「アートでめぐる横浜18区」港南区編 夫婦そろって、は初の快挙! 共に高め合い、それぞれ築いた絵画世界

文●横浜美術館

2022年09月26日 10時00分

左:山中 雪人《釈迦三尊》/右:水谷 愛子《亮と兄ちゃん》

 皆さん、こんにちは!

 大規模改修工事のため長期休館中の横浜美術館。

 休館中は、長い間、市民の皆さんに親しまれてきた、横浜美術館コレクション(所蔵作品)の魅力や休館中の活動、リニューアルに向けての取り組みなどをさまざまな切り口でご紹介します。

 前回の記事はこちら

「アートでめぐる横浜18区」南区編 波間に浮かぶタコとカニ。確かな技術が可能にした三代井上良斎の自由な作陶 井上良斎(三代)《波文象嵌壺(はもんぞうがんつぼ) 銘「海」》

※過去の連載記事はこちら」:アートで暮らしに彩りを。ヨコハマ・アート・ダイアリー

横浜美術館コレクション×18区

 さて、横浜美術館のコレクションの中には横浜市内18区と関連する作品があるのをご存じですか?

 横浜の風景が描かれた作品、横浜出身の作家や横浜を拠点に制作活動にはげんだ作家の作品などを所蔵しています。

 「横浜美術館コレクション×18区」では、これらの作品や作家についてご紹介します。

 今回は、港南区ゆかりの作品、山中 雪人《釈迦三尊》と水谷 愛子《亮と兄ちゃん》についてのご紹介です。

山中 雪人《釈迦三尊》
1987(昭和62)年、紙本着色
197.0×311.0cm
横浜美術館蔵

水谷 愛子《亮と兄ちゃん》
1990(平成2)年、紙本着色
164.8×210.2cm
横浜美術館蔵

夫婦そろって、は初の快挙! 共に高め合い、それぞれ築いた絵画世界。

 山中雪人と水谷愛子は、共に広島育ちです。二人は終戦後に広島で出会い、ほどなく結婚して横浜市に新居を構えました。以後亡くなるまで、半世紀以上にわたり横浜市内に住み、制作を続けました。二人が、1975(昭和50)年からおよそ30年、最も長く住み、多くの作品を制作したのが、港南区です。画室で互いに切磋琢磨し、それぞれの絵画世界を築きました。

 雪人と愛子は共に、伝統ある美術家団体、日本美術院が行なう院展に、作品を発表していきました。そして「同人(どうにん)」と呼ばれる同団体の中心メンバーになりました。夫婦揃って同人となったのは、この二人が初めての快挙でした。

 雪人は、実家が寺でしたが、インドネシア・ボロブドウ―ルの仏跡で感銘を受けたことをきっかけに、1970年代はアジアの仏跡をめぐって絵の構想を広げます。釈迦や仏教をテーマに尊厳と気品をたたえる宗教画を追究しました。1984、85、86年と院展に発表した仏画が3年連続の日本美術院賞を受賞し、同人となりました。翌年、第72回院展に発表したのが≪釈迦三尊≫です。法隆寺金堂の国宝・釈迦三尊像がモチーフ。三体の仏像は、ほとんど線描画と呼べるほど、厳しく確かな線だけで描かれています。色彩を押さえた画面全体が、上品で柔らかな金色の光をたたえ、三尊像は品格と滋味を併せ持つ穏やかな神々しさに満ちています。

 一方、愛子は、主に人物画に取り組み、確かなデッサン力と特有の造形感覚を発揮しました。色使いと幾重にも塗り重ねた絵肌にも特徴があります。院展の出品作≪亮と兄ちゃん≫は、三度目の日本美術院賞を受賞した代表作の一つ。モチーフは、前年の≪裕太と亮ちゃん≫に続き、孫たちです。愛子は、幼児は、発育段階で身体の部位がそれぞれまだ均整がとれていないだけに形をとらえるのが面白いと言います。孫だから遠慮がなくてよく描けたと述べるその姿は、可愛いさだけを発してはいません。人物の実在感をとらえようとしています。また、抽象化した背景は画面に広がりを持たせています。赤、緑、青などの色は孫たちを引き立たせていて、色使いの妙にも気づかされます。

 雪人、愛子、それぞれの力作が、横浜美術館には収蔵されています。

 山中雪人と水谷愛子のほかの作品について知りたいと思ったかたは「コレクション検索」をチェックしてみてくださいね。

横浜美術館スタッフが18区津々浦々にアートをお届け!
「横浜[出前]美術館」訪問記 ―「横浜美術館コレクションからみる戦後日本の写真」―

 横浜美術館は、休館中の間、学芸員やエデュケーター(教育普及担当)が美術館をとびだして、レクチャーや創作体験などを横浜市内18区にお届けします。その名も「横浜[出前]美術館」!

 第11弾は、港南区の横浜市港南区民文化センター「ひまわりの郷」に、学芸員によるレクチャー「横浜美術館コレクションからみる戦後日本の写真」をお届け!「横浜[出前]美術館」訪問記では、その様子をレポートします。

 また講座参加者の皆さんに「みんなに伝えたい!わたしの街のいいところ」をきいてみました。今まで知らなかった新たな魅力が見つかるかもしれません!

「新興写真」からはじまる戦後日本の写真
講座名:「横浜美術館コレクションからみる戦後日本の写真」
開催日時:2022年7月23日14時~15時30分
開催場所:横浜市港南区民文化センター「ひまわりの郷
講師:大澤紗蓉子(横浜美術館学芸員)
参加人数:18名

 今回、会場となったのは、港南区にある横浜市港南区民文化センター「ひまわりの郷」。京急線・横浜市営地下鉄「上大岡駅」に直結し、ショッピングセンターや公共施設が入る「ゆめおおおか」の4階にあり、交通アクセス良好な施設です。主催コンサート等も行なわれる「ホール」、小規模なコンサートや練習に使える「音楽ルーム」、美術作品の展示・ワークショップに最適な「ギャラリー」をはじめ、「練習室」「会議室」「情報コーナー」など充実した施設が整っています。

 また、建物の内外には、駅前再開発計画の一環として構想された「ゆめおおおか・アートプロジェクト」により、奈良美智や村上隆など18人のアーティストがつくった19点のアート作品が設置されています。どこにあるかは、ぜひ実際に訪れて探してみてください!

 講座では、まず戦前〜戦後日本における写真の歴史を横浜美術館のコレクションをベースに紹介。最後に横浜を拠点に活躍した二人の女性写真家の作品を見ていきました。

1930年代:はじまり「新興写真」

 今回の講座のはじまりは、「新興写真」という動向の紹介から。新興写真とは、第一次世界大戦後のヨーロッパで生まれた写真表現に影響を受け、新しい写真表現を模索していた日本の写真家たちがおこした動向です。それまでの写真表現が「絵画のような写真」を目標としていたことに対して、写真本来の機能・役割を活かした表現が生まれます。

 この時代、伊奈信男という評論家を中心に、要約すると以下の3つの方向性が目指されていました。

①カメラの眼によるあたらしい世界、あたらしい美の創造

 カメラのメカニズムを活かし、極端なクローズアップや仰角の撮影によって、人間の目では捉えきれない光景を写し出す。

 横浜美術館のコレクションからは、ドイツに留学して写真を学んだ堀不佐夫、版画家としても知られる恩地孝四郎の写真を紹介しました。

恩地孝四郎《ウラシマソウ・芽》
1938年頃、横浜美術館蔵

②写真によって時代を記録し、生活を報告する

 写真は現実を記録するという役割に立ち返り、時代・生活・風俗をこれまでにない方法で探究する。

 ここでは、木村伊兵衛の1930年代のストリート・スナップや小型カメラによる肖像写真などを紹介しました。

③写真は光の造形である

 フォトグラムやフォトモンタージュといった方法を使い、写真ならではの「光の造形」を生み出すこと。

 ここでは、ヨーロッパでこの考え方を提唱したラースロー・モホイ=ナギによるフォトグラムという技法を使った写真を紹介しました。この技法は、国内ではフォトデッサンという作品を残した瑛九(えいきゅう)などに応用されています。

ラースロー・モホイ=ナギ《ストローのフォトグラム》
1939年、横浜美術館蔵

瑛九《『眠りの理由』より》
1936年、横浜美術館蔵

 1930年代は、アヴァンギャルドで華々しい表現が展開される一方、満洲国建国、国際連盟脱退、日中戦争勃発と日本の軍国化が進み、国際社会から孤立を深めていく時代でもありました。

1930-40年代:展開「報道写真」

 こうした新興写真の動きと並行して日本に紹介されたのが「報道写真」の考え方と方法論です。

 報道写真は、ドイツのグラフ雑誌で活躍していた写真家・名取洋之助によって日本に持ち込まれました。名取は、1933年に木村伊兵衛、伊奈信男らと「日本工房」を設立します。この日本工房は、日本で初めて報道写真という言葉を掲げて活動をはじめた組織でした。

 そして1934年にはグラフ雑誌『NIPPON』が創刊されます。この雑誌は、前年の国連脱退を経て国際社会で孤立してゆく状況を背景に、対外宣伝のために、日本の良い姿を世界に知らしめようと、フランス語、ドイツ語、英語などで発行されました。

 また日本工房は、会社として写真素材を収集し、依頼に応じて配信する「ストック・フォト」を日本に導入したことでも知られています。横浜美術館では、日本工房による写真のサムネイルが収められたアルバム99冊を所蔵しています。ここには、土門拳が撮影した横須賀での海軍の訓練風景や、名取が取材したベルリン・オリンピックの競技の様子など、『NIPPON』に掲載された写真をはじめ、歴史的にも貴重な写真が多数含まれています。

日本工房による『NIPPON』他のためのコンタクトプリント
横浜美術館蔵
(「Hanran: 20th-Century Japanese Photography」2019-2020年、ナショナル・ギャラリー・オブ・カナダの展示風景より)

 『NIPPON』は、創刊の翌年から外務省の外郭団体であった国際文化振興会の援助を受けるようになります。やがて日本が太平洋戦争に突入すると、その内容は日本政府によって大東亜共栄圏と名付けられたアジア地域向けに変化し、1944年まで刊行されました。

『NIPPON』創刊号(復刻版)
1934年/2002年、国書刊行会、横浜美術館美術情報センター

 そして1945年8月15日、日本は終戦を迎えます。この日、ラジオを通して日本の敗戦を知った写真家の濱谷浩は、敗戦の衝撃から一枚の写真を撮影します。それが《敗戦の日の太陽、新潟》です。この写真は、日本の戦後写真のはじまりと呼べる一枚です。

1950年代:追求「リアリズム写真」

 戦後、日本の写真界で一大ブームとなったのが「リアリズム写真」でした。リアリズム写真とは、土門が写真雑誌『カメラ』でアマチュア写真家の月例審査員を務めた際に理論化した方法論を指します。撮り手の都合や意図によって被写体が極度に操作されない「絶対非演出の絶対スナップ」や「モチーフとカメラの直結」というテーゼがよく知られています。

 この時代には、戦前に土門とともに青年報道写真研究会の発足に加わった林忠彦や、1949年に横浜写真作家倶楽部を創設した奥村泰宏、そして木村伊兵衛らが活躍しました。

奥村泰宏《カストリ横町》
1949年、横浜美術館蔵

1960年以降:対抗「パーソナル・ドキュメント」

 1960年代になると、戦後派と呼ばれる世代の写真家たちが登場します。彼らは一様に、リアリズム写真や、それ以前からある報道写真のあり方を乗り越えようと、新しい写真表現を模索し始めます。

 代表的な写真家に、奈良原一高、東松照明らがいます。横浜美術館には、これまで戦後派の写真作品がほとんど収蔵されていなかったのですが、2021年度に奈良原一高アーカイヴスより、奈良原一高の作品128点をご寄贈いただきました。奈良原の最初期から晩年までを辿ることができる作品群は、リニューアル後のコレクション展で紹介する予定です。ご期待ください。

常盤とよ子と石内都

 そして最後に、戦後を代表する女性写真家として知られる、常盤とよ子と石内都を紹介しました。

 常磐とよ子は、1928年横浜市神奈川区生まれの写真家。1957年に横浜の赤線地帯を撮影した写真集・エッセイ集『危険な毒花(あだばな)』(三笠書房、1957年)を刊行。大ベストセラーとなります。1958年に売春防止法が完全施行される前の時代、女性がひとりで赤線地帯を歩くことは危険だったため、この写真集に掲載された写真の多くは、隠し撮りが基本でした。常磐の写真のポイントは以下の3つ。

・リアリズム

 「その当時、多くのカメラマンは、リアリズムなどといって、変に汚らしいもの――例えば浮浪者だとか、ドヤ街だとか――敗戦後の日本に氾濫していた醜悪な対象物を写すことが流行しかけていた。わたしもそういうテーマに心をひかれるようになり、鉄屑の回収なんかを選んで、習作をつづけた。」と、『危険な毒花』に記しているように、常盤とよ子は1950年代のリアリズム写真運動の影響下にあります。

・スナップショット

 カメラに気づいていない被写体を手持ちカメラで素早く撮影することで人々のリアルな姿を捉える。いわば隠し撮りの手法は、日本では戦前からスナップショットの理想的な撮り方とされていました。

・エンパワーメント(力を付与すること)

 写真研究者の甲斐義明氏は『ありのままのイメージ:スナップ美学と日本写真史』(東京大学出版会、2021年)のなかで常盤作品に触れて、ある問題を指摘しています。「戦時中にひたすら国家権力に監視される側だった民衆はカメラを手にすることで見る=撮る側へと回り、『見る-見られる』の非対称の構造を、都市の群衆の内部に生み出す。」つまり、社会的弱者を写真に撮って発表するといった写真家と被写体の一方的な関係性を生んだり、カメラを持つことで被写体は自分とは違う劣った存在だという差別的な感情を写真家が抱いてしまったりするということです。

 このように、戦後写真における女性写真家のパイオニアとしての作品の価値と、今現在の道徳的価値観のなかで作品を見たときに指摘できる批評性、その両面についてお話ししました。

 石内都は1947年群馬県桐生市生まれの写真家。1977年の初個展「絶唱、横須賀ストーリー」が評判となり、1981年には写真集『連夜の街』(朝日ソノラマ、1981年)を刊行。それは、常盤の写真集発刊から約20年の歳月を経て、売春防止法施行後の日本において、石内曰く「歴史から抹消されたはずの街」となった赤線跡地を撮影した写真集です。

 石内作品の特徴は、今回お話ししてきた戦後写真のキーワードに則すと以下の3つ。

・パーソナル・ドキュメント

 「写真機を手にしたその時から、写真を撮るというよりも、自分の感情の起伏の最も高まった時点でシャッターを切ってきた。それは追憶というべき感情が眼のあたりにした現実に向かって、すばやく喚起しようとする瞬間を自分の手でしっかりと確かめる手段のようだった。」と、石内は『連夜の街』に記しています。リアリズム写真運動から時代が移り変わり、石内は被写体と向き合った自分の感情を確かめるように写真を撮っています。

・<もの>のスナップ

 こちらも写真研究者の甲斐義明氏が『ありのままのイメージ:スナップ美学と日本写真史』のなかで石内作品に触れ、「手持ちの小型カメラで素早く撮影することで、物体の新たなイメージを生み出す方法を模索」することと指摘しています。常盤作品では、赤線で働く女性が主題であったのに対して、石内作品では「女性たち」がいなくなり、朽ちていく建物の内装や天井、壁だけが写されています。

・「創作」としてのプリント

 石内の写真は、プリントをする際に、計算された「覆い焼き」(印画紙にフィルム画像を露光する際、手や厚紙などで光をさえぎり、画面の濃淡をコントロールする手法)をすることで、意図的にプリントを作り込むことが大きな特徴です。〈連夜の街〉シリーズには、印画紙への露光時間を細かく計算したスケッチが残されています。スケッチでは、被写体の部分ごとに印画紙への露光時間を変えることで、赤線跡地の濃密な空気を反芻し、見せたいものを浮かび上がらせるようとする石内の意図が確認できます。

 日本の写真史のなかで挙げられてきたキーワードに基づきながら、二人の女性写真家がとらえた「赤線」の写真を比較してご紹介しました。

※新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、ガイドラインを遵守した対策を講じた上で実施しています。

●「横浜[出前]美術館」開催予定の講座はこちら

18区の魅力発見! 講座参加者の皆さんにきいた「みんなに伝えたい!わたしの街のいいところ」

 横浜のことを知っているのは、よく訪れたり、住んでいる方々!

 講座参加者の皆さんの声から港南区の魅力をご紹介します。

 上大岡駅周辺には商業施設が充実!農村のおもかげも残す暮らしやすい街。

・上大岡駅周辺の賑わい(戸塚区在住、70代)
・変化ある地形とまだ多く残っている緑(港南区在住、70代)
・港南台から鎌倉までのハイキングコース(途中には観察の森もある)(港南区在住、70代)
・横浜の中心からは遠いけれど商業施設が充実している(港南区在住、60代)
・昔、日野町に住んでいて、ベッドタウンで活気がある町と感じていた(戸塚区在住、70代)
・農村の面影が残る場所あり、商業地区あり、暮らしやすいところ(港南区在住、60代)

――みなさんもぜひ港南区を訪れてみてくださいね――

・南区編「波間に浮かぶタコとカニ。確かな技術が可能にした三代井上良斎の自由な作陶。井上良斎(三代)《波文象嵌壺(はもんぞうがんつぼ) 銘「海」》」はこちら
・旭区編「絵からどんな歌がきこえる? 岡本彌壽子(やすこ)《幻(捧げるうた)》」はこちら
・都筑区編「波しぶきにこめられた、荒ぶる海のエネルギー。クールべ《海岸の竜巻(エトルタ)》」はこちら
・金沢区編「カラリストの真骨頂、色の魔法使い。高間惣七《カトレアと二羽のインコ》」はこちら
・戸塚区「幕末のイギリス人写真家・フェリーチェ・ベアトがみた戸塚。―カラー写真?絵画?どちらも違う「手彩色」写真とは―」はこちら
・青葉区編「中島清之が愛した青葉区・恩田町」はこちら
・栄区編「ステンレスと伝統的な漆芸の融合。新たな漆芸の可能性を追求する作家・赤堀郁彦」はこちら
・西区編「細やかな点描で、幻想的な世界を描く。田中惟之《港の博覧会》」はこちら
・磯子区編「大雪の中を行く行商人が運んでいるものは?「新版画」にみる大正時代の根岸の情景。」はこちら
・鶴見区編「埋め立てが進む前の生麦の姿を捉えた、石渡江逸《生麦の夕》。黄昏時の下町風景にみる人々の暮らし」はこちら

※この記事は下記を一部編集のうえ、転載しています。
「木村伊兵衛から石内都まで。戦後日本の写真の系譜」
 https://yokohama-art-museum.note.jp/n/n4ba4b052d93f