戦国LOVEWalker総編集長・玉置泰紀のお城探検第2回

戦国LOVEWalker総編集長・玉置泰紀のお城探検Vol.2

徳川家康が京都に築城した二条城は天守閣が名物だった

文●玉置泰紀(公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所理事)、写真・図●京都市元離宮二条城事務所提供と玉置撮影

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 筆者が総編集長を務める戦国LOVE Walkerでは、戦国時代前後(室町時代末期から江戸時代初期まで)をメインに、歴史というレイヤーであたらしい観光を考える「戦国メタ散歩」の現地リポートをスタートしたが、第二回は、幻の京都新城に続き、京都の城と言えばここという、元離宮二条城を歩いてきた。

 二条城とは、1603年(慶長8年)2月に、徳川家康が江戸幕府初代の征夷大将軍に任ぜられた後、天皇の住む京都御所の守護と将軍上洛の際の宿泊所とするため築城されたもので、同年3月に家康は伏見城から二条城に移った。建築当初は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは終わっていたものの、豊臣家は健在で、豊臣秀頼は大阪城におり、家康が大阪城冬の陣で二条城から出陣したのは慶長19年(1614年)のことだった。3代将軍家光の時代には、後水尾天皇の行幸がなされるなど、二条城は一躍脚光を浴びたものの、幕末になるまでは、ほとんど将軍は訪れず、将軍不在時の二条城は、江戸から派遣された武士、二条在番によって守られていた。明治維新後は、明治新政府に接収され皇室の二条離宮となり、1939年(昭和14年)に宮内省から京都市に下賜され、元離宮二条城と改称して現在に至る。

 筆者は、この二条城から堀川通を北に少し上がった所にある予備校に2年通っていて、堀川遊歩道などで開催されていた「京の七夕」が始まったころは、二条城の開会式をネット中継したりするなど、思い出深い城である。

 今では、街中のお城として、国宝の二の丸御殿のイメージが強い。1867年(慶応3年)10月13日、この二の丸御殿大広間に、在京の40藩の重臣を集めて意見を聞き、翌々日、徳川慶喜が大政奉還の意思を表明したことで知られる。しかし、長い江戸時代の半分近い期間、二条城には五重の天守閣がそびえ、洛中洛外図には必ず描かれ、天皇も訪れる名所だったことは、今は、天守台でしか偲べない。

かつて天守閣がそびえていた跡の天守台前の筆者

メトロポリタン美術館蔵の「洛中洛外図屏風」には、中心部に五重の天守閣が描かれている。Scenes in and around the Capital MET 2015 300 106 2 Burke website.jpg。江戸前期

144年間、京都の街のシンボルだった天守閣は2代にわたって移築されたもので、後水尾天皇も登っていた

 実は、この今となっては天守台のみが残る天守閣はずっと同じ建物だったわけでなく、初代は違う場所にあり、新たに造られた二代目がここに建っていた。初代はもちろん、家康が建てたもので、二条城落成から3年遅れた慶長11年(1606年)に完成している。この天守閣は廃城となった大和国の郡山城から移されたものと言われ、建築学などからは異説も出ていたのが、2代目の天守閣の造営で、淀城に移築されたのは史実で、淀城の天守閣が郡山城の天守閣と近似していることから、郡山城移築説の信ぴょう性がまた出てきている。

 さて、その後、徳川家光が3代将軍、2代将軍だった徳川秀忠が大御所となった寛永元年(1624年)、二条城は後水尾天皇の行幸を迎えるための大改築を始めた。西に大幅に拡張され、外堀に加えて内堀が掘られ、新しい本丸となり、2代目の天守閣が建てられた。この天守閣は、一国一城令で廃城となった伏見城の天守閣が移築されている。 現在残っている天守台はひときわ高く小山のようになっているが、内堀で掘り出した土が盛られた、と思われる。おそらく、初代よりさらに高くなったのではないだろうか。京都市街ではもちろん、最も高い超高層建築として、どこからでも視認が出来ただろう。

 後水尾天皇には、秀忠の娘(和子)が入内しており、徳川家は天皇家の外戚となった訳で、この行幸は徳川家にとって一大行事となった。行幸された後水尾天皇は天守閣にも登っている。それだけ、名所だったということだ。素晴らしい洛中の見晴らしが楽しめたはずだ。

 その後、寛永11年(1634年)に、家光が30万余りの兵を引き連れ上洛、入城してからは、幕末まで、二条城に将軍がやってくることは途絶え、寛延3年(1750年)に、落雷により天守閣が焼け落ち、再建されることはなかった。つまり、1606年以来、144年間は京都の街に天守閣があったわけで、街の印象が大きく違っていたのは間違いない。

二条城現況図。内堀内の本丸南西角に天守閣がある

天守台は登れるようになっていて展望台になっている。写真は北側の改修中の本丸と内堀を望む

北側を望んで、左側に内堀、中央が土塁、右側に階段状の雁木を見ることができ、本格的な防御城郭だったことがわかる

寛永度天守指図。パブリックドメイン

江戸時代中期の二条城の縄張り図。北側と南西側に数多くの番小屋が見られる。二条城を管理するものが住んでいたのであろう。パブリックドメイン

家康が造り、秀忠、家光が磨き上げた国宝・二の丸御殿は狩野派ミュージアムともいえる至宝で、究極の黒書院も間近で見てきた

 家康が最初に築城した際に出来た二の丸御殿は全6棟の建物からなり、秀忠、家光が後水尾天皇行幸のために、寛永元年に拡張した内濠内の本丸御殿とは別になる。江戸城、大坂城、名古屋城の御殿が失われた今日、城郭に残る御殿群としては唯一であり、江戸初期に完成した住宅様式である書院造の代表例として日本建築史上重要な遺構で国宝に指定されている。秀忠は、元和5年(1619年)にも、娘(和子)の後水尾天皇への入内に備え、改修を行っており、家康が作ったものに、その時々の改修の跡が残り、明治なって離宮になってからも、格子天井の絵や、葵の紋から菊の紋に変わった飾金具など、細かく手が入れられている。

 御殿の内部は、格子天井や飾金具のほかにも、探幽など狩野派が総力を結集した障壁画や、手の込んだ欄間の彫刻によって、江戸初期の美術の結晶ともいえる内容で、特に、寛永元年の家光による改修は、後水尾天皇の行幸のために、彼が巨費を投じて大改築を行った日光東照宮とも並ぶものだと言える。6棟の奥から二つ目の棟、黒書院の二の間への特別入室が2023年1月30日まで開催されていたが、筆者も見ることができた。通常は、廊下からの観覧なのだが、二の間の中に入って障壁画(模写)や天井画(原画)を観覧できた。大政奉還は、徳川慶喜が大広間で居並ぶ諸侯に伝えるイメージが流布していたが、今は、この黒書院で、老中の板倉勝静ら側近に伝え、板倉が大広間で諸藩士に伝え、意見のある者に残るよう伝えた結果、後藤象二郎ら6名が残って、慶喜がその大広間で説明した、という流れだとされている。

 二の丸御殿と言えば、廊下を歩いたことがある人は、独特の鳥の鳴き声のような軋む音がすることに気が付くだろう。これを「鶯(うぐいす)張り」と言う。音は、目かすがいと釘のこすれによって生じる。

 狩野派ミュージアムともいえる二の丸御殿の障壁画は模写に差し替えられているが、展示収蔵館で、「新春を寿ぐ ~ 松竹梅 ~」(〜2月23日)を開催し、黒書院・一の間の松竹梅が描かれた障壁画などの原画を展示している。壮大な松、虎が住む竹林、うっすら雪を積もらせた初春の梅や松を各棟から選んで展示しており、江戸初期の松竹梅の背景を感じることができる。

●唐門

 二の丸御殿の正門であり、唐破風の門。飾金具が葵の紋から菊の紋に変えられている。重要文化財。

●二の丸御殿の玄関・車寄

 天皇や公家が牛車に乗ったまま、建物に入れるように作られている。屋根の下には、中国の伝説上の鳥「鸞鳥(らんちょう)」や雲、松、牡丹、笹などの彫刻が彫られている。二の丸御殿は国宝。

●二の丸御殿の黒書院

 黒書院は当初「小広間」と言われ、徳川家と、親しい大名や高位の公家が謁見を行った。一の間は将軍が坐した場所。二の間の障壁画は金箔地に鮮やかな彩色で満開の桜が描かれ、一の間の初春の松竹梅から季節の移ろいが描かれている。作者は狩野尚信。天井画(原画のまま)は、対の鳳凰をモチーフに描かれている。天井の飾り金具の紋は葵のままだ。

二の丸御殿の6棟の並び

●大広間・一の間、二の間

 将軍と大名や公家が公式に対面する所。一の間(上段の間)、二の間(下段の間)からなる。一の間は、書院造りの特徴である床の間、違棚、付書院、帳台構を備え、対面の際には、将軍は一の間で南を向いて座し、床の間に三幅対の掛軸をかけ、違棚や付書院には工芸品などを飾ったとされる。障壁画は狩野探幽筆。将軍と大名との対面の様子を、有職御人形司・伊東九重家、伊東庄五郎が再現している。

●二の丸庭園

 特別名勝。小堀遠州の指揮の元、改修された庭で、代表的な桃山様式の池泉回遊式庭園。遠州は古田織部に茶の湯を学び、織部亡き後は代表的な茶人として、その茶の湯は「きれいさび」と称され、城や社寺の作事、多くの庭の作庭で活躍した。この庭が出来たのは、記録や作風から、1602年〜1603年頃(慶長7年〜8年 家康時代)と推定される。その後、1626年(寛永3年 家光時代)の後水尾天皇行幸のために一部改修を加えられ、後水尾天皇行幸当時は、池の中に御亭を建て、御亭、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の座)の三方向から鑑賞できるように設計されていた。

 その後は、何度か改修が行なわれ、明治以後は、離宮的・迎賓館的な城として利用された。特に離宮時代に行われた植栽工事で、幕末の庭の景色が大きく変貌し、今日の基本的な景観が完成した。大胆な岩の使い方、滝の配し方などモダンで立体的な世界になっている。

2017年から始まった本丸御殿の改修は、2024年3月には終了する見込みで、2024年中には内部公開の予定

 本丸は、3代将軍・徳川家光が、1626年(寛永3年)に後水尾天皇行幸を迎えるため、城の区域を西側に拡げ、新たに築いた内堀で囲んだ。本丸内にも、御殿が建てられていたが、1788年(天明8年)の大火で焼失。15代将軍・徳川慶喜が幕末に御殿を建てたが、1881年(明治14年)頃に取壊されている。

 現存する本丸御殿は、桂宮家が京都御所の北(今出川御門内)に建てた御殿の主要部を、1894年(明治27年)に明治天皇の意向で移築したもの。当時は、二条城が天皇家の別荘である離宮として利用されていたためだ。

 二条城本格修理事業は、2011年(平成23年度)からおよそ20年の歳月をかけ、28棟ある文化財建造物をはじめ、城内全ての歴史的建造物を中心に修理や整備を行ってきたが、本丸御殿は2017年から開始して、2024年3月には改修が終了する見込みで、2024年中には内部公開の予定だ。

保存修理工事前の本丸御殿

■このほかの見どころ

ネイキッドによるプロジェクションマッピング。このほかにもワントゥーテンなどによって様々な見せ方が工夫されている

北大手門を出て東に外堀沿いに歩くと、石垣。に凹みがあり、ここから寛永元年に拡張した部分になる。石垣を見ると、自然石をあまり加工しないで積んだ野面積(のづらづみ)と、加工した石を隙間なく組んだ切込接(きりこみはぎ)が混在しているのが分かる。前者が家康の時代の石垣と思われる

東南隅櫓。1602年(慶長7年)から1603年(慶長8年)に造られ、1625年(寛永2年)から1626年(寛永3年)に改修された。重要文化財。寛永期には、隅櫓は四隅に建てられていたが、1788年(天明8年)の大火でふたつが焼失している

東大手門。二条城の正門になる。1662年(寛文2年)に造られ、寛永3年(1626)の行幸の際には後水尾天皇は、この門から入城した。門幅は13間。重要文化財

【限定版入城記念符 「どうする家康」】大河ドラマ『どうする家康』の放送を機に、限定版入城記念符を大休憩所内売店において2023年1月1日から販売中。販売価格は700円(税込※専用の袋付き)。販売場所は二条城大休憩所内売店

■二条城入城の概要

住所
京都市中京区二条通堀川西入二条城町541

開城時間
午前8時45分~午後4時(閉城 午後5時)

二の丸御殿観覧受付時間
午前8時45分~午後4時10分

休城日及び二の丸御殿観覧休止日
定期的な休城日・二の丸御殿休止日を設けて、国宝二の丸御殿や障壁画などの貴重な文化財の維持・管理に努める。

休城日
年末 12月29日~31日

二の丸御殿観覧休止日
毎年1月・7月・8月・12月の毎週火曜日、12月26日~28日、1月1日~3日
※当該日が休日の場合は二の丸御殿を観覧出来るが、その翌日に二の丸御殿を観覧休止にする。

入城料等料金
・入城料/二の丸御殿観覧料
一般1300円、一般団体(30名以上)1100円、中高生400円、小学生300円
・展示収蔵館観覧料
100円
・入城料のみ
一般800円、一般団体(30名以上)700円
※小学生未満は無料。
※一般の人は、入城後、二之丸御殿や展示収蔵館を見たいときは、総合案内所又は展示収蔵館にてチケットを購入出来る(展示収蔵館では展示収蔵館観覧券のみ販売)

前売りWEBチケット
スマートフォン等で前売りチケット(入城券+二の丸御殿観覧券または入場券単券)を購入出来る。購入したWEBチケットのQRコードをスマートフォン等で提示して、チケット購入の窓口に並ぶことなく、直接入城出来る。詳しくは、以下のWEBチケット販売サイトを参照。
https://www.asoview.com/channel/tickets/xZrqrYmkZF/?utm_source=ticket_direct
※有効期限は購入日から3箇月以内。
※クレジットカード決済のみ利用可能。
※夜間ライトアップ等各種特別企画事業では利用出来ない

【令和4年度第4期「二条城障壁画 展示収蔵館」原画公開】
新春を寿ぐ~松竹梅 ~

会期
2023年2月23日まで

入館時間
午前9時~午後4時30分(閉館は午後4時45分)
※二条城の入城受付は、午後4時まで

会場
元離宮二条城内 二条城障壁画 展示収蔵館

入館料
100円(未就学児無料)※別途入城料が必要

■公式サイト
https://nijo-jocastle.city.kyoto.lg.jp/

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