。
中島 聡(なかじま さとし):略歴
1960年北海道生まれ。早稲田大学高等学院での在学中、NECのワンボードマイコン・TK-80BSの自作プログラムを持って南青山のアスキー出版の編集室を訪問。以来、外部筆者として月刊アスキーへ寄稿。アスキー・ラボラトリーズの一員となり、「PC-8001BASICゲームブック」に収録するゲームのほか、早稲田大学・大学院時代も含めて「CANDY」を初めとする数多くのプログラムの開発や移植を手掛ける。大学院卒業後はNTTに就職。1986年のマイクロソフト日本法人設立を機会に同社へ転職し、3年後に米国本社へ渡米。Windows95、同98、Internet Explorer3.0、同4.0の開発に携わる。2000年に退社し、ソフトウェア会社のUIEvolutionを設立してCEOに就任、現在に至る。人気ブログ「Life is beautiful」でも有名。
さて、中島氏といえばアスキー時代からNTT、マイクロソフト、そして現在に至るまで数々の伝説で知られる人物。「おもてなしの経営学」でも触れられている、そのいくつかを取り上げると…。
マウスの試作器を渡されて3日でCANDYの元を開発
アスキーでアルバイトしていた中島氏に、古川氏がマウスの試作器とPC-98用の接続環境を渡したところ、3日でパーソナルCADソフト「CANDY」の元となるプログラムを作成。2点間を直線で結ぶのが当たり前だった時代にベジェ曲線的なものを実現し、あのスティーブ・ジョブズも画面を見たときに硬直したという「CANDY」が生まれた背景とは? 「おもてなしの経営学」では、このCANDY開発の裏話も明かされます。
マイクロソフト日本法人の設立報道を見て、当時の古川社長に電話して転職
早稲田大学院卒業後にNTTに就職した中島氏でしたが、1986年、マイクロソフトの日本法人が設立されるという新聞記事を見て、社長に就任した古川享氏に直接電話。その後、紆余曲折を経て晴れて転職し、日本法人の16番目の社員となるのですが……古川氏に電話した際の名ゼリフ、NTTを辞める際のひと苦労など、注目エピソードの数々は特別対談に収録!。
マイクロソフトで上司の許可を得ずに部署を異動
パソコン史上でも特に記念碑的な出来事であるWindows95のリリース。ですが、このOSが市場に出るまでには大変な産みの苦しみがありました。Windows95登場前、次期の主力OSと目されていたのは「Cairo」であり、Windows3.1を出したグループは傍流扱い。そんな状況の中、当時Cairoチームに所属していながら違和感を感じていた中島氏は、上司の許可を得ずに勝手にWindowsチームへと移籍。以後、Windows95の開発に本格的に携わることになります。
マイクロソフトでCairoチームとのプレゼン勝負に奇策で勝つ
当時のマイクロソフトでは、すでに開発が進んでいたWindows95について、APIを社外へ公開すべきか否かをめぐりCairo陣営とWindows陣営が対立。どちらの意見を採用すべきか、ビル・ゲイツ氏の前で両陣営がプレゼンしたうえで決めることになりました。Cairo陣営はプレゼン勝負を前に膨大な資料を用意。それに対して、Windowsチームの中島氏がとった戦略は……実際のプレゼン勝負の模様もさることながら、その後のゲイツ氏の決断も含めて、まさに『その時歴史が動いた』展開は必見!
以上に挙げた4つはほんの一部。このほかにも「おもてなしの経営学」では、知られざる・今だから語れる(?)数々の逸話が明かされます。
略歴の初出で「1960年東京都生まれ」とありましたが、正しくは「1960年北海道生まれ」です。お詫びするとともに訂正させていただきます。